我々に行く先はあるのか?


1. はじめに

 近代工学は人類の福祉に役立つことを目指して,近世ヨーロッパで華やかにスタートした(1).そしてめざましい科学と工学の発展は所期の目的に向かって順調に,素早く接近しているようにみえた.しかし工学による社会の変革は工学,科学者の予測を越えて進み,既にその相互関係は哲学的な考察を要するに至っている(2).工学が人類に与えた正の寄与と同時に,負の影響として工業的発展の初期に現れたのは地域的な公害であった.それらは19世紀におけるイギリス中部の汚染問題から始まり,1952年にはロンドンでスモッグの発生により大災害を起こしている(3).さらに現在ではオゾン層の破壊(4),地球温暖化(5),砂漠化(6),森林の消滅(7),生物の絶滅速度の上昇(8)など地球規模での環境破壊が進み,併せて38年の寿命といわれる石油,52年といわれる鉄鉱石など資源の枯渇についても様々な議論が交わされている.

 この様な工学と環境および資源の問題に関心を呼んだのは,1968年に設立されたローマクラブの活動,その委託を受けた1972年のマサチューセッツ工科大学(M.I.T.)の報告によるとされている.一方では,ローマクラブの報告書にみられるように,急激な石油資源の枯渇,環境の悪化は,様々な対抗手段によって緩和され,現在ではむしろその警告が軽視されるに至っている.しかし,ローマクラブが指摘したような都市の局部的な環境悪化は地球規模の問題として再登場し,資源の枯渇もそれが何十年か先送りになったに過ぎない.

 論理的には近代工学は,物質文明による人間の幸福を追求してきた.しかし,地球上の有用資源には限りがあり,人類が使用した廃棄物にも限界があることから,やがて物質文明の追求を中止する必要がある.省資源,リサイクル,二酸化炭素の削減など物質文明の修正に関する多くの検討や施策は既に実施されている.しかし,これらの施策は物質文明を物質からみたものであり,工学が及ぼす人類への影響としてはほんの一面に過ぎない.

 本論では上記の様な一般的な工学に対する認識を踏まえ,むしろ工学が人類に与えた衝撃は産業革命以来の工学による「物質文明」と「精神破壊」の関連において重要であったことを指摘し,自らの活動を反省する意味で、解析を加えたものである(9).


2. 一般工学倫理におよぼした機械工学の寄与

 産業革命以来,機械工学の発展はめざましいものがあり社会の進歩と変革に大きな影響を与えてきた.たとえば近代工学の時代区分は様々な見知から行われているが(10),1733-1878年の産業革命時代,1879-1946年の電気工学時代,1947-1972年の電子工学時代,そして1973年から今日に至る情報工学時代に分けるのが順当であろう(11).科学および工学全体の分野に注目したこれらの時代区分の中で特に機械工学に注目すると,1733年に発明された自動織機は産業革命の始まりと位置づけられ,1789年のジェームスワットの蒸気機関,1803年,トレヴィシクによる高圧蒸気機関,1856年,ベッセマーによる転炉の発明による鉄鋼の大量生産技術,そして1879年,エジソンによる実用ランプが上げられる.これらの発明は人間の生活と精神活動,そして社会に多大な影響を与えた.

 20世紀に入ると,近代工学の発展は複雑な様相を呈するようになり,第一次世界大戦における機関銃などの大量破壊兵器の発明,ベルトコンベアなどを利用した大量生産方式の出現,アメリカにおける自動車の急速な普及など工学の影響が倫理,社会面にまでおよぶようになった.さらに航空機の実用化,原子力の出現,世界的な自動車の大衆化が大きな社会的問題として取り上げられる.1960年代は19世紀初頭から増加の一途を辿ってきた鉄鋼の材料におけるシェアが初めて減少に転じた年代であり(12),1803年の高圧蒸気機関が与えた社会へのインパクトに相当する最近の明瞭な変化であり,まさに160年ぶりの方向転換であった.

 以上,機械工学がもたらした近代社会への影響の内,特に人間の精神構成に大きな影響を与えた諸項目について,論理を展開するに必要な象徴的な事例に絞って分類整理した.


2・1 機械工学による精神の破壊

2・1・1 概要

 一般工学倫理の主要な第一の視点は,近代科学と工学による人間の精神界への打撃である.近代自然科学は自然をありのままに観測し解析することに邁進してきた.レオナルド・ダ・ヴィンチは「人間はしたいことをして良いのだ」という,その基本思想を示し,ガリレオは「それでも地球は回っている」といった.長いヨーロッパ中世の教条から解き放たれた人間が,これからは人間が認識したものは真実であるという,ある意味,傲慢で人間中心の社会の到来を予見するものであった(13).近代科学に対する期待と信念はその発展に大きな影響を与え,デカルトの思想などとともに開放的な人間の魂が急速な近代科学の発展を支えてきたといえる.

 さらにダーウィンが進化論で人間がサルから進化したものであることを明らかにし(14),ダーウィンの研究結果を近代科学と人間の精神活動という点からみると,進化論が動物と人間の連続性を示したことによって,人間の自尊心と神秘性を奪ったといえる.ダーウィンは著書の中で,彼に反撃したオックスフォード論争に際して,「そう考えるのが嫌なことでも勇気を持って考れば真実が判る」と述懐している.この思想的基盤はガリレオの信念と同じ近代科学の基本的信念であって,科学的真実の前に他の価値観は従うべきであるということを断言している.

 今世紀になって,1953年にワトソンとクリックがDNAの構造を解明し,生物の神秘はDNAの膨大な情報によるものであること,そして人間が大腸菌と本質的には境のない存在であることを明らかにした.この発見は近代科学史上画期的な発見であり,生命から神秘を取り去り,既にダーウィンによって他の動物と区別の付かない存在になっていた人間は,サルに近いというより大腸菌と同類であると宣言されたのである.それ故,人間は自然科学的にはその尊厳を主張することは全くできないまでになった.

 近代科学の本質とその意図には関係なく,人間はガリレオによって宇宙の中心の存在から下ろされ,ダーウィンによってサルと同などとされ,さらにワトソンとクリックによって大腸菌と席を同じくするように迫られた.近代科学は一心に人間から精神活動を奪い,生きる勇気を与えるプライドを取り去り,あたかも虚脱感の中に人生を送らせることに全力をあげているようにみえる.さらに複雑化した現代の社会において,これら科学の発展の成果が,人間の精神に強い負荷を与え,日常生活においても精神的な支えを必要とする人たちに大きな打撃を与えていることは確かである.

 かくして自然に対する敬虔な祈り,感謝の気持ち,素朴な恐怖心などが徐々に人間の心から離れ,乾燥した感覚が強くなっていく.生物学,遺伝学的に表現すれば,かつて肉体の筋肉が優れていた人間が支配者として君臨したが,現在では精神的に祈りを必要としない人間が競争に勝つ時代になりつつあり,それを演じたのが近代科学であったといえる.


2・1・2 各論-1:機関銃  

 優れた鉄鋼材料と機械設計そして機械加工の工学は第一次世界大戦の勃発とともに機関銃を生み出した.人類は太古の昔から刀や槍を戦争の武器にしてきた.それは爪や牙を用いる動物同士の争いに比べれば武器を使うという点では異なっていたが,基本的に一人の人間(動物)と人間(動物)が戦うというものであった.

 しかし機関銃は比較的単純な機械工作物であったが,それがもたらした戦闘の様相,そして戦闘員の心理状態の変化は驚くべきものであったとされる.それまではいかに優秀な銃であっても引き金を引く標的は自分と相対している人間であり,その意味で人間と人間の格闘の域を出なかったが,機関銃は銃士の心理状態を非人間的にした.この変化をスウィフトは「これは機関銃という機械工学の発達による産物がもたらした人間の精神破壊の一例であり,より深い精神的影響として機関銃の出現は大きいのではなかろうか.」といっている(15).


2・1・3 各論-2:原子爆弾

 第二次世界大戦で広島,長崎に投下された原子爆弾については原子力工学の領域でもほとんど議論がされていないが,機械工学の領域でも関係の薄いことがらと受け取られている.しかし原子力の原理は別にして原子爆弾の爆弾としての使用は高度な機械加工や航空機が必要であり,その使用において機械工学の寄与が大きいのは多くの工学と同じである.原子爆弾については日本が唯一の被爆国であり,被爆の犠牲者が多いことや政治的な活動とも関係していることから,日本の被爆が歴史的事実として認識されるには時間が必要であり,その評価はほとんどなされていない.むしろ日本が被爆国であるからこそ他国に先んじて原子爆弾というものをみつめ工学的立場から評価と批判を行う必要があろう.

 原子力は当初からその危険性や人類破壊の可能性が指摘されていた.例えばジュリオ・キュリーは原子爆弾が開発される以前から,原子力が軍事的に利用されることに深い懸念を示していた.マンハッタン計画においてそれに携わった多くの学者の精神的葛藤は記録されている.しかし実験がネバダで行われた時,世界一流の物理学者達は,爆発の威力を物理学を駆使して正確に計算することが出来たが,目の前に炸裂する爆弾を一般市民の上に落としたら,その下で酷い火傷をおって苦しむいたいけな少女がいるという単純な想像すらできなかったのである.そしてガモフに至り,「もう一発の原爆の投下」によって戦艦の中,あるいは付近の住民が同じ苦しみを味会うことにはいっこうに無頓着になっている.Figure 1はガモフの原爆感であり,「日本の都市に落とした後,どこかでもう一度試してみなかったのは残念」と述べている.絵に富士山が描かれているのに注意(16).



2・1・4 まとめ  

 工学が巨大になり,自らの五感とは遠く離れるようになったときに,人間の精神状態が正常には保てないことを,機関銃と原子爆弾の例は示している.戦時における人間の心は平時とは全く異なり,また戦争には様々な道徳的,人類的視点をもって評価せざるを得ないから,戦争直後の人間精神の破壊は別次元で議論する必要があるともいえる.従って機関銃や原子爆弾を目の前にした人間の精神破壊が,そのまま平時における精神の荒廃につながるものではない.しかし戦争という行為が人類の歴史上,決して特別な行為ではなく現在でも局地的に戦争の危険が常に存在しているし,あるいは意図せざる行動によって戦争と間接的に関係していることから,戦争で荒廃した精神状態は様々な形で平時に引き継がれるといえる.



2・2 機械工学による人間機能の破壊

2・2・1 概要

 産業革命と蒸気機関の発明による動力とその動力を活かす機械工学は生活程度や衛生状態に飛躍的な向上をもたらした.それと同時に炭坑夫,船の漕ぎ手,さらには荷役業などの辛い肉体労働はほとんどその姿を消した.人間から肉体労働の負担を軽減した功績はまさに近代工学の一大成果である.

 しかしその一方で,工学による人間機能の喪失であるともいえる.遺伝的に与えられている若い男性の筋肉はほとんど不要なものとなった.産業革命直後のイギリスにおいて強い筋肉を有する男性が優先的に給与の高い肉体労働に付くことができたのは,まさに筋肉という機能が一つの価値として認められていたからである.それは人類が誕生して以来長い間にわたって認められてきたものであった.その意味で,近代工学がもたらした筋肉労働からの解放はより長期的視野でみれば,人間から辛い肉体労働を追放したというより,人間からその機能の一部である筋肉労働を追放したというべきであろう(17).

 また,今世紀に入って家庭が電化され主婦はあかぎれと継続的な家庭労働から開放された.その反面,女性が母性として愛され,家族からその献身的労働に対して感謝される権利を失いつつあるともいえる.さらに最近ではコンピュータや通信技術が電車の駅の切符切り,銀行の窓口の支払いなどの単純頭脳労働を追放し,徐々にインテリ層の追放を開始している.激しい速度で進行するデジタル化,情報革命,そしてネットワークの高度利用をもたらす通信革命は最後に人類から「頭脳労働の追放」をもたらすだろう.


2・2・2 各論-1:産業機械とオートメーション

 産業革命の勃発とそれに続く蒸気機関の発明によって産業機械は大きな変貌を遂げたことは議論の余地がない.蒸気機関を動力とする産業機械はそれまでの人間の力,家畜の力を利用した機械に対して比べものにならないほどの大きな仕事をすることが出来たし,その後の電動機の発達によってさらに精密に制御された機械を生み出していった.これらの機械は重量物を扱い,単純な繰り返し作業を難なくこなすことが出来た.多くの炭鉱においては地下から石炭を運び出す炭鉱夫はその役割を奪われた.産業革命当時,筋肉労働に耐える屈強な男性は厳しい労働が要求される炭鉱へ,女性の多くは繊維工業などの軽労働へと働き口を求めた.炭鉱の作業は辛かったが,男性の筋肉の価値を遺憾なく発揮することは出来た.そしてその筋肉の価値に応じて男性は賃金を獲得した.

 現在,既に高圧蒸気機関が発明されてから約200年を経過し,ほとんどの産業機械は人間の筋肉を必要としないまでになった.日常的にも自動車の窓の上げ下げまで筋肉は不要になったし,日曜大工店での売れ筋商品が電動ドライバともいわれる.また,若い男子学生は筋肉を使いたがるが,しかし今では若い男子学生の筋肉はコピー機の蓋を開けるぐらいにしかその筋肉は役立たず,それが彼らのストレスになっている.

 オートメーションが人間を疎外する大きな要因になることは既に20世紀の前半にははっきりと認識されており,チャップリンの「モダン・タイムス」にも象徴的に表現された.機械に翻弄される人間が働くことの神聖さを感じられなくなったことを示している.機械工学が奪った人間の機能の一つ,「筋肉労働」の価値とその機能を奪われた男性の精神の打撃については計り知れないものがある.


2・2・3 各論-2:家庭電化製品

 沢山の子供を産み,一日中おしめの洗濯,掃除,そして食事の準備とかつての主婦の一日は目の回る仕事の内に終わった.電気洗濯機も,電気掃除機もなく,冷蔵庫も無かった.そのうえ冬には湯さえ自由には使えず,主婦の手は常に皹に荒れていた.遠く故郷を離れて「母」を想い出すとき,それは忙しいさなかに暖かいご飯を出してくれた人であり,生活の厳しさがにじみ出ている母親の手であった.

 この様な過酷な家庭労働を緩和するために,電気の応用が進むとともに,既に19世紀終わりには家庭電化製品がみられるようになった.20世紀半ばにはヨーロッパ諸国で家庭労働の電化が進んだ.アメリカの電化された家庭の様子を垂涎のまなざしでみていた日本も1960年代の高度成長とともに収入が増加し,テレビ,冷蔵庫,洗濯機が三種の神器といわれるようになり,一般家庭に浸透した.その結果,先進国の主婦は450万年前に人類が誕生して以来続いてきた厳しい家事労働から解放された.

 この工学的進歩は個人の精神的影響および家庭という集団に対してどのような影響を与えたであろうか.家事労働を軽減するということは女性の労働からの解放を意味するが,反対に,主婦が家庭での労働の権利を奪われたとみることも出来る.男性がその筋肉で肉体労働にその価値をみいだしていた頃,女性は家事労働できめ細やかな愛情や気配りで家族の尊敬と愛を受けていたし,その地位を容易には捨てなかった.

 産業における自働機械の導入と家庭における電化製品の導入は,その善悪はともかく労働の価値の大半を奪うことになった.男性がたくましい筋肉と厳しい労働によって得られてきた家族の尊敬,女性が厳しい家庭労働によって得られた家族からの愛は,ともにそれを失うことになる.このような変化は現在では大きな精神的打撃ともなっており,男女それぞれが自らのアイデンテティを喪失している.

 この様な工学による家庭の有様の変容は主婦ばかりでなく,それまで一家の主人であった父親の方にも変化をもたらした.かつて家族の目の前で農業に携わり,危険を冒して海に出た父親の多くは会社という離れた場所での労働によって,その労苦が家族から隔離された.父親の労働を目で見ることの出来なくなった家族は,父親の口座のある銀行に振り込まれる数字を概念的に捉えてその苦労を想像するしかなくなり,結果的に父親は家族の尊敬と信頼を失い,家族の愛情からの追放を招いている.


2・2・4 各論-3:自動車社会

 自動車は近代工学が発明したもののうち,一二を争うといって良いほどの成果であり,文明生活の程度を大幅に向上させた.産業原料,製品,そして一般機材の運搬,人員の輸送など国の産業の基礎部分で大きな貢献をしたのはもちろん,病気の母親を寒い雨に日に病院まで運ぶなどの文化的な生活をもたらした.その利便性のため自動車台数は増大し,大気汚染,他の産業や生活ではみられないほどの交通事故死者数,そして資源や廃棄物の問題を起こた.さらには社会的には自動車を憎み,ノーカーディを叫ぶ人も現れた.しかしこの様な人たちでも自分が読む新聞やスーパーの食料品がトラックで運ばれているのを知らないわけではない.

 自動車は工学がもたらした進歩の中でも際だっているものであるが.自動車の有用性が認められたのは,カール・ベンツが1880年代に自動車の生産を開始してから20年を経過した今世紀であった.しかし自動車の優位性は1906年に生産が開始されたT型フォードではっきりと認知され,1915年にはアメリカ一国での自動車登録数は250万台に達した.その一方,同時に多くの社会問題を引き起こした.1940年代には鉛をガソリンに使って鉛公害を起こし,1970年代には石油の枯渇とエネルギー問題を,そして1990年代には環境への関心の高まりとともにリサイクル問題が起きている.そして日本一カ国で毎年一万人以上の人が交通事故で死亡する.自動車の功罪のすさまじさを示している.

 この様な物質面での自動車の功罪とは別に,あわただしい生活と脚の退化による精神的変化を我々にもたらした.人間には足を使って移動するという機能があり,それに伴って肉体的,精神的な健康が保たれ,自分の関係する付近の状態を詳しく観察し,足の裏で感じる土に対する特別な愛着を生んだ.しかし,自動車の移動はそれらの総てを失わせた.また自動車社会は人の足の運動を苦痛にしたため,ビルや電車の駅にはエスカレータが備えられるようになり,ますます足の筋肉の退化を招いている.さらに足の筋肉の退化と疲労感覚の喪失は万歩計を生みだし,どの程度歩いたかを足の疲労度で測定するのではなく数字で確認しなければならない人もでてきた.また車の送り迎え,エレベータを使用している人が,足の運動不足を解消するためにゴルフなどのスポーツをするようになった.この様な人為的原因による人為的補償行動も多くみられるようになる.


2・2・5 各論-4:コンピュータとネットワーク

 現在進行中の人間機能の喪失と精神の疎外はコンピュータとその間連工学によってさらに加速されている.単純労働をコンピュータが代替した初期の時代が終わり,現在は事務職においては簡単な計画,経理計算などの中程度の頭脳が,技術職においては工場の監視業務や研究での測定の夜間自動測定などが自動化されつつある.近代化された工場であっても自動化前の工場ではポンプの運転や機械の操作を行う作業員が現場で作業をしていた.やがてポンプのスイッチや機械を動かすタイミングは計装機器の発達によって人間から機械へと代わり,作業員は主として監視業務へと変わった.さらにコンピュータやセンサの発達によって監視業務自体も精緻に汲み上げられたプログラムで監視され,人間はパネル室に数名を要すれば良くなった.工場はやがて工場長と僅かなスタッフを残すのみになると思われる.

 人間の知的活動に基づく様々な職業は少しずつコンピュータに置き換わり,最終的には自動診断機器によって医師の削減,過去の判例をすべて納めそれに個別の判断機能を備えた機器によって裁判官と弁護士,自動応答プログラムを備えた教育ソフトと機器によって教師などの頭脳労働が奪われる.より高度で判断を要したり,人間の感情をもつことが必要である職業でも必ずしも聖域ではない.さらにネットワークと通信の発達は不要な出張を減少させ,新幹線に乗る人間の数を激減させる(18).ネットワークの寄与は,最初はコミュニケーションの量と速度の増大として現れるだろうが,やがてネットワークによる情報の共有化が社会を決定的に変化させていく.知識は共有され,必要なときに常にそれを使い得るようになる.政治が情報の発達によって大きく変化しつつあるように,ほとんどの社会活動がその様相を変化させる.


2・2・6 まとめ

 工学は,最初に屈強な男性から筋肉労働を,女性から家庭労働を,最後に人間から頭脳労働を奪い,順次人間からその機能を奪いつつある.かつて人間には「力を出す筋肉」「家族を守り,辛い仕事を支える愛情」「考える頭」がそれぞれに機能していた.しかし現在進めている工学はまさに人類からほとんどの機能を奪うことに熱中しているようにみえる.

 21世紀に到来すると考えられる人間の本格的な機能喪失は人間の精神に大きな影響を与えるであろう.「なにもしなくてよい」という状態は廃人に近い状態であるが,それは遺伝子が急激に変化しないので廃人のようにみえるだけである.肉体が変化しない限り,精神は健康な肉体に宿る,人間の労働は神聖であるという基本的関係が変わらないからである.その中での急速な機能喪失の変化は人間に大きなストレスをもたらすと思われる.


2・3 機械工学による地球環境の破壊

2・3・1 概論

 工学倫理における第三の視点は工学による地球環境,生活環境への影響である.この地球環境,特に資源問題については先に述べた2つの視点に比較すると,既に工学との関係で良く議論されている.15世紀の大航海時代から始まった地球上の未知の地平線の後退以来,地球の大自然は徐々に消えていった.20世紀に入り,人間の活動は徐々に自然界を上回るようになり,初期にみられた地域性の高い公害はやがて地球規模の汚染となり,部分的な鉱物,石油などの価格の高騰はやがて地球規模の資源の枯渇へとつながる.

 食糧危機,人類以外の陸上動物海生動物の死滅,フロンなどの大気放出によるオゾン層の破壊とそれに基づく紫外線の増加,二酸化炭素や炭化水素による温暖化,砂漠化など人間からみた地球号の破滅といえる変動が進行しつつある.これらのストレスは一般人に際限ない科学,工学の攻撃と感じられ,その一つ一つを区別してその善悪を論じるだけの余裕を失わさせている.


2・3・2 各論-1:大量生産システム

 地球環境破壊は主として化学的な作用とみられている.古くはロンドンのスモッグ事件でみられた光化学スモッグは日本の川崎や四日市の喘息などと同様であり,最近ではフロンによるオゾン層の破壊,二酸化炭素による地球温暖化,そして石油や金属資源の枯渇に至るまで,そこに出てくる用語の多くは化学的なものである.ダイオキシン,環境ホルモンなどに至るとさらに機械工学とは無縁のようにみえる.しかしこれらの地球環境破壊は機械工学の発展と密接に関係している.

 高度に発達した機械工学は,自動的に大量に製品を製造するシステムを作り出した.それ自体は多くの国民に等しく文化生活のための製品を供給するという意味で寄与したが,同時に工業生産高の飛躍的増大をもたらした.生産高の増大は物質資源の使用量を増し,金属,有機材料資源に大きな負荷を与えた.資源の大量使用は廃棄物の増大となってその姿を現し,廃棄物貯蔵所の確保,そこからの有害廃棄物の漏出などの問題をもたらした.大量生産の最も大きな影響は人間の活動が自然の活動を上回って大自然を消滅させたことによる.1940年代には人工的な起源によるイオウの放出が火山性イオウなどの自然現象による大気へのイオウの放出量を上回った.あらゆるところで人類の活動を浄化していた自然の浄化システムは能力不足になり,大気,成層圏,海洋,薬物汚染が地球規模に拡大したのである.

 物質の大量生産をもたらした機械システムはこのように資源の枯渇,地球環境の劣化という物質的影響を社会に与えただけではなかった.それまで生産力の制限を受けて十分な物質の供給を受けなかった社会は物を大切にするという道徳を身につけていた.この道徳は洋の東西を問わず,また太古の昔から大量生産の始まる20世紀前半まで実に長い間続いてきた人類共通の倫理観であった.その多くは宗教的な色彩を帯び,神から授かった物,自然の恵みと認識されていた.この倫理観は家庭生活,集団生活の中で全体の調和や結びつきを保持する上でも大きな役割を果たしていた.

 20世紀の物質の大量生産はこの基本的な道徳を崩し,使い捨て文化を生んだ.頻繁に指摘されているように使い捨て文化は資源の枯渇や環境の劣化をもたらしたばかりでなく,教育を荒廃させ,家庭崩壊の一助をなし,さらに社会を一層無味乾燥にした.

 機械工学を研究し,自動化やその他の大量生産システムを開発してきた技術者にとってみればそれがやがて使い捨て文化を生み,社会をある意味で崩壊させていくとは思いも寄らぬところであり,かつ現在においても機械工学において大量生産システムを作り上げた過程に対する強い反省はみられない.


2・3・3 各論-2:リサイクル

 前項で述べたように大量生産はやがて大量の廃棄物をもたらす.廃棄物貯蔵所は徐々に満杯になる.物質をある程度繰り返し使うという現代のリサイクルは時代の要求として出現したものである.もちろん,産業革命以前の社会でも現代以上にリサイクルが行われていたが,それは物質不足を補うためであった.これに対して現代のリサイクルは過剰な物質供給による社会の歪みの是正という意味を持つという点でかなり質的な違いを内包している.この様な人工的な原因によって行うリサイクルは自然発生的なリサイクル,物質を大切に使用するという工程とは異なり,様々な歪みを持っている.

 その第一は増産のためのリサイクルである.これをリサイクルの両価性矛盾という.もともと物質の総流量を減少させることに目的のあるリサイクルを,増産目的に行う場合である.典型的なものに自動車のリサイクルがある.自動車は大量の鉄,プラスチックなどを使用し,廃車の処理は難しい問題である.自動車に関する物質総量を減少させる最も効果的方法は自動車の小型化と長寿命化である.しかし自動車会社はそのような観点での活動はあまり熱心ではない.現在の従業員の規模を保持し,適切な収益をあげるためには毎年数%の増産が必要なのである.そのため増産のリサイクルが研究される.一方的に自動車生産会社を非難することはできない.なぜなら現在の経済システムは製造会社に増産以外の手段を与えていないからである.

 第二はもともと目的とするリサイクルの矛盾点を含んでいる場合で,これをリサイクルの内包矛盾という.典型的なものに家庭電化製品のリサイクルがあげられる.家庭電化製品は東南アジアを主とした海外生産基地で生産をしている.その家庭電化製品を輸入しているが,その比率は年々増大している.一方,国内に廃棄物として蓄積される家庭電化製品はこれも年々増大し,4大廃プラスチックといわれるもの(テレビ,冷蔵庫,クーラ,洗濯機)で約60万トンに上る.このリサイクルは法律の制定もあり盛んに研究されているが,リサイクルで回収する物質は新規の物質より高価で低品質である.それを国内で再生産をすると,新品の家庭電化製品を海外で製造しているという事実と論理的に矛盾する結果を招く(19).

 第三にリサイクルすることによってかえって物質の使用量が増大したり,繰り返し使用できる物質の生産を減少させる場合である.その典型的な例がペットボトルである.ペットボトルは飲料の移動に極めて便利であるが,現在のシステムではペットボトルをワンスルーで廃棄するのに対してリサイクルを行うと,回収,再生などでその数倍の石油を使用することになる(20).

 この様に,現在工学の分野で進められているリサイクルは多くの決定的矛盾を含んでいるが,それはもともと生産量を増大させるためのリサイクルという概念自体に矛盾があるからである.


2・3・4 まとめ:マッチポンプ型工学

 原子爆弾や最近ではエイズ事件が物語るように,学問における社会的影響はそれに携わる人たちの想像をはるかに越えることがあり,それだからこそ平時においても充分な倫理社会的影響について議論しておく必要がある.

 また,機械工学では大量生産システムの結果,新たに問題になった廃棄物問題について,さらに機械工学を用いてリサイクル機器の研究やシステム研究が活発に行われている.しかし,工学が「自己で原因を作り自己でその処理をする」といういわばマッチポンプ型工学の色彩が強いことを認識する必要がある.


3. 一般工学倫理からみた機械工学の倫理と社会ストレス

3・1 機械工学の倫理

 産業革命期における織機と蒸気機関の発明は,それまで個人的な経営による形態がほとんどであった鍛冶,縫製などの職人の仕事を巨大資本の元で行われる都市の工場群へと変貌させ,多くの農民が都市に集まった.それは資本主義の始まりでもあったし,同時に悲惨な労働者階級を生んだ.マルクスやエンゲルスらによって思想的基盤が作られた共産主義や社会主義も工学の進展の結果である.もし,優秀な自動織機や蒸気機関が発明されず,大規模工業が起こらなければ,巨大資本の必要性は薄れ資本主義そのものが誕生しなかった.大規模工業が誕生しなければ大勢の工員を雇う産業の誕生もなく,都市への人口集中も起こらず,都市のスラム化,労働者階級の抑圧も,共産主義すらも誕生しなかっただろう.この頃から国の社会状態や国力は政治体制や政策ではなく,国の工業の発展によって決定されるようになった.その意味で18世紀の終わりから19世紀半ばまでのイギリスにおいて政治から工学への優位性は徐々にできていったといえる.

 20世紀に入りいっそう物質文明の発展と同時に,大量輸送を可能とした自動車,航空機,鉄道網などの進歩,電話,テレビ,ラジオ,コンピュータに至る通信情報手段の発展により,地球上の出来事に関する情報伝達速度は産業革命当時とは比較にならないほど早くなり,人と物の移動は長距離,かつダイナミックになった.それが地球全体の距離感に影響を与え,生活様式,言語,価値観まで変化を与えつつある.

 この様に工学は,工学に携わる学者や技術者がどのように工学を評価しようと,その活動は結果として社会や生活に最も大きな影響を与えてきたことを,工学に携わる人達自身がまず認識する必要がある.Eugene(21)が述べているように「政治家はせいぜい工学が行ったことの配分をより使いやすくしているに過ぎない」といえる.工学によって航空機,自動車,コンピュータ,光ファイバケーブル,携帯電話などが開発されると,その時点で社会はその影響から逃れることができない

 この様な視点に立脚すれば,まず,蒸気機関による男性の筋肉の価値喪失,家庭電化製品による女性の労働の喪失はともに,男女の役割分担による相互尊敬と家庭という生物としての最も基幹となる生殖活動の場を奪い,極めて不安定な精神状態を惹起した.それは人間が自ら工学に対するその価値を認め,工学のはらむ欠陥も承知しながら社会に対して発信してきたのである.

 さらに現在進行している通信革命が間もなく人間から頭脳,判断活動を奪うが,これも電子工学,情報工学,機械工学など関連工学の研究者,指導者,そして技術者が自らの倫理観,世界観から確信をもって進んでいるはずである.それら工学の発展の結果,精神的に厳しい環境におかれ,肉体労働の価値を奪われ,頭脳労働からも追放される人間に対して明確な責任を有すると考えられる.工学は結果的にそうなったのだから責任はないという今までの考え方を転換しなければならない.


3・2 社会へのストレスの複合化

 人間の遺伝子の変化は徐々に進み,人類が誕生してから約450万年を経るが基本的な人の遺伝子は変化していない.まして産業革命以来の300年ほどで遺伝子の変化をもたらすことは考えられない.その中で工学の発達は社会に大きなストレスを及ぼしている.男性の精神状態には国,妻子を守る勇気と自己犠牲が備わっている.剣を取って敵と戦い,あるいは戦場で名誉の死を遂げることは,第二次世界大戦というわずか50年前までできたことである.それは原子爆弾の出現や通信手段の発達によりほぼその機能を発揮することができなくなった.

 また,2・2節に述べたように,精神的にも,男性の筋肉機能,女性の家族への愛情という機能,頭脳の機能が発揮できなくなる.これらの機能は日々使用することによって満足感を味わい,その日を終わるわけである.労働に汗をかく,頭を絞るなどの行為がない生活を過ごすことは機能を使わないという意味でストレスを増大させる.

 加えて,地球環境の劣化や資源の枯渇などの問題は個々の人間の活動によっては到底解決できる物ではなく,一国でも処理できない規模である.この様な制御できないストレス要因が次々と投げかけられるなかでこれらの複合的なストレスにさらされる.前節に述べたように工学が社会に提供する様々な技術や製品は,社会に選択の余地を与えずに,社会をその工学の目指した方向に持っていく.工学,そしてその中核となる機械工学がいつまでも工学の成果は社会が選択するという形式論に止まることのないようにするべきである.


4. おわりに

 近代科学はヨーロッパで始まったが,工学が大学の学問として認知されたのはM.I.T.が設立された1866年といわれる.しかしレオナルド・ダ・ヴィンチの活動で判るように科学と工学,または理学と工学はそれほど厳密に区別されていたわけではない.中世ヨーロッパの教条から解き放たれて近代科学が誕生した時にも,またその後も自然の解明,そしてその応用としての工学はキリスト教の教義と深く関係していた.自然を解明するということは神の摂理を知ることであり,それは日本で理解されるような真理を理解することとは異なっていたと考えられる.

 日本においては江戸時代以前に日本独自の工学に関する倫理や思想が出来上がっていたが,明治時代の到来とともに欧米の工学が持ち込まれ,日本の伝統的な工学に対する倫理観が失われたのである.そして欧米の工学思想や倫理でもなく,日本の倫理観でもない工学思想がほとんど何の知的議論もなく明瞭ではない状態で工学の進歩を支えてきたといえる.しかし,今や世界一といわれる工学関連の生産技術や,欧米と独立した工学研究の確立が叫ばれるなら,その発展を支える日本の工学思想,工学倫理が必要であろう.
 自ら反省することしきりである。

名古屋大学 武田邦彦


文  献

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