― 塾は楽しいんだけど ―

 学校は嫌いだけれど、塾は好き、という子供は多い。学校の先生はなんとなく胡散臭いし、うるさいし、何かというと小言も言う。それに比べれば、塾の先生は好きだ。

 塾の先生は若い、面白い、そしてうるさいことは言わない、そして勉強ができる。成績が上がれば良いし、上がらなければ塾に行っても仕方がない。お母さんに聞いたら、「塾の先生の方が勉強されているから」と言っていた。

 なぜ、学校はうっとうしく、塾は楽しいのだろうか?

 憲法に教育を受ける義務と権利が書かれているが、憲法で決められているから教育を受けるのではない。私たちは「自分が教育を受けたいから」受けるのであり、憲法はいざという時の保証のようなものだ。

 「教育」というものはどういうものか、何を教えなければならないのかも教育基本法で決めてある。別に教育基本法で決めた通りに教育をしなければならないということはないが、「学校」という正式な名前が付いているところは、名前と内容が一致していなければ不便だから、社会に対して「学校の教育とはこういう事です」と宣言する。それが教育基本法である。

 教育基本法にはその第一条に、
「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民」
を育てるように教育をすると宣言している。

 だから先生は、真理と正義を教え、個人の価値を教え、勤労と責任を重んじるように言い、自主的精神を持った生徒を作ろうとする。もともと、教育とは「野獣の心を持った状態から尊厳のある人間へ」という意味があるから、このような教育の目的は納得されてきた。

 学校がうっとうしいのは判る。自分の中にある野獣の心を先生は攻撃してくる。君は正義を守ろうとしないじゃないか?君は友達を尊重したか?とやられるのだから、イヤになる。幼い児童にとって学校がうっとうしいのは当たり前で、教育には少し強制力がいるのである。

 「エミール」を著したルソー、子供の権利を最初に認めたルソー、教育を子供の立場で考えたルソーだが、それでも子供の心の特徴を次のように述べている。

 「最初はあのお菓子が欲しいと言う。それを与えると、次にはショーウィンドウにあるおもちゃを欲しがる。それも与えると、最後には夜空の星を取ってくれと言う。それはダメだというとその子供は泣き叫び、承知しない。」

 我慢の心、他人を尊重して自分が譲る心のようなものは、人間には最初から与えられていない。野性的な生活をしている場合には、年上の子供から殴られ、自然の中に迷って恐ろしい思いをし、そんな経験を積みながら「自分の限界を知り、他人を尊重する」という心が出来てくるが、現代の教育ではそれを人為的にやる。

 年上のやんちゃ坊主からしこたま殴られる代わりに、何とかしてそれを体験させるのだから大変だ。本来は、悪いことをすれば殴るのが正しい教育で、それが「人間に優しい」。そうすれば登校拒否やノイローゼは無くなるが、現代では殴れないので、じっくりと説明する。それは人間にとって辛いことである。

 いずれにしても、小学校、中学校、高等学校と合計、12年も「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民」になる教育を受けて、大学に入る。

 大学は、学問的にも人格的にも優れた教授陣と、12年間勉強し厳しい試験を受けてきた学生で構成される。事務の人や管理の人にも手伝って貰っているが、その人たちも教授と学生の活動に協力してくれる。

 かくして、大学は学問と教育の最高学府として尊敬を集め、学内は整然として乱れが無く、さすがは「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な人々」がいるところだなと感心することになるはずである。

 でも、大学は違う。事実は違うのだ。

 私が大学に来て第一に驚いたのは交通規制が多いことだった。広い構内だからある程度の交通の整理は必要ではあるが、名古屋の街中より看板も道路の注意書きも、果ては写真のように路面に注意書きをした上で徹底的にガードしている。

 私はこのキャンパスを見て、やや教育の意欲を失った。一体、12年間、教育基本法の下で教育を受け、さらに大学で物理学や法学など難しい学問を学び、及第点を取るような学生やそれを教える先生が、「どこに駐車したら迷惑になるか」が判らないのだろうか?

 大学なら、せめて小さく「ここに駐車するのはご遠慮ください」と書いておけば良いはずである。もしそれに反して駐車をする人がいたら、退学・退職だろう。看板を立てたぐらいでは言うことを聞かず、路面に書いてもダメ、ついに物理的に防御をしなければ駐車してはいけないところに駐車するようでは、「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民」というのは完全に空文になる。

 大学構内に交通規制の看板や衝立があることは、小さいことのように見えて、大学教育の根源に拘わる事なのである。

つづく