お釈迦様とイエス・キリストとは600歳ほど年齢が違う。だからこの二人がお会いになって話をする時にはお釈迦様がやや兄貴分という事になる。

お釈迦様「イエスさん、この世は無情ですな。」
イエス 「本当に。私もそれを野の花とさえずる鳥のように生きなさいと言ったことがあります。」
お釈迦様「悪い人、良い人と言いますが、ほとんど同じですね。」
イエス 「ええ。私もそれを罪人の女の刑罰の時に民衆を諭したことがあります。」

 歓談、数時間。お釈迦様はゆっくりと横になっておられたし、若くてお酒の好きなイエスは大いに杯を傾けていた。この「超」偉いお二人には意見の相違などは無かった。お二人ともこの世や人間というものをすっかりお判りなのだから、違うはずもなかったのである。私にはお釈迦様とイエス様が喧嘩することなど想像もできない。

お釈迦様「それはそうと、可愛そうに人々は私たちの教えを少し誤解していて、祭礼の形が違うことでいがみ合いをしています。」
イエス 「そうですね。まだヨーロッパ風の教会とアジア風のお寺さんが同じものだということに気がついていないようです。私ももう少し長くこの世にいたら、アジアの方にも行って祭礼の形を統一できたと思いますが。」
お釈迦様「そう。まだ人々には形しか判らないようです。宗教の自由などという言葉もあるようですが、考えが違う神様がおられるはずがありませんから。」
イエス 「どうも、お釈迦様のお考えを私が理解できないとでも思っているようですね。」

お釈迦様「今度、機会を見て、マホメットさんもお連れして靖国神社にお参りしましょうか?」
イエス 「えーと、チョット待ってください。父と会う約束がありまして、ああ、そうですね。西暦で恐縮ですが、2600年ぐらいになると時間が空くのですが。」
お釈迦様「ああ、そうですか。では、その時に私の方から連絡しますよ。」

 現実に知覚できることは人に教えることができる。でも、自分自身で知ることができないことは人に教えることは難しい。単に自分の趣味や錯覚、幻想、思い入れかも知れないからである。そういう難しいことはお釈迦様とかイエス・キリストに教えていただかなければ人に教える自信は無い。

 でも、それはすでに示されているように思う。アジアにはお寺があり、ヨーロッパには教会がある。そして日本には神社がある。それぞれの地域にはそれぞれの祭礼の場所があり、それはかつてお釈迦様やイエス・キリストの教えを人間が発展させたところである。

 建築様式が違ったり、手を合わせる順序が違うのは、人間が決めたことだから仕方がない。神様なら世界全体を見渡せるので同じ方式に統一されたかも知れないが、人間は自分が五感で認識できる範囲で判断したり、ものを作ったりする。だから、アジアとヨーロッパは違うし、日本のような島国はまた違う。

 樹木が無い砂漠のようなところでは伊勢神宮のような建物は無理である。普通は石で作られる。だから必然的に式年遷宮のような祭礼様式は作られない。

 「宗教の自由」というのは「意見の違う神様が複数おられる」という意味ではなく、ごく一部しか見ることのできない一人の人間の心で信じている宗教には少しの差があるから、あまり人に強制しない方が良いというぐらいの意味である。

 つまり「心で何を思うか、信じるかは自由である」ということであって、「神道」と「キリスト教」は違うと言うことではない。自分の心でイエス様の言葉を信じるのはいっこうに構わないが、そのイエス様はお釈迦様と親しいのは当然だから、キリスト教信者がお寺さんにお参りに行っても一向に差し支えないと思われる。

 その理由は、仏典や聖書を読めばすぐ判るような気がする。そんな小さな事をお釈迦様もイエス様も気にしてはおられない。些細なことを問題にしているのは人間であって、神様や聖人ではない。そこを間違えているような気がする。

 お釈迦様が靖国神社にお参りされるかは判らないが、お釈迦様もイエス様も、マホメット様も国を守るために戦い、英霊となって祖国に帰還した魂には敬意を表し、おそらく慰めていただけると思う。

つづく