サケ



 山の頂を白く染めていた雪が春になると解け出し、その雪解け水は小さな流れとなって山の頂を出発し、渓流を作りながらやがて大きな流れとなる。透き通るような渓流の中に足を踏み入れると切れるようにいたい。やがてその冷たさに感覚を失うが、それも心地よい。

 そんな綺麗な渓流にも魚は少しはいる。釣り人もそれを狙う。釣り人は、魚の数が少なく、釣るのが難しいので夢中になる。だから、川の太公望というのも後を絶たない。

サケの子どもの卵からかえって産声を上げるのはこんな季節である。川底に生みつけられたサケの卵が孵化の準備を始め、やがて小さい稚魚が卵から顔を出す。川は上流から冷たくすんだ雪解けの水が絶え間なく流れてきて、サケの稚魚の柔らかい肌をなでるように流れ去る。去年の秋から僅かにこびりついている石の表面のコケを突っつきながら、サケの稚魚たちは旅立ちの準備をするのである。

 サケは自分たちの生まれたこの綺麗な川では育つことができない。サケほどの大型の魚は成長するのに十分な餌が必要である。雪解け水の流れてくるこの川は綺麗ではあるが、綺麗であるということは餌がないと言うことだから、サケを育てるだけの栄養は含んでいない。コケの量も少ないし、餌にするような小魚もほとんど見えない。

 サケは五月になると既に体長が3センチ程度に発育し、生まれ故郷を離れ始める。サケは川で生まれるが、川で育つことはできない。川を下って海に出て、大海でその大きな体を育むのだ。そして大人になり、子供を産むときになると再び故郷の川に帰ってくる。

 やがて長い旅路を終え、故郷の川を遡上するために河口に集まったサケはいくらか戸惑っているようである。自分の体の中の血は「この川は故郷の川だ」と言っているが、何となく臭いは違う。しかしこの感触は紛れもなく故郷の川だ。

 この1年と言うもの、その川の上流には廃棄物貯蔵所ができ、中流では取水口が変った。そして下流ではそれまであった工場が立ち退き、おおきなビル群が建ち並んでいる。

 もちろんサケは風景には関心がない。でも水の質は確実に変っている。

 サケは迷いながら川を上っていく。川を上るのは大変で、いったん間違った川にもぼったら再び川を下ってやり直すことはできない。やがて、決心がついたサケの一群は河口から川を勢いよく上り始める。河口に着くまであれほど旺盛な食欲を示して手当たり次第に餌を取ってサケの体はぱんぱんに張り、充実した皮膚の下には脂肪が蓄えられている。

それが故郷の川に入ったとたん、全く食欲を失う。故郷の川の感触に胸がいっぱいになったサケは、餌をとる様子もなく、まっしぐらに自分が生まれた川の上流に向かってばく進する様に見える。

 体力の充実した若いサケが遡上する有り様は迫力満点である。餌をとらないばかりか、
「川を遡る」
ことだけ。そのほかのことにも全く関心を示さない。ただひたすら上流へ上流へと進んでいく。多少浅いところがあったり、小さな滝があったりしても蓄積した体力と若さで力強く乗り切る。とがった岩がサケの体を傷つけることにも関心はない。

 サケは川を上り始めてから全く餌をとらない。上り始めたサケは自分の運命・・・自分たちに残された仕事はもはや一つしかない・・・と言うことを知っている様に振る舞う。

「一刻の猶予もない。速く上流に行って良い伴侶を見いだすのだ」
 サケはその一心でもがき、速度を速める。

 上流にたどり着いたサケはどのサケも多少傷んでいる。そして河口に入って来たときにあんなにぱんぱんに張っていた体のつやはもうその面影もない。激しい川上りのため体力をすっかり使い果たし、皮下脂肪はとれて痩せこけている。

 メスがやってきて川底の砂と小石を跳ね除けて、小さなくぼみを作る。その後を追って数匹のオスが最後のエネルギーを絞って近づく。ヘトヘトになっていてもオスにはまだ仕事が残っている。競争相手を押しのけて、自分の子供を残さなければならない。そうでなければ今まであんなに苦労して、川を上ってきた甲斐が無いのだ。

 やがて争いに勝ったオスのサケが精子をふりかける。
 その瞬間、サケの臨終が訪れる。
 そのまま息絶えたサケが美しい流れの中にその身を横たえる。

 確かに川を上って産卵したサケは以前のように元気ではない。しかし、先ほどまでメスを獲得しようと戦っていた体力が一気になくなっているようには見えない。立派な体をしている。これから川を下り再び大海に出てその
「余生」
を送っても良いように思われる。

 一匹のサケだってたった一回の命なのだ。第一こんなに苦労して川を上り、そして卵を生んでその役目を果たしたのだ。生まれてくる若いサケは確かに若いかもしれないが、一回産卵を経験しているサケだって役には立つ。大海で育った若いサケは河口に来ると、それが本当に自分たちの故郷の川なのか迷うであろう。その点自分たちはその経験もしている。

 それなのになぜ? なぜ元気なサケは産卵の直後に死ぬのか?

 カナダのアダムス川には毎年たくさんのサケが遡上する。このアダムス川の中流には湖があって、上流で卵からかえったサケの稚魚はこの湖で成長し、体力を付けて海へと旅立つ。この湖は栄養にとみ、プランクトンが豊富である。このプランクトンをサケの稚魚は食べるのだ。

 稚魚の親はその前の年にアダムス川の上流で産卵の直後に死に、その屍は上流から流れて、この湖の底に沈む。屍は腐敗して分解し、それをプランクトンが食べて、この湖はやがて春になったら来るサケの稚魚の歓迎の準備をするのだ。サケは死してその体を自分の子供達のために残す。自分の体を食べるのは自分の子供でなくても良い。仲間のサケの子供でも良いのだ。とにかく、自分たちの子供はやがて自分の体からできたプランクトンを食べて、育ち、海に向かうだろう。子供は自分の遺伝子を受け継ぎ、自分の肉を受け継ぐ。
 
「サケの心」
はサケの体のどこにあるのだろうか?

 鱗には心はない。鱗はときどきはがれるので、そこにサケの心があれば不意の怪我でもサケは自分を失ってしまう。サケの肉もサケの本陣ではない。目も鼻も単に体の機関にすぎない。

 サケの頭はどうか?サケの頭は魂が宿るほどには優秀ではない。頭もまた目や鼻と同じ一つの機関であって、サケの心ではない。サケの本陣はサケのおなかの中にある生殖細胞なのだ。サケは自分の心がおなかにあると言うことを知っている。

 サケは産卵するときに生殖細胞を自分の体内から外に出す。精子を外に出したサケの体は既にサケにとって、
「抜け殻」
にすぎない。

 生殖細胞は子供を作り、永遠の命を与えてくれる。サケにとってはそれは自分自身であり、サケの体自体は、人間の爪のようなものであっていつ捨てても良い。まして、その体の肉で子供を育てることができるのなら、「抜け殻」には未練はない。それがサケにはそれが実感できる。サケにとってみれば自分自身・・・すなわち生殖細胞は既に川底の卵の中にいる。自分の肉体の中には自分は既にいない。まだ肉体が生き生きとしているとしても何の未練があろうか。

 残念ながら、人間にはそれは実感できないので、サケがまだまだ生きていけるのに自ら命を絶つのを見てそれが理解できないし、子供ができても世間に未練のある人が多い。

 人間はサケよりもどこが偉いのだろうか?