リサイクルの倫理


1.  現代環境怪談

 まず、環境に関わる怪談話から入りたいと思います。

1.1.  「焼却」と二酸化炭素

 「プラスチックは焼却すると二酸化炭素が出るので、溶鉱炉で還元材として使う方が良い」と言われますが、焼却は「空気中の酸素」、溶鉱炉は「鉄鉱石の中の酸素」を使って酸化することですから、二酸化炭素が出る量は同じです。つまり、多少の差はありますが、石油、石炭、プラスチック、木材、紙などの「炭素資源」は焼却しても、溶鉱炉で使っても、また腐敗(微生物が代謝によって二酸化炭素にする)させてもいずれは二酸化炭素になります。



1.2.  森林と二酸化炭素の吸収
 「森林が二酸化炭素を吸収する」と言われますが、それは木が生長している間だけに限られます。自然の活動はバランスがとれているので、もともと森林のような「自然のもの」に「二酸化炭素を吸収する」というような「非持続性行為」を期待することはできないからです。つまり、世界の森林が増えても増える間だけは二酸化炭素を吸収してくれますが、一定になったらそれで終りです。人類が発生する二酸化炭素を吸収するために世界の森林を「増やそう」とすると、5年間で世界の耕地をすべて森林にしなければならず、更に5年後以降は二酸化炭素を吸収することはありませんし、その上、耕地が無くなるので人類は食料を失って餓死することになるでしょう。


1.3.  建設資材リサイクル法と日本の平野

 建設資材リサイクル法が施行され、建設資材を「路盤材」にして厚さ10センチに敷き詰めると日本の平野は6年で廃コンクリートに覆われる計算になります。リサイクル率を上げる目的は達成されますが、日本は耕地を失います。お会いする人にお聞きすると「リサイクルする」より「平野は土が良い」という人が多いようです。


1.4.  資源を節約

 日本には化石資源(石油、鉄鉱石など)がありませんから、日本が資源を節約しても世界の資源の減り方は殆ど変わりません。自分が倹約しても他人の財布は変わらないということです。むしろ日本の「資源」は技術力であり、日本の法律で「資源を節約する」という目的を設定した場合、それは日本の「技術力の節約」を指すという論理になるでしょう。



1.5.  自然の利用は自然を破壊する

 現在の人間の活動量は自然の循環の限界を10倍ほど上回っています。もし、自然エネルギーや自然のものを人間の活動に組み込んだら、自然は破壊します。また、山から流れる水は「無駄に流れている」のでもなく、風も「無駄に吹いている」のでもありません。このような考えは自然を(狭い意味で)人間だけの所有物と考えたときだけに成立します。



1.6.  クーラー、補助金、ゴミゼロ

 環境は「部分」ではなく、また「自分だけが得をする」という概念でもありません。むしろゲルマンの昔や日本の江戸時代のように「全体のことを考えて個々の最適化を目指さない」という考え方のものです。例えば、「クーラー」は自分の部屋の環境を改善しますが、周囲にとっては「真夏のヒーター」です。環境のための補助金は「みんなから徴収したもの」を「自分だけのものにする」ということになります。また、「ゴミゼロ」や「ゼロエミッション」も善意で行われていますが、注目する系でのエントロピーの増大を他に回す行為になり、日本全体のエントロピーは余計に上がることになります。


1.7.  環境差別と環境植民地

 リターナブルビンは「ビンを運ばない人」には環境に良いことですが、運ぶ人は時間を奪われ、腰痛になります。地球温暖化を防止しようとした京都議定書は国別の差別を固定化することになりました。表 1のようにインドに住んでいるインド人は、アメリカに住んでいるインド人の20分の1しか活動ができません。これまでは「生まれたときは平等、努力によって報われる」という原則がありましたが、それも崩れつつあります。

表 1 京都議定書の活動量の上限(インド人1に対してアメリカ人20倍)

 この他、循環型社会は成立しないこと、リサイクルすればするほど廃棄物が増えること、浄化作用のないリサイクルをすると毒性物質が蓄積すること、紙のリサイクルをすると子供が紙の節約を忘れることなど「環境の怪談」はまだまだあります。それではなぜ、現代の日本でこのような「怪談」が白昼堂々と通っているのでしょうか?それも私の一つの興味でもあります。


2.  失ったもの

 近代科学、特に工学は「自然の原理を応用して人類の福利に貢献する」という高らかな目標と自信を持ってスタートしました。F.ベーコン、デカルト、ガリレオ、ニュートン・・・と続く近代科学の巨人たちはその思想的基盤を作り、「未知の大海原」に船出をしたのですが、万全であるように見えたその思想も基本的なところが欠落していたのです。今になって非難することはできませんが、近代科学には2つの問題点がありました。一つは「物質的に不足なき時代に到達する過程で失うもの」についての考察、二つ目は「到達した社会がどういうものか」ということの想像力の欠如でした。

 不足なき時代に到達する過程で起きた最初の変化は、自然への恐れ、信仰、誠実などの精神活動が打撃を受けたことと思います。現代の社会は「両価性(自ら気づかずに矛盾したことを正義と思う)」が支配しており、ゲルマンの掟「誠実を失えば屍になる」、江戸の借用書「約束を違えたときはお笑いになって結構です」という人間の基本的な規範が失われているように感じます。たぶん、「未知を失う」ということが、結果的に「誠実な心を失う」ことになったのでしょう。そして、科学は「戦争や人間疎外」には感受性が強く反発もしましたが、科学が人間の精神活動に及ぼす打撃には無頓着だったようです。

(豊かな精神活動の時代:涙が出る歌:唱歌「ふるさと」の時代。)

 次に人間はその肉体的機能を失いつつあります。既に私たちの上腕筋は生涯殆どその機能を果たさず、かつて俊敏な動きで獲物を追った脚力も失われました。そして現在、作戦を練るための頭脳の機能を情報工学が奪いつつあります。


 更に体、心、頭の機能の合算でもあります「感受性」もその中で奪われつつあります。南北戦争前後に登場し第一次世界大戦で本格的に使用された機関銃は人の死を無機質にし、1963年に日本に上陸した冷凍食品は「生命と食品」という連想を断ちました。そして人工的な空間の中で「空中で寝る」ことに違和感を感じることができなくなっています。

      
(戦場の死を無機質にした機関銃、食べ物を無機質にした冷凍食品、空中の楼閣)

 工学はひたすら人間機能を奪うための「廃人工学」に邁進しているように見え、日常的に機能を発揮できない人間は、やがてベートーベンを聴いて感激することができない存在となる可能性を感じます。
最後に工学が現在も行いつつあるのは地球環境の崩壊ですが、既に工学は1963年のレイチェル・カーソンの「沈黙の春」によって何が地上で進行しているのかを知りました。

(かつて600万頭いたバイソン)


3. 支柱を失う現代の技術者

 現代社会の倫理を考える道筋は様々ですが、ここではまず「専門家と倫理」という視点から入ることにしたいと思います。専門家は己が従うべき決定者を持ち、それを成文化してくれる学者の助けを借り、それによって独善的倫理判断を避けるという仕組みの中で生きています。国立病院の医師が前線において敵兵にリンゲル液を打つのはそのような行動規範によるものです。これに対して、工学の規範に従って社会に接する技術者は、何を「神」とするべきなのか、誰が成文化してくれるのかわからないままにその任務を行っています。そして、倫理を守るための身分の保証は無く、ただ「専門家」と呼ばれ専門家の倫理と責任を求められるだけの状況なのです。

(専門家とそれぞれの決定者)

 また、「医」の倫理が守られるのは治療行為が医師の責任に委ねられていることが前提であり、たとえ雇用主である医療法人の理事長がたえず「販売量増大のために完治を遅くしてくれ」という意向を示しても、それに従わなかったからといって解雇されず、主任になるのも遅れないということです。これに対して、企業の技術者が資源の枯渇を考えて販売量を抑制しようとすると解雇される可能性があります。現代の技術者はその意味で実は倫理を守れる存在では無いと言えます。

 技術者の行為の決定者は「善」であり、それが現代において大きく変わりつつあることにこそ注目しなければならず、科学技術を担当する人たちの最大の関心事でなければならないと思っています。どのように変貌しつつあるかという解答を得る前に、現代の科学が「目指していること」をすこし例示しました。「目指していること」は科学技術に携わる人の「善」の総意であると思われるからです。

1) 頭に「翻訳チップ」「情報チップ」を埋め、何も覚えなくても英語を聞き取ることができ、知らないことでも瞬時にわかるようにする。脳の記憶と推論機能を不要にしたい。

2) 小型の移動機器を研究し、「風呂の自動掃除装置」などを配備し、殆ど体を動かさないでも毎日を過ごすことができるようにする。

3) 人間より頭脳の優れたロボットを作り、労働と兵士はロボットに任せる。できるだけ早く人間より優れた頭脳と体を持つロボットを作ると、そのロボットは人間より優れているのだから人間が作るロボットより優れたロボットを製造し、進化する。そして、人間を襲い人間は檻に入る。

4) 肝臓だけ人間のブタ(人間肝臓ブタ)を飼育し、肝臓の移植に使う。「顔だけブタ人間」を病院に飼育してすべての部品の供給源とする。

5) ブタの遺伝子を操作して「形が四角く、液体の栄養を供給することで肉を発生する生物」を作り、各家庭に備える。人間は命を殺めないで食料を得ることができる。

 昔から、倫理は「善」を追求してきました。そしてその黄金律は「あなたたちが人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてやりなさい」とされていますが、不足が無い多様化の社会ではこの黄金律も反論があるでしょう。そして人類は黄金律の上にある倫理、つまりすべてのことを「善・悪」に分ける基準を使ってきました。それは、「人口が増えること(末広がり)」「大量生産をすること(大漁・豊作・労働)」でした。しかし、自然の中に生活する生物群で、その「最高位」に立つものは、「末広がり」「豊作」の代わりに「持続性」を重視しています。百獣の王ライオンはゴロゴロと寝て、自らの食料を全滅させることはしませんし、「ロイヤル島」という閉鎖的環境の中でのオオシカとオオカミの振る舞いはそれをよく示しています。

ロイヤル島の栄養ピラミッド

 私はある著書の「あとがき」に次のように書きました。

 「今年のお正月の食卓には例年のように「黒豆」と「数の子」がお節料理として並びました。日本の正月には欠かせない伝統料理です。新年を迎えることができた喜びと健康に感謝し、黒豆を口にして今年一年も「マメマメしく」働くことを誓い、数の子を噛みしめて末広がりに子孫が殖え「地に満ちる」ことを祈りました。人類の誕生以来、数百万年の間、働くことと子孫を殖やすこと、それは生物としての人間の一番大切なことでもあり、生活の中で変わらないプライオリティーを持ち続けたものでした。

 でも、今年に限って私は黒豆と数の子を複雑な気持ちで頂きました。私たちはあまりにも豆々しく働きすぎたあげくに環境を汚し、あまりにも子孫を殖やしすぎて地上は人間が溢れるようになったと思うと、素直にお正月の喜びに浸れなかったのです。(武田邦彦、「リサイクルしてはいけない」青春出版、(2000))」

 このような大きな時代の変革期に自分が生きることができたことは幸運と思います。人類の倫理の基本原則が「拡大」から「持続」へと変わるからです。その中で現代の科学技術に求められていることは、卓越した知性を持った科学技術者がその知性を種の持続性のために発揮し得るのか、それとも知性もまた拡大し、絶滅する道を選択するのかが問われていると思います。


4.  「持続性文明」を構築するための2つの要件

 「能力のある人間ほど社会的影響が大きい」という原則は科学技術にも適用されます。原爆で両親を失い、ただ一人の肉親だった死んだ弟を背負って共同墓地に埋葬に来た少年は工学を知りません。原子爆弾を作ったオッペンハイマーは社会的に尊敬され、10万人の命を奪う権利を有していました。指導者が暴走する自らの頭脳を制御できる方法を見出す必要があると考えています。


 もう一つは論理的な認識の限界に関するものです。論理を中心として組み立てられた近代科学の自信はガリレオの「それでも地球は回っている」という言葉に良く表れていますが、人間の頭脳の表層で認識し、論理的に正しいと考えることが正しいという短絡的な概念です。しかし著者は自らの研究経験を通じても、また歴史的な推移を勉強しても、「学は自ら時代遅れになることを望む」というマックス・ウェーバーの述懐を支持するものです。「自分は現時点において正しいと考えることに従って行動せざるを得ないが、同時に自分が現在正しいと考えていることは必ず間違っているという確信がある」とも言えます。その意味で、かつて「進化号」と「創造号」と名づけられた2台の機関車を正面衝突させて「真理を決定しよう」とした方法は私に深い反省を迫るものです。

(真理を追究するための衝突実験)

名古屋大学 武田邦彦


参考図書

1. Brown. R.H.,"The Wisdom of Science", Cambridge University Press., (1986)
2. Meadows. D.L.,"Toward Global Equilibrium-Collected Papers", Cambridge, Mass.: Wright-Allen Press., (1972)
3. シェリー M.W., 岡田忠軒訳,"フランケンシュタイン", 研究社出版, (1975)
4. オルテガ・ガセット著, 桑名一博訳,"大衆の反逆", 白水社, (1991)
5. M.K.ガンジー著, 田畑健編, 片山佳代子訳,"ガンジー自立の思想", 地湧社, (1999)
6. 平田寛,「科学・技術の歴史(上)(下)」, 朝倉書店, (1990)
7. 源了園,「義理と人情」, 中公新書, (1969)
8. 淡野安太郎,「社会倫理思想史」, 剄草書房, (1959)
9. 渡辺京二,「逝きし世の面影」, 葦書房, (1998)
10. 武田邦彦ら,「産学連携とその将来」, 丸善 (1999),「リサイクルしてはいけない」, 青春出版 (2000),
「リサイクル汚染列島」, 青春出版 (2000),「リサイクル幻想」(文春新書), 文芸春秋社 (2000),
「エコロジー幻想」, 青春出版 (2001)