― 科学よ、お前もか! ―

 新聞はなぜ事実を報道できないのだろうか?

 この疑問は2005年度の郵政民営化選挙ですっかり解け、その後、私はマスコミの言っていることが本当によく理解できるようになりました。マスコミは「事実を報道する」のではなく、マスコミの会社の重役が決めた「正義」を報道して「社会を諭す」という事がわかったからです。

 でも、よく考えてみると、そんなことは新聞だけではなく、自然科学の世界にも多いことを感じます。昔は、科学はそれほど「方向性」を持っていませんでしたから、「学問は役に立たない」という非難もありましたが、逆に事実をねじ曲げるようなことも少なかったようです。

 自然科学は「先入観を持たず、素直に事実に向かう」ことがその第一歩です。でも先入観を持たないというのは実際には難しく、何かを研究しようとすれば今までの科学が築き上げてきた理論もあるし、「おそらくこうなるだろう」という予想もします。

 むしろ「こうなって欲しい」という心の声を聞かないのは大変な努力が要ります。

 だから、観察の結果や実験のデータを見る目も曇るのです。私は大学で教育をしていますが、多くの学生は科学的訓練を受けていないこともあって、事実をそのまま見ることができません。

 多くの学生は実験が上手くいって無事に卒業できることを心の中で期待していますので、できればそういうデータが出ることを期待しています。学生がいい加減な実験をしている訳でもなく、まして鉛筆をなめてデータを改ざんしたわけでもありませんが、ともかく期待に沿ったデータが出ることが多いのも事実です。

 時には、その反対もあって、学生が不安に思っている時にはだいたい良いデータは出ません。もちろん自然が人間の心に反応することはないので、学生が不安なら良い結果が出ないというのは、学生の不安が実験の注意力を奪い、良い実験ができないのだろうと思います。

 学生ばかりではなく、最近のように「こんな結果を出すと研究費がもらえる」ということになりますと、最初から結果を求めて研究をします。ベテランの研究者でもこのような強い方向性のもとで研究するとデータを見誤るものです。

 「事実は事実じゃないか。違うことは判るはずだ」との反論があるでしょうが、実は事実というのはそれほど単純ではありません。また、「再現性がないのはダメだ」と言われることもありますが、「再現性がある」ということはすでにその事実を確認し、咀嚼するからできることで、「再現性のあるデータが取れるなら、すでにその内容を完全に理解しているのだから研究ではない」といっても過言では無いのです。

 時々、データの捏造とか科学の不正というような記事が新聞にで出ます。その中の少しは本当にデータを捏造したような場合もあるでしょうが、多くの場合は不注意か、あるいはある先入観を持ってデータを見て失敗した例も多いと感じます。

 所沢のダイオキシン報道でテレビ朝日は最高裁で有罪判決を受けました。野菜が汚染されていないのに汚染されたように報道したという罪です。でも、「結果的にダイオキシンの規制が強化されたから良いではないか」という弁明も聞かれます。

 悪人なら間違った罪でも監獄に入れてしまう方が社会のために良い、というのもどうでしょうか?私は、いくら悪人だったとしても、もし監獄に入れるなら、本当にその人が犯した罪を明らかにして裁判で決めた方が良いと思います。

 もしそのようなことが科学で起こったら恐ろしいことです。データを作っても間違っても「結果が良ければ免罪される」という事になるからです。有名なウィルソンの霧箱の実験は捏造だったが、学問の進歩に役立ったのだから良いじゃないかという話と似てきます。

 本当にそういう理屈があるのでしょうか?

 人間という欠陥だらけの生物が「事実を見る」というのは非常に難しいことです。話が飛びますが、オオカミに育てられたオオカミ少女は長じて人間に助けられても、自分はオオカミだと思っています。いくら目の前にオオカミと人間とそしてその少女の写真を示して、「あなたは人間に似ている」といっても彼女は承知しません。

 目で見たものより自分が信じていることを優先するのが人間の頭脳というものですから、本当は、事実を見る時には「意見」や「感情」が先にあるのではなく、あくまでも、「事実→論理→意見→感情」でなければならないのです。

 このシリーズでマスコミが事実を報道できない原理を考えてきましたが、それはマスコミばかりではなく、社会全体に及んでいるかも知れないと思うと、なにか気が滅入ってきます。せめて、マスコミだけが事実を報道できないと錯覚して悪口を言っている方が、酒の肴になるような感じもします。

つづく