― 謙虚 ―

 科学者は夢を持っている。

 科学者は「普通の人」より偉く、物理の計算もできるし、遺伝子の操作もやれると思っている。しかも、我々が自動車を発達させたから庶民は寒い思いをせずに病院に行けるじゃないか、携帯電話がなんのかんのと言っても、みんな便利な思いをしているじゃないか、と心の中で思っている。

 その点では科学者は傲慢である。自分の発明や技術が人類にどのような影響を与えるのか、そんなことを深く考えている訳ではない。自分は能力があるし、毎日、人類のために努力している、だから、自分は偉い、という論理である。

 もちろん能力があるから社会に役立つわけでもないし、毎日、努力すればそれがみんなを幸福にすることもない。堂々巡りの結論を出しているに過ぎない。

 ・・・社会に貢献するには能力があり努力しなければならない。自分は能力があり努力しているから社会に貢献しているはずである・・・という循環論法であって論理は破綻している。

 いかに科学者でも自分を正当化するためには論理の破綻も気にしないという点が人間らしいところで、だからこそ徹底的に悪魔になることはできない。可愛いものである。

 でも同時に科学者は謙虚である。

 科学者は定期的に、ペナルティーを受ける。そのペナルティーとは「自分がこれまで、正しいと考えていたことは間違っていた」という罰である。科学は厳密な検証手段を経てその学問的体系を作り上げていく。

 でも、同時に科学者は新しいことを目指して日夜、努力する。「新しい発見」は時としてこれまでの学問の延長線上である場合もあるが、「優れた発見」になるほど学問の延長線上にはない。

 そうなると、科学者は「今までのことは間違っていた」ということを証明しようと一生懸命ということになる。このような学問的進歩はアインシュタインなどのレベルではもちろんであるが、日常的な技術者の仕事もそうである。

 たとえば、ある技術者が「実験」をする。実験をする前にはそれについてのある学問的知見があり、「おそらくこうなるだろう」という推定ができる。そして実験してその通りになるのも悪くはないが、少し、不満である。実験結果が予想通りなら、厳しく言えば実験をする必要性がない。

 実験とは「思いがけない結果」を求めるものである。

 わたしの研究室もレベルはそれほど高くはないが、毎日、スリルのある研究をしている。それはプラスチックを燃えなくする研究で、難燃研究と言う。一応の理屈があり学問的にも整理されているが、それでも「新しい触媒を加えることでまったく燃えなくなることがあり得る」という状態である。

 プラスチックの短冊をぶら下げてバーナーで火を着ける。それだけの実験だが、スリル満点である。学生は毎日、バーナーで火をつけ、メラメラと燃える試料を前にして、
「あーっ!ダメかっ!」
と大声を上げる。

 そんな日が半年続いてもへこたれてはいけない。我々には夢がある。「きっと、火が着かない日が来る。その日が来たらこの世から火事が無くなる!」
と信じているからである。そしてそれはバーナーを試料から離した瞬間まで判らない。

 わたしの研究室では理詰めの研究もしているが、わたしにはこんな一か八かの研究の方が好きだ。「こんなことがあるのか!」というのが研究の醍醐味だからである。現在の所、オールマイティーにプラスチックを燃やさないようにすることはできない。でも、きっと近い将来にそんな物質が見つかると思う。

 今、できない。今、できないということは現在の学問でいくら考えてもプラスチックが燃えないような普遍的な方法は無いということである。それなら研究しても仕方がない。今の知識が正しければ研究は必ず失敗するだろう。そして今の知識が間違っていれば成功する可能性がある。

 わたしは「難燃の勉強」をしている。日本でもその点では一、二を争うだろう。でも自分が勉強している難燃の学問が間違っていることを期待して勉強している。「そうだ」と思ってはいけない。これまでの研究成果、そしてそれをまとめた学問は間違っているのだ。そうでなければわたしは研究しない。

 伝熱、反応速度、拡散、エンタルピー、副反応、燃焼限界、燃焼限界の加算原則、沸点の推定、ラジカルの寿命とイオン、酸素の拡散、高分子表面、モルフォロジー、主鎖の熱分解、炭化層の形成、脱水反応、転位反応・・・・あらゆる学問が深く関係する。そのうち、何かが必ず間違っているはずである。

 勉強し、式を解き、計算をしていても、このうち、何かが間違っているか、何か別のことを考えなければならないのか?もし、できるとすればそうであり、できない時ももちろんある。研究だから不成功が多く、成功は少ない。

 そういえば、今まで「自分の考えは間違っていた」と何回、思っただろうか?理論があり、実験データがあり、すべては揃っているから「これは、こうだ!」と信じたことも、やがて間違っていることが判る。それを繰り返してきた人生だった。

 だから、科学者は謙虚である。自分が正しいと考えていることは間違っているのだから。

つづく