紙のリサイクル・・・月給組と遺産組


【紙と熱帯雨林】


 日本で年間に使われる紙の量は世界で消費される紙の12分の1、約3000万トンです。紙は文化が高いほど多く使われると言われ、日本人は文化程度の高い民族ですが、特に日本の紙の消費量が抜きんでて多いということはありません。日本で使われる紙約3000万トンのうち、リサイクルされる紙が約1500万トン、新しくパルプからつくられる紙が1500万トン程度ですので、半分はリサイクル紙を使っています。日本の紙の全体の動きを図にしましたが、紙を作るパルプの状態、リサイクル、そして段ボールや一般紙の関係を把握できると思います。


 この図からは、日本では紙は有効に使われ、リサイクルも順調で問題が無いように思えます。それは本当でしょうか?熱帯雨林の消滅や森林の破壊などとは、どのように関係しているのでしょうか。紙の原料となる森林や木材との関係を中心に考えてみましょう。

 紙は木から作られますが、紙のもとになる世界の森林は面積で35億haほどあります*1。そのうち、先進国で人間に利用されている森林が大体15万ha、開発途上国の森林がそれより少し多くて20万ha、合計35万haが利用されている森林です。

 アメリカ、ヨーロッパ、そしてオーストラリアやニュージーランドなどの先進国の森林の多くは木材とパルプに使われており、紙に使われる比率が30%、製材されて木材として使用されるのが50%、薪(まき)などの燃料に使用されるのが15%です。これに対して熱帯雨林などを抱える開発途上国の森林の80%くらいは燃料の薪(まき)に使われて、残りの12%が木材、そして紙に使われる森林はわずか3%程度しかありません。簡単に言うと、先進国の森林は木材と紙に、発展途上国の森林は薪として使用されていると言えるでしょう。良く紙を使うと森林が破壊されると言われますが、これは事実に反します。なぜなら日本の紙の原料のほとんどは先進国から輸入されますが、先進国の森林はここ15年間、僅かですが増加しています。減少しているのは開発途上国の森林ですが、減少の原因は現地の人が薪として使ったり、焼き畑農業をするからです。


 森林というものは自然のものですので人間が作った工場とか町の様に合理的に利用することはできません。木を切り出すときやそれを運び出すときには周囲の木を痛めます。また曲がった木や小さい木は現地に捨ててこなければなりません。標準的な森林の場合、木材として最終的に利用できる木は全体の5分の1程度です。また、木というものは幹が丸くなっています。それに対して人間が利用する柱や板はおおむね四角い形をしています。そこで○と□の間で無駄が出ますが、これは紙の原料や割り箸などに使うことができます。


【紙のリサイクルはなんのため?】

 紙の使用が森林を破壊しないとすると、何の為に紙をリサイクルしているのでしょうか?それを考えるために、まず森林の状態を箇条書きにまとめました。

1. 世界の森林は先進国と発展途上国で利用の仕方が違う。
2. 先進国の森林は主に木材(60%)と紙(30%)に使われる。
3. 開発途上国の森林は主に薪(80%)と木材(12%)に利用されるが、焼き畑のために木としては利用されずに焼かれることも多い。
4. 先進国の森林は僅かではあるが増加している。
5. 開発途上国の森林は減少している
6. 森林から木を切り出すときに、最終的に木材として使用できるのはおおよそ5分の1である。
7. 木材として利用できない部分は紙や割り箸に使用できる。

ということが判ります。

 地球環境にとって熱帯雨林はとても大切です。地球は海と陸地、森林や草原、砂漠などからできており、それが相互に関係して私たちの生活を支えています。特に森林は、木材を提供してくれるばかりでなく、気候を安定させ、水を保ち、昆虫や、動物そして微生物の生活の場になり、人間が出した二酸化炭素などの物質を酸素に変えてくれます。最近では人間の生活で発生する有毒物を吸着して、大気中の濃度を下げるとも言われ、このような森林が減少するというのは地球環境にとって大きな問題です。

 しかし、ここに箇条書きにして整理したように「紙を使う」ということと「森林が破壊される」ということは違うようです。まして、「私たち日本人が紙を使う」ということと「熱帯雨林が減少する」ということは何の関係もないようです。

 私の大学の研究室で平成11年度の夏に3年生の学生とゼミを実施しました。3班に分けまして、「紙の製造会社の担当」、「リサイクルを主張する学生」、「リサイクルに反対する学生」に3人ずつ学生を割り振りました。そして、学生が調査してはディベートするというゼミを行ったのです。4月から始めまして、7月ごろになりますと、議論がかなり煮詰まって参りました。4月は学生の多くが「紙のリサイクル派」に所属したいと希望していたのですが、議論を進めて行くにつれて、リサイクル派の元気がだんだん無くなり、ついに7月には一人の学生が

 「先生、もう、嘘をつくのに耐えられません。リサイクル派をやめさせてください」

と言ってきました。

 学生の純粋な考え方だとそういうふうになってしまうのです。つまり、調べていくと、まず、世界の森林はそんなに利用されているわけではないということに学生は気がつきました。太陽エネルギーを利用するということであれば、もっと森林を利用したらどうかと意見が出ます。森林をむやみに伐採するのはいけないが、計画的に植林して太陽エネルギーを利用するのだから環境に良いのではないか、というのが理由です。

 一方では、紙をリサイクルすると新しい紙を使うより資源が余計にいるということも判ってきました。これはペットボトルのリサイクルと似ているのですが、紙の回収が大変だということ、使った紙からインクを除くのにもエネルギーがいる、一口に「紙」といっても、ホッチキスがついた紙とか、表面が加工されている紙とか、リサイクルできない紙が意外に多いなどの知識も増えてきました。そして、なによりも紙のリサイクルに対する製紙メーカーや関係機関が肝心なデータを出すのを嫌がることも学生には響いたようです。

 紙のリサイクルは単に製紙メーカーのビジネスというより社会的なものだと学生は感じていました。小学生から紙のリサイクルの運動をしていますし、普段から学生も紙を大切にしようとしています。ところが本で調べられないような調査段階になり、製紙メーカーに問い合わせると様子が変わってきたのです。たとえば紙をリサイクルするときにキログラム当たりどの程度の費用がかかっているのか、どの程度の大きさのトラックで運ぶのか、トラックの寿命はどの程度か、インクをとるのに実際にどの程度のエネルギーを要するのかというような質問をしますと、「協会に聞いて下さい」などとたらい回しになるのです。確かに質問内容には企業秘密のようなものもありました。しかし、紙のリサイクルはすでに国民的な運動になっていますし、リサイクルに税金も使っています。自治体がどの程度の費用を負担しているのか、紙のリサイクルを専門に営業している会社の実態はどういうものか、税金を使って回収するのを止めて製紙メーカーが負担してリサイクルしても大丈夫かなど、肝心な点になると資料が集まらないのです。

 さらに、調査が進むと日本の紙の消費と熱帯雨林の減少とは何の関係も無いことも明らかになってきました。確かテレビでそう言っていた様な気がするということになっても、確かめようが無いのです。最後に太陽のエネルギーを利用する方法として盛んに行われている太陽電池が森林より利用効率が悪いことが判り、紙のリサイクルに対する意欲はついえました。

 何をやっているのかわからないというのが学生の率直な感想だったのです。工学大学の学生は工学の訓練を受けていますので、理由も言わないで、「これを信じなさい」といってもダメで、データを見て自分で考えます。そして、まだ年齢が若く利害関係も少なく、物事を率直に見ることができます。

 木というのは、太陽エネルギーの利用としては一番優れたもの。私たち人間が継続的に自然の恵みを受けることができるのは太陽の光以外にはほとんどない、その中でも木は太陽の恵みとしては人間が利用しやすいものだ、太陽電池の開発にあれほどの力を入れているのに、何で紙をもっともっと使わないのか? まして紙をリサイクルをするために石油を使うのはなぜか? むしろ、反対に石油を倹約するためにこそ紙を使うべきなのではないか? 僕たちは小学校から何を学び、何をしてきたのか?

 学生の疑問は続きました。


【遺産と月給】

 私たちが使っている資源やエネルギーには2種類のものがあります。一つは木材や水力発電のように毎日地球に降り注ぐ太陽の光をもとにした資源やエネルギーです。もう一つは石油や銅鉱石のように大昔の太陽のエネルギーで何億年もかけて貯めてきたエネルギーや資源です。これを私たちの日常生活で言いますと、毎月働いて入ってくる月給と、親やご先祖様からの遺産との2つがあるのと同じです。

 人間が大昔から受け継いできたもの、つまりご先祖の「遺産」としては、石油、石炭、鉄、銅といったものがあります。石油は数億年前の白亜紀付近の地層から多く出ますが、当時の太陽の恵みで生活をしていた生物の死骸が地下に眠っていたものです。石炭はよく知られている様に大昔の森林の名残ですが、これも数億年にわたる太陽エネルギーを「木」という形で蓄積し、さらに炭化して「石炭」となったものですから、まさに自然の恵み、太陽の恵み以外の何物でもありません。鉄の原料の鉄鉱石ですら、生物が蓄積したものと、特別な地殻の運動によるものです。

 これに対して、資源のなかで毎日、毎月の「売り上げ」や「月給」に相当するのは、現在の太陽の光で育った木やそれを原料とした紙がその典型的なものです。このほかに人間は色々な形で自然から給料を受け取る努力をしてきました。たとえば、太陽の熱で暖められた海から、水が蒸発し雲となって移動し、山に降り注ぎます。その水が川となったのを利用した水力発電。これは結果的に太陽エネルギーで高いところに持ち上げられた水を低いところに落として電気を得ていると言えます。最近では太陽のエネルギーの偏りから発生する風を利用した風力発電などがありますが、いずれも「月給」組です。


 さて、私たちが家計を営むときには、できるだけ月々の売り上げや月給でやりくりをして、どうしても足りない時は貯金や遺産を使うというのが普通で、堅実な生活の仕方です。中には給料が少ないのに親の遺産をどんどん使う浪費家もいますが、長続きしないのは当然です。しかしどんな浪費家でも毎月の売り上げを取りにも行かずに、隣の銀行で貯金を下ろす方が簡単だ、と言う理由で貯金ばかりを使う人はいないでしょう。

 ところが、環境や資源という問題になると浪費家以上の変な行動が見られるのです。紙は木から作られますから月給型の資源です。森林を計画的につくり、太陽の恵みをできるだけ多く役立てる様にするのは当たり前の様に思います。森林は「木」という月給になるばかりか、木を育てるだけで気候を整え、生物をはぐくみ、森林のある風景を作ってくれるのですから良いことばかりです。せっかく森林にできる土地がありながら、それを利用せず石油という「遺産」組の資源を使用してリサイクルするのはなぜでしょうか?

 いくら浪費家でも毎月給料をもらえるのにそれを取りに行かず、いつでも簡単におろせるからと貯金を使う人はいないと言いましたが、紙のリサイクルはもっとひどいと言えます。なぜなら、貯金を下ろしに行くのにタクシーで行き、タクシーの運転手に月給袋をそのまま渡して銀行で遺産を下ろすような行為だからです。

 もともとリサイクルというのは遺産を大切に使おうという発想から来たものでしょう。そうであればできるだけ石油を大切にして紙を使おうとするのが合理的です。また、紙のリサイクルに努力している人で、太陽電池や風力発電などに賛成している人がいます。太陽エネルギーを利用するなら、広い土地一面に太陽電池を敷き詰めるよりも、森林として利用した方が良いというのが著者の考え方です。

 紙のリサイクルは環境問題のシンボルのような時期がありました。紙をリサイクルしないとひどく怒られる時期すらあったのです。そしてリサイクル紙を使用している名刺を使うことが、その会社の環境に対する取り組みを示す証(あかし)にもなっているのは変なことです。また、ペットボトルも同じですが、人間はリサイクルできるとなるとつい乱雑に使ってしまいます。せめて紙は裏表使ってリサイクルに出さないようにしたいものです。


【人類の遺産の残り】

 ともかく、私たちは給料を使わずに遺産を使っているのが判りましたので、遺産の残りが気になってきました。そこで人間が利用できる自然の遺産について資源学的な面から説明したいと思います。

 産業革命が今から300年ほど前に起こるまでは人間は遺産のことなど心配しないで良かったのです。人間は大自然に比べてとても小さく、安心してその懐(ふところ)に抱かれていれば良かったからです。

 ところが、産業革命は人類の生産能力を飛躍的に大きくしたものですから、人間はロイヤル島のオオシカのように繁殖し、人口は急激に増え、ますます産業が発達し、ついに人間の活動が大自然を追い越してしまったのです。

 人間が自然を追い越した時期をイオウ(硫黄)という元素を尺度にして調べて見ましょう。私たちが良く知っている「イオウ」は特殊な元素ではありません。火山が噴火しますとイオウが大量に放出されますし、イオウの温泉も多くあります。イオウと聞くとたいていの人はツンと鼻につく臭いを思い出すくらいのありふれた元素です。また、人間の活動でもイオウは、石油や銅の精錬などで出てきますし、いろいろな工業でも大量に使用されます。

 大自然から毎年、大気中に放出されてきたイオウの量は太古の昔から一定で、大体1年に30兆グラムくらい大気中に放出されます。それに対して人間の活動で出るイオウの量は比べようがないほど少なかったのです。それが産業革命以後、どんどん増えて、ついに今から60年ほど前に、大自然に追いついたのです。そして現在では大自然が放出するイオウに対して、約3倍の90兆グラムを人間が放出していると推定されています。


 これを親と子どもの関係にたとえますと、最初は大自然と人間の関係は親と赤ちゃんの関係でした。赤ちゃんが少々汚したり、ダダをこねたりしても親がそっと処理してくれました。赤ちゃんは親がそんなことをしてくれていることも知らずにニコニコ笑っていれば良かったのです。そのうち子どもがだんだん成長しまして、親の背丈と同じになったのが今から60年くらい前ということになります。そして、今や、子どもの背丈は親の3倍だというのです。その子どもが今でも赤ちゃんの時のような気持ちで汚し放題、やりたい放題ですと、親はもう体力消耗してどうにもならない、疲れ切ってしまう、これが現在の地球と人間の関係なのです。

 しかし、今でも私たち一人ひとりは小さい人間ですから、海を見たり、山を見たりすると、「大きいなぁ~」というように感じるのですが、それは一人の"人間"が地球を見たときであって、人間全部をあわせると地球の3倍の活動をしているということです。すでに大自然の3倍の背丈をもった人間がやりたい放題をすれば地球全体が弱ることは言うまでもありません。

 さらに人間が自然を超えて以降、人類の遺産がどのように使われてきたかということを、千葉工業大学の増子 昇先生がまとめられております。それによると鉄や、アルミニウムの原料になるボーキサイト、銅などが丁度人間が大自然を超えた1940年代の少し前からどんどん使われていることが判ります。もちろん、地球は限りあるものですし、すでに「子供の背丈が親より大きい」のですから、こんなに使っていったらそのうち遺産が無くなってしまいます。


 地球にあとどのくらい人間が利用できる資源、つまり「遺産」が残っているか、というと、驚くべきことに、金や亜鉛、銀などは大体あと20~30年くらい、ニッケルや、大切な元素のモリブデンなどの多くの元素が50年くらいで無くなるだろうと言われています。しかし、幸いにして、鉄とかアルミニウムなど人間が多く使うものは80年から100年はもつのではないかという計算がされております。

 いずれにしても、人類がエジプト文明の昔から随分使ってきたあの「金(きん)」があと数十年しかもたないというのは非常に驚きです。金が無くなれば人類の文明自体が変わって行くでしょう。


【資源を貯めてくれた人は誰か】

 天然の資源には特徴があります。たとえば、人間の使う鉄は、鉄鉱石を多く含む鉱脈があって、その鉱脈を掘って鉱石を得ます。最初は非常に品質のいい鉱石を含む鉱脈を使い、その鉄の鉱脈を掘り尽くすと、次にもう少し鉄の量の少ない鉱脈を探し、そこを掘る。さらにその鉱脈がつきれば次を探す……というようにやってきました。そこで、天然資源とは、そういうふうに少しずつ"品位"が低下する──そういうものだというイメージを持っていると思います。つまり、鉱石の品位が悪くなることがあっても、一生懸命掘っていけば良い、鉱石を掘ったり、精錬するエネルギーさえあれば資源は無くならないと思っておられるでしょう。

 左の山は地球全体の資源を示しており、そこには多くの資源があるが、人間が使える資源は、あらかじめ自然が貯めてくれた右の小さな山に限られている。

 資源学で有名なスキンナーがこの関係を巧みに整理してその答えを出しています。

 人間が使っている資源はあらかじめ自然が用意してくれたものだけだと彼は言います。例えば、石油ですと、石油というのは地球のどこにでも滲み出ているものではありません。大昔の生物が太陽の恵みによって生活し、その死骸がある特定の所に貯まったものです。つまり、石油はまず太陽のエネルギーがあり、それを生物という仕組みで有機物の中に蓄積し、それが集団となって蓄積したからできた物だ、ということです。同じく、鉄も、昔の生物が海に存在した鉄をためて、ある特定の場所に沈殿させたり、沈着させたりしたものが鉱脈になっています。人類が最も多く使用している石油や鉄がそうですから、他の資源はさらに自然が独特の方法で集めておいてくれたものです。金(きん)も火山活動でマグマの通り道の近くに自然が運んできてくれたものです。

 ですから、金(きん)が欲しいからと言って小学校の校庭を全部掘り返して、そこから金をとろうと思ってもとれません。もちろん、海の中にも金がありますが、そこも採れません。小学校の庭にも大海原にも科学的な意味では、確かに金がありますが、人間が利用するという意味の量の金は存在しないわけです。

 スキンナーは何を言いたかったのかといいますと、我々が利用している資源(遺産)は人間が地球全体を掘って得ているものではないと言うことです。人間が利用する前に、自然があらかじめ濃い状態で貯めておいたものだけを人間が使っているということです。だから、もし自然が人間が使う速度と同じ勢いで資源を貯めてくれなければ、遺産としての資源は減っていくのです。熱帯雨林の減少も問題ですが、森林は太陽の光で回復することができるものの、遺産は回復できません。自然は地球の誕生以来、40億年以上かけて様々な資源を貯めてくれたのです。それを人間が最近の100年くらいの間に使っているわけです。ですから、このペースでいけば、間もなく無くなってしまうという計算になるのは当然です。

 最初の方で説明しましたが、私たち人間はまだ「大自然」をすねをかじれる「親」だと思っています。親が学費を払うのだからできるだけ遊んで大学生活を送ろうと考えている不届きな学生と似ているのです。親のすねをかじっているので、自分がアルバイトして稼いだお金は貴重ですが、親のもっている遺産などは気にもしていない、という所です。森をキチンと管理し、自然の恵みを最大限に生かして、その範囲で生活しようとすれば良いのに、それより石油のように使いやすい遺産を使う方に傾き、紙のリサイクルをして気を紛らわすことになります。


【自然の恵みの使い方】

 これまで、リサイクルは環境の改善や資源の節約にはならないことを指摘しました。しかし、人類の将来にとって金や鉄が無くなって良いということはありません。というより、絶対にそういう状態を作ってはいけないと言うことすらできると思います。

 生活をすれば必ず出てくる廃棄物をどうしたらよいのか、ここでまとめ、遺産の使い方について考えてみたいと思います。

 まず原則は紙やプラスチックは生ゴミと似ているものでリサイクルには向いていないこと、希少な金属元素や屑鉄、銅線などはリサイクルすることです。


 その原理をさらに具体的に示すために丸い円に描きました。円が何重にもなっていますが、中心が消費者であるあなたです。そしてあなたを取り囲む最初の円があなたの「家」です。そして二番目の円が「市町村」、その次が「都道府県」で、外側に「日本国」と「世界」があります。原則としてリサイクルは環境を汚し、資源を枯渇させますから、できる限り家の中で始末をつけてしまいます。生ゴミは堆肥に、紙は徹底的に利用した後、ダイオキシンの出ないように気をつけて焼却します。プラスチックは家庭で燃やすと煙が出ますので、やむなく市に頼みます。「やもなく市に頼む」という考え方も大切です。

「本来は、自分の使ったものですから自分で始末したいのですが、なにぶん家が狭いのでお願いします」

といった感じです。これは行政を甘やかせているのではありません。自分自身が、自分の地球、自分の将来を守るために行う行動なのです。しかし、やはり自分だけでは始末ができないものがあります。それは仕方なく家の外に出して、処理をお願いせざるを得ません。そのとき、まず第一に頭に入れておく必要のあることは、

「市町村などの小さな単位でリサイクルできるものは無い」

と言うことです。日本で年間1億トンも使っている鉄ですら、各市町村で製鉄工場を持つわけには行かないのです。まして、それより一桁も二桁も少ない銅やプラスチック、希少金属、そして何種類かの材料が混ざっているものなどは都道府県でもリサイクルは難しく、日本全体でリサイクルシステムを作らなければならないのです。

 ということは、いったん自分の家から出た「ゴミ」は二種類あることが判ります。一つは市町村など自分の家から一番近いところで焼却するもの、二つ目は家から出たら遠くに運ばざるを得ないものです。遠くに運ぶにはできるだけ軽くかさばらないようにする方が効率的です。そこで自動車や家電製品などの特別なもの以外は総て一緒にして焼却し、残りの「灰」を「人工鉱山」に輸送します。東京都の例で示しますと、廃棄物を焼却すると、容積は25分の1になります。この「灰」の中には少量ですが、鉄、銅、金などの有用な資源が入っているので「人工鉱石」と言えるものです。これを「人工鉱山」に埋めて将来に備えます。 

 廃棄物を焼却したらその中に鉛などの有毒物が入っているという心配があります。もちろん毒物が流れないように工夫をすることは必要ですが、もともと「鉱山」というのはある程度の毒物を含むものです。「鉛があってはダメ」と言って、鉛は外国の鉱山に頼るという考え方は、毒物を外国に押しつけて自分だけは綺麗なところに居たいという考え方につながるので、国際時代には通じませんし、日本人は外国から尊敬されなくなるでしょう。

 減量された「人工鉱石」は「人工鉱山」に眠っていますが、そのうち資源が枯渇した時に掘り出します。日本には大自然が用意してくれた資源に恵まれていませんが、資源をどんどん使っているのですから、それを将来に備えて貯蔵するのが最も良い方法である事は間違いないと思います。


【自然利用の哲学】

 天然資源というのはどういう性質を持っているのでしょうか?最近、風力発電がもてはやされています。自然のエネルギーを利用する環境に優しい発電方法だからと言われています。

 風力発電が自然に優しいかどうかは「風」が起こる原因によって決まるでしょう。風は太陽エネルギーが場所によってすこし違い、そのことが風を発生させます。従って風というのは自然を構成している大切な作用の一つなのです。風によって空気が循環し、気温が安定し、植物の種が運ばれ、濡れたものが乾燥します。濡れたものというのは人間の洗濯物もありますが、自然の草木や土地なども風によって湿度を一定に保ちます。もし、風のエネルギーで電力を作るとそれだけ風の力は弱くなります。それはある意味で必ず自然を破壊します。ところが、風のエネルギーで電気を起こしても、電気だけが起きて風は相変わらず吹いていると思っている人も多いようです。そんなに都合の良い話はありません。

 風力発電と同様に、森林の利用や太陽電池の話にもいつも「自然の軽視」が見られます。地球上の森林は膨大で人間が利用している森林はごく一部に過ぎません。そこでもっと森林を利用すればよい、今の10倍でも100倍でも利用できるのだ、という人もいます。確かに面積だけから言えばそうですが、森林は森林で現在の状態で十分に利用されているといっても良いのです。むしろ、人間の為に直接的に役に立っていないと言われる森林こそが気候、生態、環境という面で人間恩恵を与えていると言えます。

 砂漠に太陽電池を敷き詰めて電気を起こし、それを利用したらよいという意見があります。また砂漠を緑地にして植物を植えて食糧危機を回避したいという考えもあります。確かに目標として悪くは無いような気がしますが、それを推進している人に、「砂漠は本来環境にどのような貢献をしているのか?」とお聞きしても明確なお答えは得られません。砂漠に自分は住みたくない、という程度の考えの人も居るようです。

 「ロイヤル島のシカ」でおわかりのようにこの地球は太陽の恵みで活動しています。そして、その中で生物は「最大生命数の原理」で生きています。つまり、大自然は深い経験を持っていて、生態系は現在の環境の中で最大の生命を維持できるように仕組まれています。生物の間の生存競争はそれほど甘くはなく、環境の良いところには力の強い生物が、環境の悪いところには生命力の弱い生物が追いやられます。そしてなぜ植物がいて、それを食べる草食動物がいて、なぜそれを殺して食べる肉食動物がいるのかというと、一定の環境の中で自然の恵みを最大限に活かして生命を最大数に保つようにしているのです。それを人間が自分のものと思うと間違います。

 現在の環境問題は人間が自分の価値尺度で思う存分やってきたこと、自分が不要と思うことはいらないんだ、としてきたことが原因しているのです。ですから砂漠が人間にとって直接的に役立たないからといって「砂漠はいらない」というのは自然というものが判っていない証拠でしょう。また、風力発電である程度の電力を得るのは差し支えありませんが、それも人間が利用できると考える値の1万分の1くらいと考えられます。
それが「自然の利用の哲学」です。