大切なのは子供か夫か?


 女性に、
「あなたは子供が大切か、それとも夫?」
と質問したとしよう。
「子供よ。決まってるじゃない!」

 しばらくして、その女性が、まだ若いのに夫に先立たれて未亡人になった。すぐ再婚して幸せな新婚生活を送る。新しい夫はどうも連れてきた子供に馴染まない。

「子供を殺して。あなたの子供を産むわ」

そのように答える女性はまずいないだろう。

 ハツカネズミのオス一匹、メス一匹の番(つがい)をカゴの中で飼育する。人間の場合は交尾をしたからといって妊娠するとは限らないが、ハツカネズミでは交尾をすると必ず妊娠する。そこで、ある動物学者が次のような実験をした。

 オスと交尾した直後にメスはそのままにして、オスだけをカゴの中から出して、別のオスに「入れ替え」たのである。そうすると、普通なら100%妊娠するはずのメスが子供を産まないのだ。確実に交尾したのだから、必ず子供を産むはずなのに、オスを入れ替えたときだけ妊娠しないのである。

 この原因はメスの体を調べてみて判った。オスを入れ替えると、メスは自分のお腹の中にいる子供をすぐ自分で堕ろしてしまう。

 新しいオスは、メスがさっき他のオスと交尾したかどうかを知らない。まして、交尾直後のメスが妊娠しているかどうかも知るよしもない。それを知っているのはメスだけであるのは人間世界と同じ。だから、メスは知らぬ顔して前の夫の子供を産んでも判らないはずなのに、メスは新しいオスが現れると、お腹の子供をおろしてしまうのはなぜだろうか?

 生物学者はさらに複雑な実験をしている。

 オスとメスのつがいを交尾させた後、メスが妊娠し、子供を産むのを見届ける。メスが子供を産むとまもなく、母親になったメスをカゴから取り出し、別のメスをカゴに入れる。さっきの実験と違って、今度はメス側、つまり母親だけ入れ替えるのである。

 オスから見ると、妻が急に変わって、今までの自分の妻ではないが、生まれた子どもは直前まで自分と同じカゴにいた子どもなので、子供は自分の子供である。ところが、オスは一緒にいる妻が新しい妻なので、一緒にいる子供も別のオスの子供と思って「子殺し」をする。

 オスは自分の子供なら一緒に生活するが、他のオスの子供と判るとすぐ殺す。

 そこで、この実験と反対の実験をしてみる。交尾をした自分の妻をそのままにして、子供だけを他のオスの子供と入れ替える。そうすると、オスは子供を殺さない。つまり、妻が自分の妻であれば、別のオスの子供であっても自分の子供と思って子殺しはしない。 

 この一連の実験は、深遠な事実を教えてくれる。動物というものはオスとメスで子供の識別能力が違う。オスは子供が自分の子供かどうかわからない。それは妊娠の瞬間を知らないので判らないのではなく、子供を見ても判別できない。最後の2つの実験がそれを示しているが、すでに子供が産まれていて、オスは自分の子供の顔を見ているのに、メスが新しくなるとその横にいる子供も新しいメスが連れてきた「連れ子」だと思って殺す。また、オスはすでに子供が産まれていて、その顔を見ている(または臭いを嗅いでいる)のに、子供を入れ替えてもメスを入れ替えなければ他のオスの子供であることを気がつかない。

 つまり、オスはメスしか関心がなく子供の確認ができない。子供に愛情が無いのではなく識別能力がないらしい。ところが、妻は妊娠の瞬間を知っているので子供の父親を知っている。そこで、メスが子供を殺す(堕ろす)ときは間違いなく昔の夫の子供を堕ろして、早く新しい夫の子供を持とうとする。また、メスは子供を識別できるので、自分の子供は大切にするが他のメスの子供はあまり世話をしないのである。

 特定の動物でこのような「子殺し」が起こるのは、次のように説明されている。

 ハツカネズミは夫婦で子供を育てる。そして、メスだけでは力が弱いので、子供を満足には育てられない。しかも、ハツカネズミのオスは他人の子供を育てるほど、寛容ではない。そこでメスは自分の子供を安全に残すためには、お腹の中にいる前のオスの子供をできるだけ早く堕ろして、新しいオスの子供を持ち、安全に子供を育てようとするのである。

 ここで、「オスは寛容ではない」と表現したが、この表現は少し正確さに欠ける。子殺しというのは、オスの心が寛容であるかどうかの問題ではなく、セックスというものの持つ本質的な機能による。オスが交尾をして子供を持つ目的は「自分の遺伝子を残す」ということなので、他の遺伝子を残す為に子供を育てる必要が無いからである。

 このハツカネズミの「子殺し」を見つけたのは、動物学者のブルースという人だったので、この子殺しを「ブルース効果」と呼んだ。最初は、ハツカネズミだけがこんなことをするのだろう、と思われていたけれど研究が進んでくると、他の動物でも「子殺し」が見つかった。

 ハヌマンラングーンというインドに棲息するヤセザルがいる。ハヌマンラングーンは集団で生活し、ハツカネズミのように夫婦単位の生活ではない。そして、オスは激しい戦いをして、その中の一頭が「ボス」になって、多くのメスを伴い、「ハーレム」を作る。群の安全を守ることと、子供を作ることがボスの役目である。

 元気だったオスもそのうちには年老いたり、怪我をしたりして、ボスの座を奪われることがある。そのときに異変が起こるのだ。ボスとボス候補のオスの戦いが始まる。多くのメスとその子供は、激しい戦いを一見のんびりと見ているが、その結末がどうなるかで、大変な影響がある。

 新しいボスは、群のメスをてなづけ、群れの統率がうまく行き出すと、次の作業に取りかかる。それは、前のボスの子供を殺すことである。つまり、ボスが替わると、その群れの子供は全員皆殺しに遭う。母親は新しいボスが自分の子供を殺すのを抵抗せずに見ている。そして子供が殺されると、母親は直ちに発情して新しいボスと交尾し、その子供を産む。

 哀れをとどめるのは、丁度ボスの交代の時期に生まれた子供である。日本の戦国時代にも国が滅びるとその大将の子供もみんな皆殺しにあった。生まれて間もない乳飲み子も、成人間近の子供も同じように殺される。

 「人間に近いサルの仲間にも、それを徹底的に追究したサルがいる。このサルは、1匹のボスザルに11匹程度のメスザルが従っているが、時折、そのボスザルが年老いたり病気になったりすると、たちまち新しいボスザルが現れ、古いボスザルを群から追い出す。これはそれ程特別なことではないが、問題はその次に来ることだ。

 新しいボスザルは、メスザルと共に居る"前"ボスザルの子供を次々と殺すのだ。メスザルは自分の子供を殺されるのだから命を投げ出しても"新"ボスザルに抵抗するかと言うと全くされるがままである。こうして、前ボスザルの子がすべて死に絶えると、メスザルは新ボスザルの子を一斉に妊娠するのである。」と京都大学・霊長類研究所の杉山先生は驚きをもってこの現象を記録している。

 このような「子殺し」の行為が残酷であるかどうか、人によって感じ方が違うだろう。サルのボスは激しい戦いをして、ボスの座を獲得する。ボスの座は多くのメスに傅かれて良いようにも見えるが、大変な気苦労と戦いの連続である。外敵は常に襲ってくるし、新しいボスの座を狙って若い元気の良いサルが挑んでくる。そのためには常に体力を鍛え、周辺に気を配って無ければならない。おまけに、群のメスの中にもいろいろなもめ事が起こる。その調停もボスの仕事である。

 実は、サルの集団ではメス同士が諍い(いさかい)を起こす。メスは命を賭けた「争い」というのはしない。戦争はメスの性に合わない。その代わりに絶えずメスは「諍い」をする。そしてメス同士は諍いの後、お互いに反目し続けるだけで、自分たちで調整したり仲直りは絶対にしない。メス同士の争いにケリをつけるのはボスの役割である。

 それに対して、ボスではないオスのサルはのんびりしたものだ。自分一匹を襲ってくる動物は少ないし、自分の座を狙ってくるサルなどいない。群を統率する必要もないので、メスどものもめ事に頭を悩ます必要もない。

 そんなにボスになることは辛いのに「ボスザルになりたい!」という衝動はサルの遺伝子の指令であって、体の中からわき出してくる指令にサルは抵抗することはできずに、なんだか判らないうちにボスになりたくなり、戦いに巻き込まれるのである。ボスしか自分の遺伝子を残せないからだ。

 ボスザルの戦いは死を覚悟して行う。その戦いの目的は、DNAの指令に基づいて「子孫を残すこと」である。そして、見事その挑戦に成功すると、次にはやがては新しいボスが自分の地位を奪うことを覚悟する。だから、早く!一刻も早く!子供を作らなければならない・・・・メスが前のボスザルの子供を育て上げるまで、待つわけにはいかない。

 これがハヌマンラングーンの子殺しの理由である。

 ボスザルの行為は「理に叶っている」が、人間はサルから進化してきたので、我々の体の中にはサルの遺伝子の影響が強い。人間はあるときから一夫一妻制になって、ボス人間が多くの子供を作らなくても良くなったのに、このサルの遺伝子はまだ人間の体に残っている。その結果、ボスになりたがる人が多い。

 理性的に考えると「何で、こんなに一所懸命に働いて、ボスになりたいのか?」との考えが頭をよぎるのは著者ばかりではないだろう。

 進化論から言うと、「子殺しをするサル」が自然淘汰を経て現在に生き延びてきた理由は明確である。サルのボスを決める原理は「暴力」である。または知恵比べも含めて最終的に暴力的戦いに勝利することがフェアーな戦い方である。そして暴力に長けたボスザルの子供は平均的にそれより弱いサルの子供より暴力に長けているので、そのような遺伝的気質を持つサルが生き残ってきたのである。

 集団で生活するサルのような動物の場合、淘汰に残る為のもっとも優れたシステムは次のようなものと考えられる。

 メスは子供を限定された数しか産めないので、全部のメスができるだけ努力して子供を産む。オスは一匹でかなりの子供を作ることができる。仮に一匹のオスが10匹のメスを妊娠させることができ、20匹の子供を産むことが出来るとする。10匹のオスが一夫一妻制で子供を作ったときの子供の平均能力と、もっとも優れたオスが全部の子供を作った時の平均能力を比較すると、後者が優れているだろう。

 少し、難し計算になるが、もしこの二つの能力の差が、一世代あたり1%、つまり100分の1だけ違うとする。テストである子供が90点、他の子供が89点の差のようなものである。

 次に計算。恐竜は2億年程度生存したし、人間はすでに600万年ほど生きているので、それより短く1万年後の能力の差を計算すると、この二人の子供の子孫の能力の差は2万倍になる。つまり一世代の小さな差(1%)が1万年たつとものすごい差(2万倍)になる。能力が2万倍も違ったらとても勝ち目がない。

 これが子殺しやボスザルの争いの真なる理由である。地上の生物界は「暴力」の支配で成り立っている。だから、よく「自然に帰れ」と言われるが、自然は決してのどかな世界ではなく、生臭く、暴力で正義を決めている。力の強いアメリカは理由はともあれ正義であり、負けたイラクは本当は正しくても負けたので間違っていることになる。これを「勝てば官軍」という。

 ところで、殺される子供のサルから見たらどうみえるかということに触れてシリーズ2回目を終わりにしたい。

 サルの子供はせっかくこの世に生を受けてこれから「サル生」を楽しもうと言うところなのに、自分と無関係な理由でその生を奪われてしまう。群れとしての利害や、まして種としての損得と、生まれた一匹の子サルとは無関係である。せっかく、この世に生を受けたのだから、ボスザルが変わったぐらいは勘弁してもらいたいというのが小ザルの偽らざる気持ちだろう。そして、もしその小ザルが生き延びても、群れも種もそれほど損害は無いはずである。小ザルは新しいボスザルの血は引いていないが、少なくとも前のボスザルの子供であり歴とした血統書付きなのである。

 それでも自然界は許さない。

 このような動物生態を人間社会に適応するのは厳に戒められている。たとえば、人間の夫は子供を識別できないとか、妻しか判らないはずだなどと結論するのは間違っている。でも、多少、参考になることがあるかも知れない。

 それは人間社会にある「託児所」だ。

 託児所の存在理由は、父親も母親も勤めたいということである。時には母親の為に作られることもある。でも「なぜ、僕を託児所に預けるの?」と子供が質問すると「お父さんの出世のため」「お姑さんと暮らしたくないから」「少しでも稼ぎを多くして洋服を買いたい」という。なんだ、そんな理由で僕を託児所に預けるのか?と子供は思うかも知れない。「僕は家にいつもお父さんか、お母さんが居てくれた方が良い。だって、もともとそうでしょ。そして動物もみんな家族でいるよ!」と言うかも知れない。

 「託児所設置は女性の権利」という話はいつも耳にするが、「託児所設置は子供の権利に反する」という話はあまり聞かない。それは「暴力の強いものが勝つ」という原理が人間社会にも適応され、声の小さい子供が無視されているのではないかと思う。

 それは男が悪い!と言われる。もちろんそうである。子供は夫婦で作り、育てるので、なにも育てるのは母親の役目ではない。夫婦の役目である。そんなことは決まっている。だけれど、理屈はとんでもない方向へ行き、「もともと夫婦で育てるのが本当なのに、夫は見向きもしてくれない!だから、子供を託児所に預ける!」ということになると、夫が妻に暴力をふるい(実際に振るうかどうかは別にして)、今度はその腹いせに母親が子供に暴力を振るったことになる。

 自分の不利を自分より暴力の弱い者に押しつける・・・これが力の論理だ。

 ともかく、この世は暴力が支配している。子供より親の方が知力も体力もある。小さな子供はどんなに自分の希望を述べても、親の小さな都合で無視されてしまう。親と子供が暴力に訴えるという事は希であるが、言い合いになったら2、3才の子供はまったく親に歯が立たない。

 「知」もまた暴力として働く。