- ルールと目的 -

 

 わたしは今、「税金で暮らしているところ」で仕事をしています。少し前までは「自分たちで稼いだ分で暮らしているところ」で仕事をしていました。税金で暮らしている人たちも、自分たちで稼ぐ人たちも、人柄は良く、人情は厚く、そして真面目なのですが、そこでの仕事ぶりは天と地ほど違うのです。

 特に驚くのはそこで使われている「ルール」です。日常的なルールはそこにいる人たちの納得性が必要ですから、ある意味で「総意」のようなものです。

 ます、抽象的にその差をまとめると次のような特徴が見られます。
1) 税金で暮らす人:他人に非難されないように、仕事ができるだけ楽になるようにルールが決められる。全体を見る必要が無い。
2) 自分で稼ぐ人:仕事の能率が高くなるように、赤字にならないようにルールが決められる。常に全体を見て判断しないと怒られる。

 その例を2,3挙げてみます。ある時に事務から次のような通達が来ました。
「大きな不要品は決まった時期に出してください。次は半年後の2月ですから、その時にお知らせします。これはルールです。」
もちろん、このルールは「税金派」の職場のものです。これが「稼ぎ派」では、
「不要品を職場に置いてはいけません。直ちに出しましょう。」
ということになります。

 自分でお金を稼ぐ時には職場の面積はできるだけ小さくして、賃料を下げなければなりません。そしてその面積をできるだけ有効に使わないとすぐ赤字になります。だから大きな不要品を半年も置いておく余裕は無いので、「不要品を置いておくとはなんと言うことか!」と叱られます。

 自分で稼ぐところの毎日は、「不要品を捨てること」と、そして表現はあまり良くありませんが、「不要になった人をできるだけ早く解雇する」という事に尽きます。

 ところが税金の場合は損得は関係ありませんから、「物品管理係」の人が楽になるようにしなければなりません。その結果、「何月何日から何日までに不要品を出してください」と言うことになります。

 一見、もっともなルールですが、このルールは「不要品を職場に置いて良い」と言うことになり、それは「不要品を置いてある場所の賃料はどうするか」という職場からの質問に答えられなくなります。

 こういうところで「置いておくところが無いのだが」と言っても全く無駄です。税金で作られる建物はどんな時でもゆったりと作られていて「能率」とか「効率」という考え方自体がありません。

 また、税金で暮らしている職場は原則として「首切り」はありません。「首切り」は決して良いことではないのですが、税金を納めている人たちから見れば、公的な職場にもし「不要な人」がたまっているとすれば、それは不快なことだと思います。

 このように「ルール」とはその職場の「目的」によって決定されるものであり、道徳では決まりません。道徳というのは人によって違うので、ルールを作る時に混乱するからです。

 次の例。

 わたしの職場では、人事関係、給与、税金関係、健康保険など人に属する管理状態に「不思議なルール」が存在します。わたしはそれが良く理解できず、いつもヘマをしていますが、おそらくは「能率第一」と「形式第一」という目的とは異なるルールに発展しているのだと思います。

 わたしの家族や住所、そして電話番号など身分的なことに変化が生じますと、職場の人事に申請します。これは社会一般に行われているルールで、所属している組織としてはそこに働く人がどこにいて家族がどうなっているのか判らないと困るからです。

 ただ、日本がまだ貧乏だったころの処遇体系が残っているので、日本では特に従業員の家族の状態を把握するのは大切です。もちろん、仕事は個人個人のものですから「職場が知る家族の情報は必要最小限に」というのが当然で、本人が働いているのに家族のことを詳細に報告するというのは日本の後進性を示しています。

 わたしは学生の家庭の事などは自然にそのような話になることがなければ聞きません。目の前にいる学生本人をじっくりと見て、その人を成長させるように意識を集中させます。家族を知ることは大切ですが、まずは「本人」ですから。

 それはともかく、わたしが驚くのは、家族の住所の変更を人事に申請すると、次に給与の係から「変更届を出せ」と言ってきます。さらに税金の時にもう一度書き、健康保険組合となればまったく別扱いです。実際は何回、出すのか数えたことは無いのですが、毎年、何回かは出します。

 特に面白いのは、8月の末に同じような家族の届け出を2つすることです。内容はほとんど全く同じ、申請書を手で持っていく先の事務も同じですが、最後の宛先が違うのです。2つの同じ申請書が行く先の事務所は「隣」かも知れませんが、その間に「縦割り」の高い壁があるのです。ベルリンの壁のように・・・

 これを、わたしが「面倒だ」というと「あの先生はわがままだ」と言われますが、実は「わたしが職場にいる時間は最大限、能率を上げないと脱税になる」とわたしは思うからそう考えているのです。私たちの仕事の時間には税金が支払われます。

 仕事を不能率にやるというのは積極的な脱税ではありませんが、消極的な脱税に当たります。組織の目的のために自分のことをできるだけしないで、公的な役割に全力をあげる、それが職務というものであると、かつて稼ぐ職場にいたわたしは信じていました。

 能率第一と形式第一ではずいぶん違う世界ができるものです。わたしは学生に次のように教えることがあります。

 国立大学には教育のために多大の税金が支払われます。そこで、わたしは授業をサボる学生に、
「国立大学の学生が講義をサボるのは“脱税”だから、サボったらそれに使われる税金を返しなさい。国民は君が勉強するために税金を払ってくれているのだから」
と指導しています。学生は目を白黒とさせていますが・・・

おわり