夢と倫理


 三菱自動車の真面目な技術者には大変申し訳ないが、パジェロの事件と言い、三菱自動車には多くの不祥事の歴史がある。これに対してホンダにはそれほど目立った倫理事件は報じられていない。真実は定かではない。もしかすると事実は反対かも知れないし、水面下で何があるかも明確ではない。でも、ここでは表面にでてきた不祥事の差が、何に起因するかを考えてみたいと思う。

 ホンダはいうまでもなく、本田宗一郎が戦争後に始めた会社で、1946年には旧陸軍無線機用の小型発電機を自転車用補助エンジンに転用して取り付け、これをホンダA型、通称「バタバタ」として売り出した。この成功をきっかけに現在の巨大な本田技研がある。

 本田宗一郎が根強い人気があるのは、「会社を大きくしようとして頑張った」のではなく、「機械いじりと仕事が好きだった」ということをやっているうちに会社が大きくなったからだろう。そこに多くの人は自分ができなかった「夢」を感じることができる。

 これに対して、三菱自動車は血統書付きである。戦前は九六式陸攻、零戦などの名機を製造し、陸上輸送機器、海上船舶、産業機械に至まで世界のトップの技術力を持っていた。戦後、三菱重工業から三菱自動車が独立し、もし順調に成長していたら、トヨタ自動車より大きな会社になっただろう。でもダメだった。

 倫理を大学で教えているが、なかなか難しい。

 人間が「正しい」と決める手段には複数有り、1)神様が正しいことを教えてくれる 2)王様が正しいことを命じてくれる 3)偉人が正しい道徳を示してくれる 4)自分自身の信念で決める 5)相手に正しいことを聞いてみる のように整理することができる。倫理はどちらかというと5番目に近く、あまり特定の宗教や自分の信念によるのではなく、もう少し客観的な根拠に因りたいと考えている。

 だから、倫理の黄金律は、「他人がして欲しいことをする(積極的黄金律)」「相手のして欲しくないことはしない(消極的黄金律)」が知られていて、強く相手を意識している。ともかく、倫理や道徳というものは「何をしたらいけない」という否定的なものが多い。でも、本当に倫理を守るのに、黄金律や「これをしてはいけない」ということがいるだろうか?

 なぜ、三菱に不祥事が多く、ホンダに少ないのだろうか?

 ある人が強い夢をもって自転車に小さなエンジンをつけて原動機つき自転車を作り、それで風を切って走ることができたら快適だろうな!と思って、原動機付き自転車作りに夢中になったとする。彼はエンジンもすぐには設計できないので、昔の陸軍の小さなエンジンを捜してきてそれを取り付ける・・・やっと走り出したときの彼の喜びは大変なものだろう。

 ある人が強い希望をもって、自転車レースに出ようとしているとする。レースにでるには自転車の整備から体を鍛えること、レースにでる面倒な手続きなどが山のようにあるが、彼はその希望に胸をふくらませている。そして初めてレースのスタートにたったとき、彼の胸は高鳴る。

 このような人達は倫理にもとることをするだろうか?彼は原動機付き自転車を作ること、レースにでることに夢中であり、それ以外のことを考えるのが面倒であるに違いない。レースに勝つ為になにか細工をするなどということはしないだろう。もし、レースに細工をしたら、その人の人生の目標を失ってしまうので特殊なケースを別にするとあり得ないことである。

 一方、自動車にはあまり興味がなく、もしくは興味があってもそれは遠い昔で、すっかりサラリーマンになった人が自動車を作ると、パジェロのようにブレーキが効かないことが判っているのに販売するようなことが起こる。雪印乳業が売れ残った牛乳を戻して混ぜたり、配管が汚いまま製造を続けたり、1万人を超す人が自分達の作った牛乳を飲んで苦しんでいるときに、「私も眠っていないんだ!」と記者に怒鳴り返すなどのことが起こるのも、「美味しい牛乳を飲んでももらおう」という気持ちはないのだろう。

 そう考えると、倫理を「・・・をしてはいけない」という視点で見ることも出来るが、それより積極的には夢をもってこの人生を送れば、結果的に倫理が問題になるような行為はしないということになるだろう。

 このような「夢」を中心として人生を送った場合、何でもかんでもバラ色か、というとそうでもない。現実の社会は人の夢を朽ち砕くシステムもまた存在するからである。そのようなシステムを無視できるほど強く、あるいは夢が大きい場合は良いが、普通はあまりに多い社会の障害に自分自身の夢が壊れてしまうこともある。このようなことを少しでも少なくするためには社会の方も夢をもつことが必要なのだろう。