― 夢 ―

 科学者というのはとんでもない夢を持っているものである。その夢はほんの10年前には考えも及ばなかったものであり、夢を語る科学者を目の前にしても「この人、少しおかしいんじゃない?」とつい疑ってしまう。

 ほんの10年前。日本人の誰もが常に電話を携帯し、それがなければ1日も過ごせないというような状態になるとは夢にも思っていなかった。その頃、少し変わり者で忙しい実業界の人が「どこからでもかけられる電話」というものを持っていて「オレは偉い」と威張っていたものである。

 それがわずか10年で女子高校生に笑われるようになる。科学の夢とはそういうものだ。だからといって携帯電話が「人生にとって意味があるのか?」などと聞いてはいけない。科学は自分たちが興味本位で作った作品を社会が受け入れるかどうかは問わないのだ。

 このことについては異論がある。
・・・科学者が興味本位で、テレビを作り、電子レンジを作り、新幹線を走らせ、携帯電話などというものを作った。私たちの人生にそんなものは要らない。私は本を読み、七輪をおこし、馬車で大阪に行き、そして手紙があればそれで十分だ・・・
という考えは大いに賛成できる。

 第一、「便利な物」ができると、「それを買いたくなり」、その結果、「お金が欲しくなり」、「いつでも働き」、そして最後には「自分の人生を失う」のだから、便利な物は人生の敵なのである。

 でも、科学者という種族を撲滅することはできない。彼らは人間の心の中に「興味」とか「改良の心」がある限り、その割合に従って出現してくる者だからである。彼らは「科学を進歩させることは人類にとって重要なことだ」と言うだろう。

 確かに、一理ある。今からたった150年ほど前の江戸末期。庶民の平均的な生活は下の図のようなものだった。水洗トイレ無し、炊事場では薪を焚き、蚊やアブに悩まされていた。

 科学嫌いの人に「この世界に戻りますか?」というと一様に首を傾げる。どちらかを選択しろと言われると今の便利で衛生的な生活が良いということになる。

 今からわずか80年前。日本人の平均寿命は42歳だった。お産で多くの女性が死に、その直後に生まれた赤ちゃんが死に、幼い頃、腸チフスで死に、若くして結核で死に、そして戦争で死んだ。人生で50歳を迎えることができる人はそれほど多くはなく、運不運の激しい人生だった。

 それが今は80歳を越えるまでになり、しかも多くの人が60歳を越えても健康で元気だ。人の命こそ大切なものであれば、科学の夢はそれを実現した。夢見る科学者もそれほど悪くはない。

 1万年前の日本人は森に住み、あるいは貧弱な縦穴住宅でその人生を送った。自然は常に厳しく、そこに住む人を襲ってきた。平均寿命は20歳台だったと考えられている。

 平安時代。今からわずか1000年前だが京の都ですら、妖怪が住み、貧民街には鬼がいた。飢饉に見舞われ、女性は30歳にもなるとお産、家事、育児でぼろぼろになり、寒い冬を乗り切れずに寂しく死んだ。彼女の人生はただ子供を産み、育てるためのものでしかなかった。

 1000年後。家事労働というのは一切、存在しなくなった。ロボットが掃除・洗濯をすべてやってくれるし、遺伝子工学によってどこでもどんな時にでも好きな食べ物を作れるようになっていた。常に新鮮で自分が一番好きな食べ物を食べながらの人生になった。

 1000年後にはアーカイブも完璧に整理されていたから、平成の御代の映像を瞬時に見ることができたが、それを見た人々は「こんなに酷い生活をしていたのか!」と一様に驚き、そして自分が平成に生まれなかったことを神に深く感謝した。

 それから1000年が経った。人類が誕生してから550万年を経ていたが、恐竜が繁栄した2億年、新生代になって出現した怪鳥の2000万年前と比較したら、まだ人類の進化はそれほど進んではいなかった。それでもすでにロボット文明は終わりを遂げ、身の回りのすべてのものはその人の考え通りに独りでに整うようになっていた。

 食事は相変わらず、人生でもっとも楽しいひとときを提供してくれたが、準備も何も要らなかった。ただ「あれを食べたいな」と思っただけで良かった。病気というものも無くなり、自分の体は「自己修復丸薬」さえ飲んでいれば、体の中の細菌やウィルスの状態を分析し、常にもっとも良い状態に治してくれたからである。

 その人たちはアーカイブなどを見なくても1000年前の生活を体験することができたが、それは実に酷いものだった。「私たちはあんな酷い時に生まれなくて良かったわね。ロボットなんてものを使っていたんですって!」と言った。

 科学は止めどもなく進んでいく。1000年前の日本人は2000年前の日本人を哀れみ、現代の人は平安時代や縦穴住居には絶対に住みたくないと思う。1000年後の日本人は我々の生活を笑い、2000年後にはその人たちもまた哀れみの対象になる。

 もし「科学の発達によって人生は幸福になる。」と仮定しよう。

 この仮定はきわめて納得性のある仮定だ。水洗トイレ無し、寿命42歳と、ウオッシュレット付き清潔トイレ、寿命84歳を比較して自ら前者を選択する人は変人の誹りを免れないだろう。

 でも、もしこの仮定を認めると、人類が滅亡する直前の1000年間に生きる人だけが幸福で、その前の1000万年を生きた人たちの人生は、すべて悲惨だったということになる。最後の1000年に生きる人の人生の時間に比べるとその前の1000万年に生きた人の人生の時間は約1万倍である。

 科学は99.99%の人の人生を不幸にしたという奇妙な結論を導いてしまうのである。

 おそらく次の結論が正しいのだろう。
1) 人はどういう状態が幸福なのかという結論を出すことができない。
2) なにが幸福だろうとなんだろうと、この世から科学者を撲滅することはできないし、結果はどっちにしても同じ。

 人間という存在は未来を考えて行動できるものではない。今日の活動の延長線上に未来が自然に来るのであって、未来は人間には設計できない。「科学者の夢」とは幸福が何かが判らない人間の幻想だと思う。

 ところで、科学が発達すると水洗トイレと携帯電話ができるが、その分だけ私たちの体から「生きる心」が奪われているとわたしは思う。新幹線の速度が速くなると「生きる時間」が奪われるとわたしは思う。だから、科学の発達は代償を伴い、我々の努力は結果的には何にもならないだろう。

 改善したい、楽な生活をしたいという希望は幻想であり、幻想が我々に生き甲斐を与える。科学者の夢というのはその個人の錯覚であり、夢である。

つづく