アメリカの技術倫理と日本の倫理

 急に頭痛になった時、アメリカ人はあわててアスピリンを飲むが、日本人は風邪薬を飲む。アメリカ人の思考体系は「今、目の前に起こっていることを退治する」ということだから、頭痛薬を飲んで頭痛が治まればそれで良い。

 一方、日本人は「今、目の前に起こっていることを退治しても、原因を潰さなければ意味がない。だから原因が風邪なら風邪薬を飲んで、静かに寝ている。頭痛は我慢する」と考える。

 このような思考態度は生活や人生観の全体に及んでいて、アメリカと日本の違った文化と形作る。

最近、アメリカ人の肥満は年々、酷くなってきている。いわゆる「肥満」に分類される人の割合は、1991年に比較して2000年には61%も増大していると統計が示す。確かにアメリカに行くと、日本ではめったに、というか全く見られないほど肥満した人を見かける。

ある日、私は一人でホテルをでて庶民的なレストランに入った。そこで偶然に私も私の隣に座ったアメリカの婦人も同じランチを取って食べた。そのランチはかなりのボリュームで歳の割には大食の私でもフーフー言って食べなければならないほどの量だった。

ところが私の隣のご婦人はランチを平らげた後、デザートを頼んでそれを楽しんでいたが、そのデザートたるや私には小山に見えた。確かにこれでは肥満になるに相違ない。

アメリカの肥満の原因は二つあると考えられている。一つは外食の影響で、日本と同じようにアメリカでも自宅で食事をとる比率が年々減少し、外食が増えている。そして自宅の食事と外食の比較では、外食の方が22%も平均脂肪率が高い。だから外食ばかり取っていると脂肪の取りすぎになるのである。

さらにアメリカの食料は安価で大量に供給されるので、ついつい食べてしまう。つまり「アメリカ人は与えられるだけ食べ、それだけ太る」ということなのである。

アメリカ人の摂食の行動パターンはマウスに似ていると言われる。アメリカのエール大学の研究によると、普通食を与えて育てたマウスは自ら体重を制限して節食するが、高カロリーの食事を与えると節食せず、標準体重の3倍になるまで食べ続けると言う。

アメリカ人の食事が高カロリーになるにつれて、食事を制限できなくなりますます高カロリーの食事を取り、ついには体重が3倍になるという訳である。

ここまでが準備段階で、これから倫理の話に移る。

最近、企業の不祥事、それも技術的な不祥事が連続して、工学倫理や技術者倫理が問題になってきている。そこで倫理の先進国と目されているアメリカにその範を求めようと、誰もがあまり聞き慣れない英語を持ち出す・・・それをcompliance(コンプライアンス)という。

この英語の意味はあまり説明する必要もないし、また説明しても有意義ではない。むしろ判りにくい英語の単語を使うより、アメリカと日本の技術倫理に関する考え方を整理した方がよい。

一言で彼我の倫理の差を表現すると、「アメリカの技術倫理はアスピリン型であり、日本は風邪薬型」といえる。

その一例を原子爆弾に関する技術倫理として取り上げよう。
「原子爆弾に関する技術倫理について述べなさい」
という問題を出すとアメリカと日本で模範解答が異なる。

 アメリカでの模範解答
「原子爆弾が人類にどのような影響を与えるかは論じてはいけない。原子爆弾を作るときに周囲に被害を与えてはいけないと考える」

 日本の模範解答
「原子爆弾は科学が生んだ最大の兵器であり、これを使うのが適切かということだけではなく、より根元的に製造したり保有したりすることに対して、倫理的に許されるかを議論しなければならない」

 まったく違うことが判るだろう。アメリカは原子爆弾自体の善悪は論じない。それは政治の世界のことであり、力を発揮する必要のある時に使うかどうかは倫理の問題ではないと考える。しかし、技術の倫理としては原子爆弾を製造しているときに放射性物質が漏れたり、間違って破裂して周囲に迷惑をかけることは厳に戒められるのである。

 日本は原子爆弾を作るのが正しいなら少しの犠牲を出しても作るべきであるし、原子爆弾が人類の的であればそれが如何に安全に作られようとダメなものはダメということになる。私は日本人だから、当然ではあるが、アメリカの倫理の考え方にはついていけない。もちろん原子爆弾が戦争の抑止力になるなどというのは言い訳に過ぎず、絶対に技術者は原子爆弾を作るべきではないと固く信じている。

 原子爆弾一つを取ってみてもこのような差があるのだから、より日常的な対象に対する倫理の考え方は実に大きく違うのである。アメリカは裁判でも陪審員制度や司法取引があるように、真実自体を問題にするのではなく、社会がともかく動くようにすることが関心事である。契約社会の相対的倫理観をかいま見ることができる。

 このようなアメリカの倫理観はアメリカが多国籍民族から成り立っており、到底、倫理観を統一することができないからという説明がなされるが、私はそれよりアスピリン型の思考をするアメリカ人気質が問題であろうと思う。

 最近、このようなあまりに変なアメリカの倫理に対してヨーロッパが日本型とアメリカ型の中間的な考え方を出してきた。価値観が共有できる物は基本的な倫理を、価値観が共有できないものは対症療法的にという折衷案を研究し始めたのである。

その解説としては「原子爆弾を作ることの是非は論じないで、安全に原子爆弾を作れるかどうかが技術倫理」というのはいかにもおかしいという国際的な疑問があるからである。

 しかし、日本でも企業の倫理を専門とする人、技術倫理を食とする人の多くはアメリカ型の倫理を金科玉条として会社の倫理規定に組み込んでいる。私はそのようなアメリカ型の倫理規定は日本人の心になじまないので、形式的な物に過ぎず、実効性はないと考えている。

 私は日本型の倫理はより本質的根元的なものに求めなければならず、価値観も日本人が本来もっている、礼・節・信・義などの伝統的価値観に基づくしっかりした倫理観を作ることがもっとも大切で、それで初めて企業や社会から不祥事を除くことができると確信している。

終わり