少し前に古生代からの地球の気温をグラフに示した。第一回がカンブリア紀の前で、今から6億年ほど前のことであり、第二回が今から3億年前である。そして現在は第三回目の地球寒冷時代である。正しくは、第二氷河時代に当たる。

 「地球は温暖化しているんじゃないの?」と言いたくなるだろう。それは「地球」のことを言っているのではなく「自分の生きている間としては暑くなってきた」程度のことである。現在の地球が生物にとってとても寒い時期であるだろうということは容易に想像がつく。

 多くの人間が住んでいる地域といえば「熱帯」である。アフリカ、インド、インドネシア・・・どこも人口過密な地帯で、人間にとって一番、気候が良いと言われる温帯地方より人口密度は高い。人工的に寒さを防ぐための服を着ることができる人間ですら、温帯より熱帯の方が、居心地が良いのである。

 生物は強い種がもっとも良いところに陣取る。だから人間が多いところは人間にとって好ましいところであり、それは熱帯だ。シベリアやカナダの人口密度は低い。

 もちろん植物や動物にとっては熱帯以外にはそれほど住みやすいところはない。アマゾンのジャングル、アフリカのサバンナ・・・動植物がもっとも好むところもまた熱帯なのである。もともと生物の体は遺伝によって作り替えられていくので、もし現在の地球のような気候が長く続いていたら生物は自らの体を「耐寒性」にして寒いところに住むように変えることができる。でも、少し前までは地球は十分に暖かかったので、現在のような体の植物や動物が誕生してきたのである。

 まさに今は第二氷河時代だからこそ、みんな赤道にへばりついている。決して、今は「地球温暖化時代」ではないのである。

 ある時、東京から名古屋にとても偉い先生がお越しになり、名古屋の立派なホテルで大きな講演会が行われた。そこで、その偉い先生が「地球温暖化がどのぐらい恐ろしいことか」という講演をされた。1時間ほどの講演が終わって私は次のような質問をした。

わたし 「現在の地球の気温は平均15.5℃と言われていますが、先生は何℃ぐらいが適当と思われますか?」
先生  「???」

 温暖化が危機であるということは、気温が問題なのだから、もともと我々は何℃ぐらいの地球が良いかをまずは考えておかなければならないが、この先生はそこまでは考えていなかったらしい。単に政府が「温暖化は悪い」というからそれを繰り返しているだけである。そこで私がもう一つ質問をした。

わたし 「今まで、地球の気温は短期的には10℃ぐらい、長期的には20℃ぐらい変わっていますが、先生は地球の気温が自然に変化する場合でも、一定の気温に保つようにする方が良いと思われますか?それとも人為的な原因の場合だけが問題と思われるのですか?」
先生  「???」

 人為的に気温を左右するのは悪いが、太陽の活動や地軸の向きなどで気温が上下するのは構わないという。その判断も悪くはないが、そうするとまた話は別になってくる。

 地球が温暖化すること自体は問題が無い。それが「人為的」だから悪いのだという事になると、温暖化自体で被害があるのかないのかという問題をまず考えなければならない。もし温暖化が被害をもたらすなら、それが自然の動きであろうと、人為的であろうと同じである。対策が必要だ。

 もし、被害が無くても人為的に自然を変えるのが良くないということになると、人間は岸壁も都市も、川の護岸工事もあまり感心したものではないし、人間が増えて動物が次々と絶滅して行っている現状は温暖化より酷い。

 温暖化自体による被害があるのかというとそれは「地球の場所によって違う」ということになるだろう。まず地球のどの当たりの気候が一番、住みやすいかで決めなければならない。現在のところ、赤道直下が一番、人口密度が高いのだから、人口密度の高い地域を大陸へ移動させるには、温度が少し高くなって中生代ぐらいになった方が良いかも知れない。そうすると温暖化は「善」である。

 人間や生物にとって暖かくなるということは良いことである。作物は多く採れるようになるし、北海道などの寒冷地では栽培できる作物が増えて嬉しい。

 病気がちな人にとっても温暖化は助かる。事実、脳出血などの血管の病気は温暖化が進むと少なくなる。

 このグラフは平均気温と虚血性心疾患による死亡との関係だが、寒くなると死ぬ人が増える。だいたいお年寄りにとって寒くなるのは大敵だが、暖かいのは助かる。体の強い人だけの環境ではない。

 また間もなく石油が無くなると言われる。石油を暖房に使わなければならない国はほとんど北の国だが、もし北の国がなんとか自然の気温で生活できるようになれば石油の消費量は大きく減る。

 良いことだらけの地球温暖化だが、誰が「温暖化が悪だ」と言ったのだろう。

 第一に女子高校生である。

 それは「ツバル」があるからだ。気温が上がり、海水面が高くなってツバルという国が沈むという。「可愛そうだ」と女子高校生も集まって「ツバルを救え!」という運動が行われている。

 悪くはないが、気温が上がって喜んでいるところはどうなるのだろうか?「君たちは好きでそんなに寒いところに住んでいるのだから、寒いままで良いでしょう」と言うのだろうか?それならツバルも「君たちは好きでそんなにすぐ沈むところに住んでいるのだから、沈んでも良いでしょう」という事になる。

 「私の親戚が困る。だから困るんだ」「私のたまたまの知り合いが苦しんでいる。だから地球全体が困っても、私の知り合いが大切だ」と言うのと似ている。私はそんな運動にはあまり熱が入らない。

 第二に環境省である。

 環境省は地球温暖化に対して疑問が多いのに手を焼いて、ついに次のようなコメントを出した。

 「温暖化を疑問視する主張は誤解に基づくものが多く、見過ごせない」(2006年8月26日読売新聞)
という見解を出した。その上で、
 「CO2削減が待ったなしで求められる中、温暖化への疑問に丁寧に答えていきたい」(環境省研究調査室)
と温暖化が悪いということを前提で国民の説得にかかろうとしている。

 実は、地球温暖化に異論を唱えている人を私も知っているが、みんな真面目でしっかりした人だ。むしろ環境を大切にと考えているからこそ、政府の発表だけを参考にせず、自分で考えている人たちである。

 環境省が「CO2削減が待ったなしで求められる」と言っているのは、1990年に日本が排出していた二酸化炭素の量を2010年までに6%削減することを京都会議で約束した、そのことを言っている。このまま行くと2010年には1990年に対して20%ほど二酸化炭素の排出量が多くなる。だから「待ったなし」と言うのである。

 しかし一方、政府は「景気を良くしよう」「技術立国日本」と言っている。そうなると企業の活動の源泉になるエネルギーが減るはずも無い。国民も少しずつ贅沢になってエアコンを付けるようになった。

 国土交通省が管理していると思われる鉄道でも、駅にはエレベーターやエスカレーターが完備し、電車はここ数年で、ほとんどエアコン付きになった。これで二酸化炭素が減るはずもない。第一、政府は自分たちで自己矛盾した行動を取り、それに異議を挟む国民を攻撃しようとしているのである。

 第三は環境学者や関係の国立研究所である。

 先日、あるマスコミから「なんで意味もないリサイクルに対して、法律を作る時に専門家が反対しなかったのですか?」と質問された。私は次のように答えた。

 「それは、こんな順序だったのですよ。
1) ゴミが増えて減らさなければならないということになった。
2) ゴミを減らすにはリサイクルすればよいのではないかという事になった。
3) リサイクルの研究費が膨大に出た。
4) それを貰って研究した専門家は、研究費を貰っているのにリサイクルができないと言うと研究が失敗したことになるので、あたかもリサイクルは効果があるとか、特殊な場合に限定すれば効果があるだけなのに、それを全体的に効果があるように報告した。
5) リサイクルの可否を議論する時に集まったのはリサイクルを研究する専門家だった。
6) 必然的に誰も反対が出来なかった。」

 社会が複雑になると、やることなすことややこしくなる。新しいことをするのだから研究はしなければならない。それで出来ないと判っても「それなら、そんなところになぜお金を使ったのか!血税だ」と文句を言われる。かといって研究をしなければ判らない。こんな単純なことも上手くいかないのが近代国家というものである。

 これと同じように地球温暖化でも膨大なお金が出た。「地球温暖化対策研究費」をいただいた専門家はまさか「地球温暖化は問題ありません」と言えるはずもない。かくして一度、錯覚して決めた道はそのまま破綻するまで歩いて行かなければならないのだ。

 でも、デザインや美術にはそれを覆す力がある。それは人の心に訴えるからである。どんな単純なことも論理で向きを変えることは難しいが、人の心はそれを知ることができる。

 みんなが科学技術を信奉し、無限に発達できると信じていた頃、あるニューヨークの画家は科学の力を信じて拡大を続ける人類を「アンプリファイド・マン」と名付けて警告した。芸術にはその力がある。

 地球温暖化の滑稽さをデザインで見事に示して欲しい。芸術は反抗の中で優れた作品が生まれる。

つづく