― 教育者の確信 ―

 大学今昔物語の第一回目に、教育基本法と大学の中の駐車規制のことについて話をした。教育は「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民」を育てるものであり、大学はその教育がほとんど終わりかけている人で、優秀者、つまり「教育に成功した人」が集まっているところである。

 その大学に「駐車してはいけない」「最高速度は20キロ」などという看板が並び、それでも言うことを聞かないので物理的な障壁が置かれている。私はそれを見て教育の熱意を失った。その理由を書く前にもう一つの例を示したい。

 キャンパスに入ると交通規制の看板が乱立していつも苦々しく思っていた私は、最近になってさらにビックリ仰天した。それはある建物に入ろうとした時だった。

 な、なんだ!?こ、これはっ!?ここは大学か!?

 これから講義をしようと建物に近づいた私は立ち止まった。開けようとした扉とその周囲に、あろうことか派手な看板が6つもべたべたと貼ってあるではないか!「禁煙」「禁煙」・・・「禁煙」・・・。ここは大学である。小さく「構内禁煙」もしくは「タバコは指定された場所でお吸いください」ぐらいをすてきなデザインで書くのが大学としては精一杯である。

 本来はそれも要らない。車を駐車して良いところと悪いところ、タバコを吸って良いか悪いかが判らないようでは、大学を辞めて貰った方が良いからである。もしどうしても看板を立てたかったら、「あなたは、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民ですか?」と言う方が少しはましである。

 もし、大学がこのようなことをしなければ運営できないのだったら、大学という看板を下ろし、講義は止めた方が良い。意味が無い。いや、すでに交通標識も禁煙の看板も貼られてかなりの時間を経過するのだから、そろそろ大学を廃業する通知を頂くかも知れない。

 なぜ、大学に交通規制や禁煙の看板があってはいけないのかを説明しておきたい。おそらくこの看板を立てた人は大学とは何かを一度も考えたことは無いだろうから。

 まず第一に大学には、看板を見なければ善悪がわからないような人は居ないはずである。居ないことを前提にしなければ大学というところはその機能を発揮することが出来ない。大学では先生は学生に「学校に出てきなさい」などというバカなことは言わない。そんなことを言わなければならないのならば大学を辞めなければならないからである。

 でも、本当は第二番目の理由が大切である。

 「悪い人間」に「正しい行動」をさせる4つの方法がある。何が悪いか何が正しいかは難しいが、ここではごく普通に悪い、正しいとしておきたい。

方法1  逮捕して法律で罰する
方法2  小言をいって止めさせる
方法3  教育をしてやらないようにする
方法4  神様に諭してもらう

 方法1は最後の手段で、それを担当するのが社会では警察官、裁判所である。
 方法2は、普通はお母さんがやってくれる。

 方法3が我々、教育機関の担当である。教育とは「その人のレベルを上げて、法律が無くても、小言を言われなくても自分自身で判断し、理性を働かせて、やらない」という人を作ることである。

 ここに駐車したら1万円の罰金ですというのは方法の1であり、「駐車してはいけません」と言うのが方法の2である。でも教育はその両方ともしない。時間も手間もかかるが「人の迷惑になるところには駐車してはいけない。どこに駐車したら人の迷惑になるのか、それは自分で考えなさい」というのを根気よく指導するのが教育である。

 だから、大学という教育機関の中に、駐車禁止の看板を立てたり、万が一にでも罰則を決めてはいけないのである。大学のキャンパスは「一般社会」ではない。刑務所とかお寺の境内のように社会とは別の目的、特別の意味のあるところであり、そこでは一般のやり方をしてはいけないのである。

 現代の日本の大学は教育機関としては崩壊している。崩壊しているから、さらに崩壊させて良いというのがこの看板を立てた人の言い分であるが、私は教師であり、毎日、教育をしている。その身としては、この看板が貼ってある扉を開けて講義に行くわけにはいかない。 

つづく