― 万博のゴミ ―

 

 万博のゴミがどうも怪しいのです。愛知万博は入場者数も多く、環境を大切にする万博、ということでこれまでの博覧会と違っていくつかの試みをしました。その中には大きな成功を収めたものもあり、新しい時代の博覧会としてともかく良くできたものでした。

 万博が終わって半年たち、関係者からは「万博はこれまでの博覧会などのイベントに比べてゴミが半分ぐらいだった」とその成果を宣伝しています。

 でも、それがどうも怪しいのです。大学で「万博会場で分別したゴミをどうしたか?」という調査をしてみると、どうもどこに行ったのか、なにに使ったのか判らないのです。調べても判らないので、万博の担当者に聞いてみると、「リサイクル業者に出しました」と言いますし、リサイクル業者に個別に聞いてみると、どうも行き先をハッキリ言いません。

 万博の関係者は「ゴミは分別してリサイクルした」と言っているのですが、「万博のゴミを使った」という人が存在しないという奇妙な状態なのです。もしリサイクルをしているなら必ずそれを使った人がいなければいけないのですが、それは丸秘になっているのです。

 それでも万博は良心的です。リサイクルでもっとも「汚れている」のはペットボトルのリサイクルです。ペットボトルのリサイクルは国民的運動として行われ平成9年頃から始まっています。その目的は「焼却を止め、資源のムダ使いを減らし、ゴミを少なくする」でした。そのキャッチフレーズで国民に協力を呼びかけたのです。

 ところがその後、ペットボトルの生産量は増え、平成15年には45万トンになり、そのうち半分がリサイクルされています。ということは、リサイクルしないで捨てるペットボトルの量は、「リサイクルが始まっても減っていない」のです。また、もちろんペットボトルを回収するにはガソリンや置き場所が要りますから、ゴミもずいぶん増えました。

 国民に呼びかけたときから、資源は倍以上を使い、ゴミは増えている。私の計算ではグラフの他に「目立たないゴミ」という意味の「背後霊」が100万トンぐらいあるのですから、
「ペットボトルのリサイクルは、詐欺だった」
と言っても良いのです。

 それでも日本国民は、
「騙された!」
とも言わず、毎日、黙々とペットボトルをリサイクルしているのですから、私は、
「よく、これほど騙されているのに我慢強い」
と感心します。

 でも、この奇怪な現象はすこし奥深い、日本文化の神髄のようなものがあると思うのです。

 このシリーズでは、先回、日本の自衛隊がイギリス軍やフランス軍と同じ程度の武力を持つのに、日本人は「自衛隊は軍隊ではない」と言い張り、最高検察庁も政府を起訴せず、憲法の番人である最高裁判所も憲法違反と言わないという奇妙な現象を紹介しました。

 憲法に、
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」
と書いてあることは最高裁判官も、日本国民もよく知っており、さらに自衛隊が紛れもなく
「陸海空軍その他の戦力」
であるのにも拘わらず、憲法違反として政府を罰しないのです。

 これと全く同じで、毎日、リサイクルに出しているペットボトルがリサイクルされず、またリサイクルすると言って集めているので、かえってペットボトルの消費量が増えているにも拘わらず、
「資源を大切にし、ゴミを減らすためにペットボトルをリサイクルしよう」
と言い続けることができる、そんな不思議な国民が日本人です。

 さらに最近では「どうも本当にリサイクルできないらしい」ということになると「焼却した場合もリサイクルと呼ぶ」と決めて、「燃やしたペットボトル」もリサイクル率の中に計算しています。

 この現象を私は次のように解釈しています。
1) 日本人は「環境」を大切にしたいと思っている。
2) そのために何をしたら良いか、ハッキリは判らない。
3) とりあえず「リサイクル」をしているが、本当は「リサイクル」はされていないのは知っている。
4) でもその「建前」を崩すと、環境を大切にしたいと言う気持ち自体が崩れる気がする。
5) 結果的には「騙されて見せているから、そのうち、お国か学者がしっかりしてください。私たちの気持ちはわかっているでしょう」と言いたいのだと思います。

 憲法九条の問題でも同じです。
1) 日本人は「平和」を大切にしようと思っている。
2) そのために何をしたらよいか、ハッキリとはわからない。
3) とりあえず「戦力を持たない」としているが、本当は「自衛隊は軍隊」ということは知っている。
4) でもその「建前」を崩すと、平和を大切にしたいという気持ち自体が崩れる気がする。
5) 結果的には「騙されて見せているから、そのうち、お国か学者がしっかりしてください。私たちの気持ちはわかっているでしょう」と言いたいのだと思います。

 この世に「事実」と「建前」がある時に、どちらを大切と思うかはその文化が決めることです。日本の文化は事実と建前が違っていても、それ自体を問題にするのではなく、本筋はどちらかということを建前として示しているのだと私は思います。

 でもこの優れた国民性を逆手にとって日本国民はおとなしいから何でもできる、と高をくくっている感じもしないではありません。

つづく