ダイオキシンの話の最後にこの問題と「予防原則」について触れておきたいと思います。このことを最初に「ダイオキシンと醤油」という表現で解説をしました。

 まず「予防原則」とは何かについて解説をします。

 近代科学は19世紀から急速に社会に影響を与え始め、第二次世界大戦の前後で人間の活動は自然の活動量に接近してきました。その影響は直ちに現れ、1952年のロンドンスモッグ、水俣病、そして世界各地の公害問題を引き起こしました。

 かつてフランケンシュタイン博士が、怪物フランケンシュタインを創造し、自らが創り出したものに反撃されましたが、それと同じ事が起こったのです。近代科学は溢れるほどの物質を創り出し、その物質が人間に反撃を加えてきたのです。

 私が「リサイクルしてはいけない」という本を出した時、私が出版社に送った原稿のタイトルは「フランケンシュタインの子供達」というものでした。環境問題は自らの子供が自分に刃向かってきたようなものであり、それを誰の責任だなどと言っても解決しない、自らの生活を小さくすることが第一、という主旨だったのです。

 でも社会がその覚悟をつけるのは難しく、結局、「大量生産を継続しながら危ない物だけを除こう」としたのです。でもそれは不可能でした。水俣病が我々に教えてくれたこと、それは「チッソが悪い」ということではなく「大量生産では、未知のことが起こる」ということだったのです。

 そこで1992年のリオデジャネイロの国連環境開発会議(地球サミット)にて「予防原則」が採択されました。「危ないかも知れない物質は、科学的根拠が無くても規制する」という内容でした。

 大量生産を続ける限り、予防原則は必要でしたが、日本のマスコミが悪のりしました。予防原則は「科学的根拠が無くても」とハッキリしているのです。ダイオキシンはその第一号のようなもので「ダイオキシンの毒性については科学的根拠がないが、危ないかも知れないから規制する」というものでした。

 正しい、まったく正しいのです。

 これほど頻繁に新しい物は出てくるし、古い物でも大量に使うようになるのですから、ともかく歯止めが必要です。膨大な数の会社が自社の利益を優先し庶民の健康は二の次なのですから、「科学的根拠」など言っていられないのは当然でしょう。

 それでは何が間違っていたのかというと、「ダイオキシンが猛毒であるというのは科学的根拠は無い」と報道しなかったことにあります。勇気が無かったのでしょう。「科学的根拠が無い」というと「なんで規制するのか!」と怒られます。でも、説明はできるのです。

 水俣病も四日市喘息も、そしてカネミ油症事件も被害者が出てから規制しました。これまでのように「科学的根拠がなければ規制しない」などと言っていると犠牲者が出なければ規制できません。

 このシリーズでも、ダイオキシンの毒性が弱いという科学的証明は「患者さんがいない。猛毒なら犠牲者が出るはずだ」ということです。でも、犠牲者が出てから規制するというのでは犠牲者に申し訳ありません。だから「予防原則」は重要です。

 でも、ダイオキシンは規制する前に大量に放出されていました。だから、予防原則でとりあえずダイオキシンの量を減らす前に、大量に曝露された人が何万人もいたという特殊な例でした。だから「猛毒ではない」と言えるのです。

 つまり、水俣病、ダイオキシンの2つの教訓を記述すると、
1) 新しい物を使い始める時、
2) 古い物でも大量に使い始める時、
3) 十分に環境への影響を調べ、
4) もし危険だという兆候があれば、
5) 科学的根拠無しに規制し、
6) その後、追加して研究し、
7) 大丈夫なら安心して使い始める。
という事になります。

 水俣病もダイオキシンも、上記の2)から始まりました。4)が明らかになったとき、ダイオキシンは「ウソ」をついたために、その後、正しい道を歩くことができなくなったのです。

 ダイオキシンは科学的根拠が無いまま規制したのですから、6)、7)が出たらその時点で規制を緩め、家庭用焼却機を復活させるのが適当です。

 ところが日本の政府も自治体も、「ダイオキシンは本当に危ない」と住民に宣伝してしまったので、今更、家庭用焼却機を勧める訳にもいかず、ゴミを焼却するともおおっぴらに言えず、「サーマル・リサイクル」という和製英語を作って、国民に2度目のウソをつかざるを得ないという状況なのです。

 このシリーズの最初に、ダイオキシンと醤油はどっちが危ない、と書きました。今では「庶民が気をつけなければならない」という点から言えば、ダイオキシンも醤油もほぼ同じようなものと言っても良いと思います。つまり赤ちゃんの傍に醤油を無造作に置いておけば誤飲することもあります。一方、ダイオキシンは日常生活では僅かしか出ませんので、あまり気にする必要がないという事です。

 でも、決定的に違う点があります。第一にお醤油は食品ですし、ダイオキシンはたとえそれほど毒性が高くなくても要注意のものであることに変わりありません。たとえば「庭の土」が無毒だからそのまま口に入れて良いということではありません。

 また建設現場でセメントが無造作に積まれているからといって、それを口にしても障害は無いということでもありません。「セメントを食べる人はいない」というのを暗黙の了解事項として社会はセメントを正しく取り扱っているのです。

 また、「毒性」と「危険性」というのは、1)濃度、2)量、3)経験、4)使い方、の4つをバランス良く考えないと、とんでもない結論に到達してしまうからです。

 ダイオキシンはたき火などで少量発生し、灰の中にも含まれている・・・というのが前提でその毒性も考えなければなりません。また、人間というのは言うまでもなく「生物」ですが、生物は昔から敵の中で戦いながら生きるものですから、「危険性がある」というのがそのまま「悪」であるとは言えず、それが克服できるものか、実際の生活でどのように使われるかで判断するということになります。

 人間がダイオキシンに強いということは、人間が「火」を使う動物だからだと考えられますが、「火」は人間の技術そのものです。もし、大昔、火を使うとダイオキシンが出るから火を使うのを止めようと言ったら、人類の文化はどうなったでしょうか?

 文化は、ほとんどの場合「生物としての人間」のもともとの性質と相反することがあります。だからこそ、現在の人間は「野生」から遠く離れた体や防御システムを持っているのです。

 そこで、現代の我々はダイオキシンが出るからと言って技術の進歩を止めるのか?という問いかけに対して、私たちはもう少し突っ込んでよく考えてみなければならないと思います。

 ダイオキシンは決して恐れるような物では無いのですが、今回のダイオキシン騒動が我々の文明に対して深い洞察と決断を促していることも確かです。この問題を単に庶民同士で非難する道具に使うのではなく、より良い日本を作っていく材料として活かしたいものです。

おわり