環境の基礎はなんといっても食料です。人間が命を保つためには、三度の食事を別にして考えることはできません。この節では食べもののなかでも最近、急激に増えてきた冷凍食品を題材に取り上げて「環境」を考えるスタート・ラインにつきたいと思います。

 冷凍食品の代表格といえば、多くの人は「ハンバーグ」や「コロッケ」などを思い浮かべます。たしかに、現代の冷凍食品はそういうものが多いのですが、最初の冷凍食品はおかずではありませんでした。

 もともと、冷凍食品が普及するには、冷蔵庫の登場が必要で、それは二○世紀の初めです。最初の冷凍食品は「イチゴ」。アメリカのコロラド州でジャム用にイチゴが冷凍されたのが、その始まりでした。そして、日本に冷凍イチゴが上陸したのは、一九三○年。不漁で魚が捕れず、空いていた冷凍設備を有効に活用するために考え出されたものでした。当時の技術者が苦心惨憺して作り上げた商品は「イチゴ・シャーベー」です。

 ブリキ缶入りで価格は三○銭。大阪・梅田の阪急百貨店地下のアイスクリーム売り場で売りだされ、たちまち人気を呼んで、家庭用冷凍食品の第一号市販品の栄誉を得たのです。それから約七○年の時を経た現在では、冷凍食品の種類も増え、品質も良くなり、果物、野菜、魚介などの素材から、加熱するだけの調理食品は和風、西洋料理、中国料理、エスニック風のものまで、数えきれないほどの食品がでまわっています。今では、おおよそ一七○万トンも売られています。

 冷凍食品はいつでも冷たいものを食べられたり、忙しいときに食事がすぐできたり便利なものですが、実は、わたしたちから大事なものをそっと盗むことも上手な食品でもあります。

 なにをわたしたちから盗んでいるのでしょうか?

 ひと昔まえ、まだ家がまばらに建っている頃、家の周りに塀が巡らしていることも少なく、家の裏には小高い丘があり、竹藪や背の低いブッシュが生えていました。

 そのころ、どこの家庭でも時々、家で食べる「にわとり」を絞めるのは父親と決まっていました。場所は裏庭。今夜はニワトリのごちそうとなると、父親がにわとりを締めに裏庭に行きます。子供たちは物陰に隠れて、こわごわと父親の様子を見るのです。そうして、にわとりが「ギャー」という断末魔の鳴き声をあげると子供たちは耳をふさいで震えます。

 それからしばらくして、舞台は台所に移ります。ふだんは、あんなに優しい母親が包丁をもって、あの絞めたばかりの鶏を血だらけでさばいているではありませんか!その様子を物陰から子供たちがおそるおそる見ます。その一つ一つが感受性の高い子供の心に深く焼きつき、命の尊さ、その命を頂いて生きる人間というものをおぼろげながら知るのです。

 やがて、あのにわとりがホカホカの肉片となって食卓に上がります。子供はそれを複雑な面もちで見て、口にします。もごもごと口を動かしながら、子供はあの断末魔の声、毛の抜けたボツボツの肌、血だらけの肉を思い起こしているに相違ありません。

 自然との共存、人間と自然との関係はニワトリを裏庭で絞め、血だらけでさばく一連の行動とともにその子供たちに理解されます。

 最近はニワトリを裏庭で絞めることはなくなりました。かつて、血だらけのニワトリをさばいていた親は居間のソファに座ってテレビを見ています。子供が「お腹が減った」と言いますと「冷凍庫の・・・をチンしなさい」と言うだけです。そして、たちまちの内に四角い肉片が皿の上にホカホカになって出てくる。子供は、その四角い肉片がかつて生きていた動物の一部であると感じることはできません。

 まして、生まれてこの方、都会に住み、ニワトリという動物すらほとんど間近に見たことがない子供にとっては、チンをした肉片が、生きものの一部であり、自分が、命を頂いて食べているという実感を感じることはむつかしいでしょう。

 かくして、子供は冷凍食品をほおばり、テキストをもって塾へと走りだし、現実を喪失した世界へと旅立つのです。

 かつて人類は食糧を得ることを最大の目的として家族を維持してきました。親は、弓矢を持って狩りにでかけ、畑をたがやし、菜を育て、豆を煎りました。子供は少し大きくなると手伝いをしたり、あるいは田畑で両親が働いているまわりを飛びはねていました。

 そうして一日が過ぎ、家族での食事がはじまるのです。収穫と、その日一日の安全を神に感謝し、そして口に運びます。目に見るもの、手に触るもの、そして口の中で感じられるものは、昼間のあの「もの」なのです。

 狩猟時代ほど昔では無くても、著者の子供のころは食べものを「実感」することができました。茶碗のなかに暖かいご飯がよそってあります。のぞき込むとご飯粒が見えます。そして、その白く小さく半透明のご飯粒に、農家の人の姿が映ったものです。

 腰を曲げて田植えをする姿、夏の灼熱の太陽のしたでの草取り、滴る汗をふきとるしわだらけの手と黒光りした額(ひたい)、そして秋には収穫の喜びに顔がほころんでいる一家、さらに冬には囲炉裏の周りで藁をなう老人・・・そんな農家の一年が茶碗の中のご飯粒に見えるのです。
そして、茶碗のなかのご飯粒をすこしでも残そうものなら「お米を作った人に申し訳がないでしょ!全部、食べなさい!」と叱られて、最後の一粒までお箸で拾ったものです。

 それは魚でも野菜でもそうでした。台所に運ばれた魚は、頭(かしら)を切りとり、内臓(わた)を取りだし、何枚かにおろして初めて食べることができました。魚をさばくあいだには、魚の目が充血して真っ赤になっているのを見たり、ウロコで手をケガすることもありました。

 「日の輝く春の朝、大人の男も女も、子供らまで加わって海藻を採集し浜砂に拡げて干す。……漁師のむすめ達が臑をまるだしにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布切れをあねさんかぶりにし、背中にカゴを背負っている。子供らは泡立つ白波に立ち向かって利して戯れ、幼児は楽しそうに砂のうえで転げ回る。婦人達は海草の山を選別したり、ぬれねみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。暖かいお茶とご飯。そしておかずは細かくむしった魚である。こうした光景のすべてが陽気で美しい。だれも彼もこころ浮き浮きと嬉しそうだ。」(渡辺京二「逝きし日の面影」。幕末の日本を描写した女流旅行家イライザ・シッドモアの記録から)

 自分が田畑を耕したこともなく、漁船に乗ったことがなくても、生活のまわりには自然がありましたから、魚をとってくれる人たちの生活を頭に浮かべることが容易だったのです。そして、目の前の食料が自然からとれたものであること、それが、生物のかけがえのない命を頂いていることを確実に感じることができました。

 もちろん、一見、美しく楽しく見える、このような生活には苦しみはありました。恒常的に不足する食糧、病気、貧困、子沢山などがつきまとっていましたし、この本に引用した昔の情景のなかには、美しさや躍動感とともに、登場人物の役割分担がきびしく感じられます。

昔というものが、美しく、それと同時に哀しさを持っていたことをうかがわせるのです。

 現代社会は冷凍食品に代表されるような、架空で実感のないものに取りかこまれています。食事の準備、頭や内臓をさばかなければならない魚、とりたての野菜・・・すべてやっかいなものです。これらはいずれも「効率」を第一にする社会では嫌われます。かくして、食料は四角くきざまれ、ときに「チン」するだけで食べられるようになってきました。その中で人間はどのようにして「実物」を感じることができるのでしょうか?一度も見たこともなく、一度も経験したことがないもの、形も味も全くちがうものを人間は想像することができません。架空のなかで食事をし、生活をするようになります。

 すでに都会の子供の大半が、架空の食事をしています。小さいころ、すこしでも自然の恵み、自然からの食事を経験していれば、それが原体験となって、こころに残りますが、いちども稲を刈りとったこともなく、海から魚を釣ったこともなく、両親が、豪快に生きものを調理する姿を見たこともない・・・その子供は、自分の目のまえのお皿に乗っている「物体」が命あるものであり、自分が生きるためには命を頂かなければならないこと、それをとってくれた人のひたいの汗を感じることはできません。