わたしたちの中の動物


 満ち足りた生活は、昔の面影を残している環境と、わたしたちの体の奥の方からの叫びが呼応することであるとおぼろげに判ってきたように思えます。現代の架空の環境を「不安」に思うのは、わたしたちの体の中のDNAの叫びであり、わたしたちの中の動物の感覚からのキシミでもあるのでしょう。

 そのことをこの節では「食べること」に焦点を当てて、わたしたちの体の中に潜む動物に焦点をあててみることにします。

 日本の食料自給率は昭和三五年に、カロリーを基準とすれば八二%、重量を基準にすると七九%と高い値を誇っていました。国土が狭いのに農業に携わっていた人たちが頑張っていたおかげです。それが、平成十年にはカロリー基準で四○%、重量で計算すると実に二七%にさがったのです。それも日本人の主食の米の自給率が九五%であることを考えると、米以外の食料の自給率が低いことがわかります。この様な国は世界ではもちろん日本だけ。人口が一億人以上の国の食糧自給率が八○%以下の国は日本の他はありません。

 狭い国に住み人口密度が高いのに、世界でも珍しいほど低い食料自給率。まるで「外国から食料が入ってこなかったら死んでも良い」と言っているようです。日本人の人の良いところ、楽天的なところが良くあらわれていますが、それは現代のように不安定な国際関係ではかなり危険なことです。食糧が少なくなって餓死するのが大人だけなら良いのですが、子供も犠牲になることを考えると、食糧自給率の問題はもう少し真剣な議論がいるでしょう。

 日本の食料自給率が低いのは人口密度が小さく、山が多いことが原因しているようにも思われますが、そうではないようです。江戸時代の人口は約三○○○万人と現在の日本の人口の四分の一で、自給自足の生活をしていました。その当時から見ると農地は増えており、一㌶当たりの生産高も大きくなっているので、多くの作物の自給は可能と考えられています。

 それでも、このように低い食料自給率になるには二つの原因があります。

 第一には現在の日本人は栄養過多の状態にあること、第二に輸入した食料の約半分を捨てているからです。
日本人が栄養をとりすぎていることはいろいろな書物や報道で繰り返し警告をされていますし、そこは栄養学の書物に任せるにしますが、日本肥満学会が定義した「肥満」の人は普通の人に比べて、糖尿病や高血圧が普通の人の四倍、脂肪肝が七倍、ガンが二倍、そして腰痛やひざの痛みなどは二十倍と言うのですから驚きます。どうも人間というのは「食べるのに困らない」という状態になると我慢ができずに食べすぎになり、その結果、肥満となり、ひいては病気にまでなってしまうことが判りますが、もともと「お腹が一杯になる」という感覚は動物的なもので、生存に必要だから「満腹感」があるとも考えられます。

 そのところを動物の実験で調べてみます。


 「ミジンコ」という生物がいます。池や沼など主に淡水に棲んでいて見かけは原生生物のように下等な生物にみえますが、実際にはかなり高級な動物でエビやカニの仲間です。分類学上は「節足動物門・甲殻綱」に属します。体長○・五~三・五㍉、体は左右に扁平、頭・胸・腹部に分かれて透き通っていて体の中にある内臓などがよく見えます。写真は体が透き通っていてエビの仲間であることがわかりやすいものを選んで載せていますが、魚類の餌として犠牲になってくれるので、生物界の栄養ピラミッドでは重要な役割を果たします。小さい割には比較的長く生きる生物で、大事に育て、栄養もキチンとやると平均寿命は三○日程度です。

ミジンコ

 ところが、ミジンコを飼育するときに少し栄養を制限すると、平均寿命は五十日程度にのび、その中でも一番長く生きるミジンコは、実に平均寿命の約二倍の六十日も生きるのです。

 このような例はミジンコだけに見られる特殊な現象ではありません。動物のなかでは一番高級な脊椎動物の栄養と平均寿命の研究を二つほど示します。小さく可愛い魚の「グッピー」は栄養を普通に与えて飼うと平均寿命は三十三ヶ月程度。つまり、約三年か、それより少し短い程度です。このグッピーも栄養を制限して飼育すると、平均寿命は四六ヶ月にのび、一番長く生きたグッピーはミジンコの場合と同じように約二倍の六十ヶ月程度の寿命となります。

 さらに哺乳動物のラットの場合では、栄養を特に制限しない「自由食」の時の平均寿命が二三ヶ月なのに対して、「制限食」のもとで飼育した場合には、平均寿命は三三ヶ月の伸び、その中でも一番長く生きたラットは実に二倍の四七ヶ月と報告されています。

自由食と制限食でのマウスの生存曲線

 図にはマウスの栄養と生存曲線を示しましたが、栄養を普通に与えているマウスに対して、カロリーを制限したマウスの生存率は明らかに長いことがよく分かります。すなわち、この例ではカロリーを制限しない群、つまり自由食のマウスでは四○ヶ月生きているのはほとんどいませんが、カロリーを制限すると逆にほとんどのマウスが四○日目以上生きています。最長寿命同士の比較では自由食のマウスが四○ヶ月に対して、制限食の場合は六○ヶ月とこれも五割増しです。人間で言えば普通の人が八○才の寿命なら一二○才も生きることができると言うことになるのですから、本当にすごい差があるものだと驚きます。

 実は、栄養を制限するとマウスの寿命が延びるということが発見されたのはかなり前のことで、アメリカ人のマッケイ博士が今から六十五年前に見いだしました。その後、多くの実験が行われて、今では様々な動物に対する「制限食」の効果がはっきりと認められています。ところで、一口に「制限食」といっても餌のやり方は難しいようです。人間と違ってマウスやラットは口をききませんし、体が小さく活動が活発、代謝も盛んであることもあって、あまり食事を制限すると弱ってしまいます。毎食、キチンと食事の量を制限するのはとても大変です。そこで、制限食の実験の中では単に餌をやる頻度を減らしたりするような相当、乱暴な実験も目につきます。

 そのような難しさはありますが、かなり精密に制限食の実験では、自由食の約八○%程度の食事を与えているときが一番良い成績を収めています。まさに、「腹八分目」ということでしょうか。

 この研究では平均寿命の他に重要な研究テーマがあります。それは、制限食の動物が単に平均寿命が延びるだけなのか、体の機能や頭も老化しないのかということです。単に平均寿命がのびるだけで、後半生は体の機能が衰えて生きているだけ、というのでは制限食の持つ意味が薄れるからです。そこで、研究の中から、二、三の例を示します。

 まず、自由食と制限食のラットに「記憶力試験」をした結果を示します。

自由食ラットと制限食ラットの頭の冴え具合

 (上が自由食ラットで、黒三角は二五週齢のラット。自由食のラットで、二五週になると、学習によっても誤りの数が減らないのが分かる。つまり、食べたいだけ食べていると、頭が呆けてくることがわかる。これに対して、下の図は制限食ラットで、同じ二五週齢でも学習力がほとんど低下していない。腹八分目では体の健康ばかりではなく、知能の老化も防ぐことができるのである。ただし、ラットの話。)

 図 は少しややこしいグラフですが、なにを示しているかというと、自由食のラットは年をとり、二五週齢になると頭が呆けてきて覚えられなくなり、間違いが多くなることを示しています。上のグラフで黒三角の上の線が他の線と離れて上にあるのがそれを示しています。ラットの二五週齢というと人間では七十才程度ですので、すこし頭がボケて、間違いが増えるのも当然かも知れません。それに対して制限食のラットは二五週齢になっても記憶力は若いころとほとんど同じです。

 このように、食事を制限すると頭の衰えも少なくなるとともに、体の抵抗力も衰えないようです。その実験として免疫力を測定した例を図に示しました。自由食ラットでは三月齢が免疫力のピークですぐに低下し、一四週齢ではすでに免疫力はピーク時の半分になっています。人間で言えば四○才に当たります。このように自由食ラットが早く免疫力が低下するのに対して、制限食ラットは免疫力の低下が少なく、ピークを打つのも一○月齢と約三倍、免疫力が半分になるのは三○月齢以上とのびることが判ります。免疫力が高いということは普通の感染性の病気も抑えますが、ガンなどのように異物を見つけ、それを除去する能力も高いことを意味しています。

 このように、制限食のラットが長生きをするのは体は衰えているのに寿命だけ長いというのではなく、頭もはっきりしているし、免疫力なども若々しく体の機能が低下していないことに原因しているのです。

自由食ラットの制限食ラットの免疫力の差

 (「長寿」ということは免疫力が下がらないことでもある。食べたいだけ食べるラットは中年で、すでに免疫力が下がるが、腹八分目のラットは歳をとっても免疫力があまり低下しない。免疫力はガンになったり、その他の病気になるのを防御する一番、優れた力である。)

 これらの結果を総合的に考えると、あまりに栄養が少なければ寿命が低下しますが、ある程度栄養が獲得できると平均寿命が延び、さらに行き過ぎて「食べたいだけ食べる」ような状態になると逆に平均寿命が短くなることがわかります。

 栄養と動物の平均寿命、免疫力などの実験結果は生物というものの本質を教えてくれます。

 もともと栄養学がない動物には「満腹感」によって必要な食糧を採れるようになっています。その点からは満腹になることが動物の命を保つのに一番良いと予想されるのです。ところがこの節で説明をしましたように、満腹になることはあまり動物の体に良いことではないのです。

 地球上の自然と動物のあり様をじっくりと観察してみると、一番、住みやすい緑豊かな地上や海の中ばかりではなく、土の中にも砂漠にも北極海の氷の下にも多くの生物が住んでいます。鳥や昆虫は空間を住処にして、生物は地上のあらゆるところで繁殖していることがわかります。

 一方、生物は太陽の光だけを頼りにその生命を保っていますが、太陽の光は一定で生物が増えても変わることがありません。ところが生物の方は旺盛な繁殖力を持つのでできるだけ、その数を増やそうとします。そのようなバランスのうえに成り立っているので、生物は常に「太陽の光で生きることができる最大限の命を保つ」という秩序を形成します。

 太陽の光が食糧の限界を決めますから、その範囲で繁殖すると、どの生物も限界までお腹をすかせた生活を送ることになるのです。つまり、生命とは「常に食糧が不足し、それを充足するように頑張る」という宿命を負っていることが判ります。

 動物としての一員である人間もこの原理に当然のように支配されます。人間も常に食糧不足の状態にあって、それを求めていくのが正常な姿と結論されます。もし、食糧があまり、現在の日本のように四○%も食べ残している状態は正常な生物の生活ではないのは明らかでしょう。

 そういうことが判ると、現代の環境問題はたがいに深いところでつながっていることを知ることができます。

 二○世紀に人間は巨大な科学を駆使して、欲しいものを何でも手に入れることができるようになりました。遠くに行こうと思えば自分の脚を使わずに自動車や飛行機が運んでくれます。暑い日に汗をかきたくなければクーラーのスイッチを入れればたちまちに涼しい高原です。遠い、南アフリカの珍しい食べ物も自宅からほんの少し歩いてデパートまで行けば手に入れることができます。

 そのようにして、人間は「欲しいものは何時でも」という環境を作ったのです。それは「部分的には正しい」ことのように感じられます。遠いところに行くのに自分の脚を使うのと自動車とどっちが良いか?と聞くと、誰しもが自動車と答えるでしょう。暑くて苦しい日に涼しい高原に行こうと言ったら反対する人はいないでしょう。

 そして、毎日の食事に飽きたので、美味しいものを食べに行こうということに抵抗できる人も少ないと思います。「どうせ、人生は一回だ。それなら美味しい物を食べよう」と言う人もいます。それぞれが、すべて正しく、問題がないように感じられるのです。

 ところが、生物は「常時、不足状態」を前提にあらゆる感覚がつくられているので、現代のように「欲しいだけ作り、したいだけする」というような社会を作り出すと、動物としての人間はなじむことができなくなると考えられます。

 それが正常な感性を失わせ、破滅につながる発展を目指すという変なことになり、際限ない科学技術の進歩を追うようになったのでしょう。

 際限もないものを追うこと、それは人間になにを与えるでしょうか?