アステカ文明の崩壊


 ヨーロッパ中世から近世に至る過程で、この様な惨劇は珍しいことではなかった。新しく発見されたアメリカ大陸でも同じ様なことが行われている。


 「一人が転ぶと、大勢がそれに続いてバタバタとつまづき、そのうえを馬のひずめが容赦なく走り回った。壁によじ登って逃げようとするものは、小銃で撃ち殺された。3つの出口から逃げだそうとする者は、待ち受けていた歩兵の刃にかかってたおれた。騒ぎを聞きつけて、チョルーラの兵士がその場に駆けつけ、広場の外からスペイン軍に攻撃をしかけてきたが、コルテスは、そのことあるを予期して用意してあった大砲を、一斉に発砲させ、その弾丸ごめの合間には、騎兵に突撃させて、瞬く間に3,000人の敵兵の命を奪ってしまった。(増田義郎著「古代アステカ王国」中公新書」

 15世紀の末にコロンブスがアメリカ大陸を発見するまでは人類の知りうる世界はそんなに広くなかった。もとより、「人類」とはヨーロッパ人だけを言うのではないので、15世紀にアメリカ大陸を発見したのはヨーロッパ人から見たことであって、既にアメリカは、その昔に蒙古からベーリング海峡を渡って、先住民族が住んでいたのである。しかし、「世界」と言うのを、何らかの通信手段によって結ばれ、そこに住んでいる人やそこで怒ったことが他でも判ると言うことをもって「世界の範囲」とするならば、15世紀から世界は急激に拡がり、人類は未知の文明に出合ったのである。

 その内でもインドや、さらに中国などはそれまでにも充分に優れた文明を持ち、ヨーロッパ人にとって全く新しい文明に接したと言うわけではなかったが、アメリカの文明は彼らにとって全く新しいものであった。アメリカ大陸に進出したヨーロッパ人は、北アメリカでアステカ文明に接したコルテスとインカ帝国を滅亡させたピサロである。

 今のメキシコシティーに首都を置いていたアステカ王国は、それまでのヨーロッパ、アジア型の文明とは異なる文明のもとで過ごしていた。この王国は立派な組織と文明を持っていて、もちろん王様はいたし、高度に発達した宗教もあった。軍隊、国家、神殿などの基本的構造は他の文明とは変わらない。この文明が他の文明とは余り接触が無かったことを考えると、細かいことは別にして人間の作る文明や国家は案外似ているのかも知れない。

 アステカ王国の首都はテスココ湖の湖の中央にあり、その名は「テノチティトラン」と呼ばれていた。湖に浮かぶ美しい都で、アステカの王、モンテスマの宮殿、神殿、そして多くのピラミッドが立ち並んでいた。金も豊富で、多くの建造物が金で豪華に装飾されていた。

 アステカの社会や生活の中でも特別にスペイン人が驚いたものがある。それは毎日、毎日、太陽の神に人間の生け贄を捧げることである。それもピラミッドの頂上に生け贄となる人を縛り付けて、生きたまま心臓をえぐり出すというものであった。都市の景観と良い、モンテスマ王の人柄と良い、比較的穏やかな国家なのにも拘わらず、宗教面では相当過激な行事を行っていたのである。

 アステカ王国に侵入したコルテスの目的は、アステカの富を奪い取ることである。それを直接的に言えば、如何に穏やかなアステカの国民の黙ってはいない。問題はどのようにしてアステカ王国の人々を、「騙すか」と言うことにあった。そして少しずつ騙し、最後は一気に押しつぶした。アステカ王国でのコルテスのスペイン軍は、いつも楽勝であったのではない。むしろ戦いは常に敗戦の危険があり、一時はコルテスも負けを覚悟したこともあった。しかし、結局アステカ王国は滅亡し、10,000人を越える人々が殺された。

 南アメリカにピサロが進撃したのは、コルテスに遅れること11年、1532年であった。インカ帝国に於けるピサロの悪行は様々な記録で知られている。200人のコルテスのスペイン軍はインカ帝国の王、アタファルパを捕らえ、王を捕らえれて意気消沈するインカ軍を虐殺。次には、捕らえた王の身代金として莫大な黄金をインカ帝国の隅々から集めると、身代金の黄金の一部をスペイン国王に届け、ほとんどを自分のものにした後、アタファルパ王を処刑した。

インカ帝国はこのピサロの暴虐の前に、アステカ王国と共に滅亡したのである。

今でもこの残虐な征服者はその力によって「正義」とされている。

 現代という枠組みの中で我々は日々、小さなことに呻吟しているが、人間というのはもっと長い歴史の中で辛いことを経験してきている。自分が今、悩んでいることと違う時代に生きた人のことをかいま見るのも解決の一つとなる。