6.  水俣病と四日市喘息

6.1.  概要


6.1.1.  水俣病の病像

 水俣病は、メチル水銀により中枢神経を中心とする神経系が障害される中毒性疾患である。経口摂取されたメチル水銀は、いったんほとんどが吸収されるが、体内に蓄積された量に応じて排泄される。長期間継続した曝露を受ける場合は、曝露が開始した当初は体内蓄積量が増加していくが、排泄量もこれに応じて増加するため、曝露が開始して一定の期間が経過すると吸収量と排泄量は均衡する。腎臓等が障害される無機水銀中毒とは異なった病像を示し、神経系以外に障害は生じない。臨床的には多様な症候が生じ、四肢末端の感覚障害、小脳性運動失調、両側性求心性視野狭窄、中枢性眼球運動障害、中枢性聴力障害、中枢性の平衡機能障害が主要である。また、母親が妊娠中にメチル水銀の曝露を受けたことにより、脳性小児麻痺様の障害を来す胎児性の水俣病も報告されている(1)。

          
図 13 水俣(左)と水俣病の少女(右)


6.1.2.  有機水銀の漏洩

 チッソは戦前の有力化学会社で朝鮮などにも大工場を持っていた。戦後、水俣工場では、合成酢酸の原料アセトアルデヒドをつくるための触媒として、硫酸水銀が用いられた。この過程で硫酸水銀が有機化してメチル水銀が副生される。

図 14 チッソのプロセス

 チッソは高い開発力を持ち、独自の技術で次々と生産設備を更新して製品の増産につとめた化学会社で、特に水俣では、地域社会の支持、安い労働力、豊富な用水、自前の発電力そして天草の石灰岩や石炭など手近にある原材料など有利な立地もあり、水俣の町も急速に発展を遂げた。例えば、工場と従業員の納める税額が水俣市の税収の50%を超え、チッソは地域の経済や行政に大きな力を持っていた。当時の日本の多くの都市がそうであったように、水俣はいわゆる企業城下町であり、それはその町の人の誇りだった。


6.1.3.  事件

 戦争直後の1949年、日窒水俣工場が塩化ビニールの生産を再開した。それから4年目、太平洋戦争が終って8年後の1953年、新日窒水俣工場附属病院に一人の少女が診察に訪れ、脳障害と診断され、水俣市は水俣市奇病対策委員会を設置した。

 その2年前の1951年、チッソの技術者の一人がアセトアルデヒドの製造過程で「有機水銀」が副産物として生まれ、それが廃液として流失することを知る。この結果は、工場内で検討されたが、水銀の障害自体が知られておらず、もちろん、新たな設備投資は見送られた。それでもこの技術者は後に述懐する。

 「私は後に熊本大の発表をみて、アセトアルデヒド廃液が原因であることに確信をもった。会社側に何度も意見したが、聞き入れて貰えなかった。あの時点で対策が講じられれば、と思うととても残念だ。」

 1956年、熊本大学はこの病気が感染症ではなく、中毒であるという推定をし、工場からの廃液を採取した。翌年、厚生省厚生科学研究班が「科学毒物として、セレン、マンガンの他タリウムが疑われる」と発表する。チッソは製造プロセスを検討、「排水中のセレン、タリウム、マンガンは基準以下、ネコ実験では3物質が原因とは断定できない。」と発表した。

 1959年、新日窒附属病院細川院長、塩化ビニール、アセトアルデヒド廃水を直接投与するネコ実験開始、つづいて、熊大研究班の研究報告会で、武内教授、徳臣教授らが「水俣病は現地の魚介類を摂取することによって引き起こされる神経系疾患であり、魚介類を汚染している毒物としては水銀が極めて注目されるに至った。」と公式発表した。最初の患者の発見から原因解明まで6年を要した。なお、日本化学工業協会大島竹治理事が「爆薬説」、東工大清浦雷作教授、「アミン中毒説」を発表している。

 1968年、国は水俣病がチッソによる公害病と認めた。認定患者は2,265人。総患者数は12,618人と推定される。


6.1.4.  周囲の状況と新潟水俣病

 当時、チッソは市の税収の3分の1を納めていて、水俣はチッソの企業城下町であった。経営の苦しいチッソにとって、稼ぎ頭であった水俣工場の操業を停止するわけにはいかなかったし、地域住民からも生活の糧となっている工場を止めろという声は上がらなかった。反対に、水銀が原因であると判ってきた1959年には不知火海沿岸の漁民が排水の停止を求めてチッソに乱入した際には、市民が「チッソの工場の排水を停止するな!」と市長に迫ったほどであった。

 1965年、水俣で最初の患者がでてから13年後。原因不明の疾患として新潟市内の医療機関から紹介されていた新潟市内下山地区の患者が有機水銀中毒の疑いがもたれた。これが、阿賀野川流域で水俣病が発生だった。次いで、同年数名の患者が発見され、新潟大学神経内科の椿教授及び植木教授によって、この事実が学会で報告された。厚生省の特別研究班は、昭和電工鹿瀬工場構内のボタ山と排水口付近の泥からメチル水銀を検出し、工場排水が原因であると主張したが、昭和電工は反論、新潟地震によって流失した農薬が原因であると主張した。その後、紆余曲折があったが、1971年、新潟水俣病第1次訴訟の判決により、原因は工場排水であることが確定した。


6.2.  ルポルタージュ

6.2.1.  石牟礼道子『水俣病闘争・わが死民』

 「今年の夏、学生さん達が全国から大層たくさん水俣に来られまして、水俣の漁民部落はときならぬ賑わいをみせました。・・・学生さん達は、只でいるのは何だからお手伝いをしたいと申し出られまして、一軒の家に三泊四泊したり、長い人は一ヶ月以上いた人もいるわけですが、実のところ大層患者さん達は迷惑いたしましたのです。・・・患者さん達は、本来とっても優しい人達ですから、「じゃ畑の草むしりでもしてもらおうか」とか「網の手伝いでもしてもらおうか」とか、いろいろ考え出して仕事をみつけてあてがいました。ところが、学生さん達は、一所けんめい働きまして、草を残して作物の芽を引っこぬいたり、大きな靴で雨上がりの畑を踏み荒らしてしまったり・・・(笑)。そのような学生さんたちを、これまた漁師さんたちは全く一方的な田舎の人間の善意でもって、言ってしまえば遊ばせてさしあげたわけですね。・・・なかには面の皮の厚い人がいて漁民達をオルグするつもりでやって来ました。水俣病の患者さん達は理論を持たないから、自分達の習い覚えた学園闘争の理論をここで応用しているつもりなんです。」


6.2.2.  戦後日本の市民運動をめぐって(町田 怜子さんのインターネットより拝借)

 「当時、被害者達に寄せられた市民の反応は、今私達が水俣に対して思い描くものとは大層異なっていた。「補償金3000万(当時の)!!自分達が腐った魚を食べたのが悪いんじゃないか!」と、チッソ本社前での座り込み隊に対して石を投げる。水俣全体の経済が低下し、水俣市民も被害者を疎んじる。多数者の民主主義、エゴが少数者の民主主義を殺すのである。1967年水俣を訪れたTBS取材班が出会ったのは、「もう水俣病は終わったことだし、新潟に新しい水俣病が出てたいへん迷惑している。」という多数市民の声だった。宇井純が言うように、「患者は、水俣病と年金への羨望との二つの差別のかげに身を細めて」生きねばならないのである。」


6.3.  四日市喘息

6.3.1.  経過

 四日市では1960年頃より、磯津、塩浜地域を中心に気管支喘息の異常な発生が訴えられるようになった。同市内に設けた汚染地区、非汚染地区における約3万人の国民健康保険加入者について、その年間受診率を調べた結果が図 15の左の図である。4歳未満の幼児と50歳以上の年齢層で気管支喘息の発生増加がみられた。

     
図 15 四日市の汚染地域と気管支喘息(左)と二酸化炭素の濃度と喘息受診率(右)

 また図 15の右は、調査された市内の13地区における二酸化硫黄類(SOx)の濃度レベルと50歳以上の年齢層での喘息受診率との関係を示したものであるが、SOx濃度が高い地域の人ほど、喘息の受診率が高く、その間に強い相関がみられている。

 1965年には日本では最初の公害患者を救済するための四日市市条例を制定し、市公害等医療審査会で認定された患者の医療費を市が負担するとの決定を行った。患者数は1969年までに約600名の患者が認定された。その後、工場の煙突を高くすることと、燃料を低硫黄にすることによって、近隣の磯津地区のSox濃度は減少し、図 16に示すように新規発生は下降し始めた。

図 16 磯津地区と市全体の患者の推移

 この四日市の経験を受けて従来の「ばい煙規制法」に代わって「大気汚染防止法」が制定され、1967年以降、ほとんどの工場は煙突を高くした。しかし、大気浄化にはさらに経験が必要だった。煙突を高くしたことによって拡散分布範囲が遠方で重なり合い、図 16のように汚染範囲が拡大した。1972年には四日市市域の約40%が0.5mg/100cm2/dayのレベルを越えるようになり、それまで汚染のなかった西部地区が新な汚染地区となるようになった。


6.3.2.  訴訟

 四日市公害訴訟はいわゆる四大公害訴訟の1つとして1967年9月に磯津地区の患者を原告として津地裁四日市支部に提訴され、1972年7月24日に判決が出された。この判決には被告6社の控訴がなく確定した。この判決のインパクトは大きく、その後の大気汚染の総量規制、SO2環境基準の改正、公害健康被害補償法の制定などのもとになったが、この訴訟には2つの問題点があった。1つは大気汚染における発生源の共同責任(共同不法行為の認定)、1つは大気汚染と喘息などのいわゆる非特異的閉塞性肺疾患の因果関係論である。つまり、気管支喘息、慢性気管支炎などのいわゆる非特異的慢性閉塞性肺疾患のような、大気汚染と無関係に古くから存在している非特異的疾患においては、水俣病や次章のイタイイタイ病の場合と異なって、その人が喘息患者であることを証明しても、その原因に大気汚染を指摘したことにはならない。この点について『疫学的因果関係論と法的因果関係論』が議論され、その後の日本の公害理論の中に取り入れられていく。工学、医学においても、そして法学においても、人間の進歩は少しずつ、犠牲者をともないながら進んできたことがわかる。


6.4.  社会の進歩と倫理

 水俣病と四日市喘息は戦後の日本の生活の工場の中で発生した大きな2つの事件であった。象徴的なこの2つの事件と共に新潟水俣病、川崎喘息など関係する公害事件も多かった。この歴史的な事件を工学倫理から深く考えてみたい。なお、この章では「クロヨンダム」の映像を参考にする。

6.4.1.  人類が公害を認識していく過程

 1952年12月、ロンドンはどんよりと煙った朝を迎えた。もともと霧の多い季節でもあり、人々は気にもせず出勤していった。しかし、その日に限って「霧」は「殺人能力をもった煙・・スモッグ」だった。北海から移動してきた冷気団がすっぽりとロンドン市街を多い、被さるように動かなかったのだ。冷気団に覆われたロンドンの町からゆっくりと暖炉の煙が上がる。そして行き場所を失った煙はスモッグとなった。後の調査で12月初旬のスモッグの死者は4000人と見積もられている。

 1950年台から1970年の20年間は人間の活動が地域活動としては、自然を上回ったことに気づかず大きな公害が連続的に発生した時期であった。日本の水俣病や四日市喘息がその時期に起こった事件であった。その後、公害発生のメカニズムが解明されるにつれて公害防止技術が生まれ、現在のような素晴しい環境へと代わっていった。

 人間は不完全なものである。水俣病で1951年、工場排水中に水銀が含まれていることを知った技術者はあとで、そのことを後悔しているが、始めての患者がでる2年前、熊本大学が水銀が原因であることを突き止める8年前であり、普通では思いつくことすら不可能であった。このことは水俣病を起したチッソを庇うとか非難するということではない。人間の知恵はそれほど高くはなく、自分がしていることが社会にどのような影響を与えるのかは直ちに分かるものではないという謙虚な気持ちを持たなければならないことをこの悲惨な事件を通じて学ぶことである。「技術者が悪い!会社が悪い!」ということだけでは教訓は活きない。

 四日市に工場群ができた1960年代は日本が戦後の復興を成し遂げ、工業立国として世界も驚くような成長を始めた時期であった。そのころ、コンビナートを作った多くの市では「煙突」は繁栄の象徴でもあり、市民の誇りであった。「我が町の七つの煙突」という歌を高らかに歌った。もともと、四日市の市街地の近くに工場群を建設したのは、市民が工場へ通勤しやすいためであり、まさか煙突からでる煙がもとで喘息になるとは考えても見なかったのである。

 図 15のグラフは実証データとして優れており、新しい事象はこのようなしっかりしたデータに基づいて冷静に行なわれる必要がある。二酸化硫黄の公害がその後の対策で減少していったのは、このようなデータに基づくコンセンサスを作る努力がされたからである。これに比較して1990年台から急激に社会的問題になったダイオキシンの場合、世界で13万人もの高濃度曝露者がいるのに、そのデータがほとんど整理されないまま「ダイオキシンは猛毒だ」ということになった。工学はデータを判断材料として活動する学問であり、自己の信念や先入観で判断するのは適当ではない。もちろん「テレビがそう言っている」というのもダメである。

 煙突からの二硫化炭素が原因とわかり、煙突と高くしたところ、今度は図 16に示したように遠いところが汚染された。高い煙突からでる煙が市内の遠いところへ着地し、特に複数の煙突からの煙が一緒になる地点はかなり酷い汚染に見舞われたのである。このような経験を経て「二硫化硫黄自体の排出量を下げる」という当たり前の結論に達した。

 後にこの結論だけを見ると「なんで最初から・・・」という思うが、人間の頭脳の活動はこの程度であり、そのことを知っておくのが一つの倫理である。

 それまでの人間の活動は自然に比較して格段に小さく、汚いものは川に流し、要らないものは山に捨てた。そういう生活を何万年も続けてきたのである。しかし、1960年代からの人間活動の規模はそれより前とは比較にならないほど大きく、自然と比肩しうるものになっていたのである。

 工場を設計し、運転する方も人間である。そこに働くことに生き甲斐を感じ、共に市民として生活をし、妻子を養っていた。日本全体が貧乏だったから、できるだけ節約して生産することに勤め、21世紀には考えられないことではあるが、「汚いものは自然に任せて、その処理にエネルギーや物質を使わない方がお国のため、市民のためだ」と考えていたのである。

 それが突然、障害者がでた。もちろん、信じられないし、公害病という概念もないのだから、水俣病の最初の段階で医師までが「日本脳炎」と診断したのである。工場を運転する技術者がわかるはずもない。


6.4.2.  黒四ダム(クロヨンダム)

 黒部ダムは戦争ですっかり焼け野原となった日本が、急速に復興していた頃、関西電力が中心となって黒部川第四発電所の建設に挑んだときに作ったダムである。通称「クロヨンダム」と呼ばれて親しまれたこのダムは、立山連峰と後立山連峰にはさまれたけわしい黒部峡谷の中にある。雨の多い気候、豪雪、そして地形、できてしまえば美しいこのダムも作るのは大変だった。

 ダムは作るときに大量の材料がいるので、まずその材料を運ぶ道路を作らなければならない。コンクリートの原料の砂利、砂、そしてセメントはもちろん、鉄筋、それを組み合わせるための足場を運ぶ。さらに工作するための機械もいる。機材を運ぶためのトラック、トラックを運転する人、作業場、作業場の料理人・・・クロヨンの時にはじつに「延べ1000万人」が働いた。ダムの建設には7年、日数で言えば2,500日だった。

 「延べ人数」というのは「クロヨンを作るのに働いた全ての人を働いた日数を掛けた数」ということなので、すこし判りにくい。一日あたりに直してみると平均4,000人の人が働いた計算になる。すごい数だ。

 しかも、言葉につくせないほどの難工事だった。ある時は厳しい寒気に晒され、ある時は突然、激しい水がトンネル内に溢れて、逃げ場を失った仲間が命を落とす。特に黒部は日本の巨大断層フォッサマグナにかかっていたので、難しかった。とくに「破砕帯」と呼ばれる地層を貫いて作らなければならなかった全長5.4キロメートルの大町トンネルのでは、4℃という身を切るような水、落盤、土砂崩れなど、ありとあらゆる困難がひとびとを待ちかまえていたのである。犠牲者が次々とでる。水が突出し、天井が崩れる・・・遂に、あまりのことに工事は中断。「もうだめだ」と思うこともあった。たった一本のトンネルを掘るために、10本もの「水を逃がすトンネル」を掘なければならないという有様だった。

          
図 17 立山連峰と後立山連峰の間の「クロヨン」(左)と大町トンネルの貫通で喜ぶ関係者(右)

 そんな難工事中の難工事もついに終わり「大町トンネル」が昭和32年5月に開通したとき関係者の喜びは爆発した。苦労をともにしたとき、その苦労が大きければ大きいほど、喜びも大きい。そしてこのように苦労して作ったクロヨンダム。その威力は大変なものだった。昭和30年というと家庭に電気洗濯機が普及し始めた時代で、それまで家庭で使う電気製品といえば、電灯とせいぜい電気アイロンだけだった。電灯はいつでも使えたが、アイロンを使うときには電気会社に断ってから使うという状態だった。

図 18 お嫁入り直後の後藤 絹(キヌ)さん

 電気の無い昔は大変だった。後藤 絹(キヌ)さんという人の人生の記録がインターネットにのせられているが、16歳で嫁に行き、結婚式の三日後から洗濯をさせられる。冷たい水。石けんを使わせてもらう時はまだ良いが、倹約のためにかまどの灰を使う。16歳から毎日、毎日、冷たい水で洗濯をしつづけてきた手はかさかさになり、アカギレが走る。その傷にまた水が染みる・・・辛い毎日だった。 「電気洗濯機」や「瞬間湯沸し器」はそんな苦労をなくしてくれた。手でする洗濯は重労働だ。でもそれだけではない。家事に追われている間に、その人の貴重な人生の一日はなくなってしまう。朝、起きたらすぐご飯のしたく、あと片付け、お掃除、そして洗濯・・・と家事はきりがない。おわれているうちに、あっという間に夕方になる。そうして一日、一日とすぎていく。

 もちろん、いつも健康で体の調子が良いとは限らない。風邪を引くこともあれば、高い熱が出ることもある。それでも休むことはできない。赤ちゃんがいればオシメを洗っておかなければ、赤ちゃんのお尻は赤くかぶれてくる。毎日、毎日が生きることで精一杯だった。クロヨンダムはそんな人たちに幸福をもたらした。特にクロヨンダムからの電気は寒い雪国・北陸の人たちにとってはありがたいものだった。


6.5.  「不作為の倫理」と「行動と倫理」

6.5.1.  不作為と学問の進歩

 人間は不完全なものである。だから「何かをすれば何か不都合なことが起こる」と考えても良い。そのような視点から「不作為」、つまり何もしなければ不都合なことは起こらない。たとえばこれ以上、科学を進歩させてはいけないという議論がその一つだが、本当だろうか?

 「作為の倫理」、つまりチッソが最新鋭の工場を建設する時の倫理のように、あることを為したときにそれが相手にどのような影響を与えるかについての倫理はギリシャ哲学・倫理学から今日に至るまで深くかつ長く研究されてきた。倫理の黄金律と言われる「自分がして欲しいことを相手にする」もその典型的な概念である。これに対して「不作為の倫理」の場合は、新約聖書に記録されたサマリア人の話、海上遭難の救助義務や初期火災における不作為など危機的状態における救済などがあるが、あまり十分に語られてはいない。

 図 19は150年前と現代の生活を比較したものであり、もし科学に関して「不作為」を続けたら、現在でも不衛生な粗末な家に住んでいただろう。また図 20の左は中世ヨーロッパの手術の様子を描いた絵だが、麻酔もなしにノコギリで脚を切断している。右は1900年代の日本の平均寿命の推移を示しているが、80年前は40歳前半で死んでいた日本人は、多くの失敗と成功の試みの中で現在では80歳の人生を享受している。

 倫理とは作為による失敗のみに目を向けるのではなく、不作為による機会損失にも注目する必要がある。

          
図 19 江戸末期の箱根(左)と現代の生活(右)


         
図 20 ノコギリで手術する中世(左)と日本人の平均年齢(右)

 そこで、「不作為」そのものがその社会の構成員として倫理的な問題を生じると考えてみる。またこの「不作為」には「自らが自らの判断においての不作為」と「自らの判断において他の人に不作為を強いる」場合に分けることができる。自らの不作為によって自らが損害を受けた場合には相手が存在しないという理由によって倫理を論じることができないが、自らの不作為によってその社会で生活している他の人に損害を与える場合には倫理的問題を生じる。たとえば、衛生状態の悪い寒村に派遣された医師が患者(現状に比較して危機的状態にある人)は救済しても、衛生状態(現状)の改善を怠って継続的な患者を出すような状況が想定される。さらに、自らの判断において他の人に不作為を強いる場合は「他の人」が単数の場合には「自らが自らの判断においての不作為」と同様になるが、「他の人」が複数、特に大多数の場合には不作為の影響は甚大になる場合が想定される。「これ以上、物質を生産すると環境が壊れるので、進歩を止めよう」などがこれに当たる。


6.5.2.  学問および工学の意義と不作為の倫理の関係

 学問の概念とその意義については古来、多くの見解があるが、その中心的なものとしてヘーゲル、荻生徂徠、マックスウェーバーをあげる。ヘーゲルは学が整理と事物の解析をもってその役目とすることを示し、荻生徂徠は原理が社会を支配しているのではなく学問の努力によって決定されることを主張し 、マックスウェーバーは「学は自ら時代遅れになることを望む」としている 。荻生徂徠、マックスウェーバーによれば学問の意義は社会それ自体を不完全なものと見なし、不完全なるが故にたゆまざる改善の努力が必要であり、かつ現実的な学問はそれを目指しているとしている。

 学問の意義に対するこの見解をとれば、学問は新しい事象に興味を示し、あるいは現状を整理・解析することによってそれまでになかった概念や理論に到達することを目的にしており、またそれに対して学問自体および社会がその価値を認めていることになる。仮にその時点の社会がその時点に生命活動を行っている人間をはじめとした生物にとって「普遍的に正しい」ものであれば、それを覆すような行為は批判されるべきである。

 一方、工学は学問一般に対してさらに社会との関わりが密接であり、その行為の目的は「自然の原理を応用して人類の福利に貢献する」ことである。工学はその活動によって新しい装置、システム、材料などを生み出していくが、仮に現在の社会が改善の余地の無いほど満足するべき状態にあれば、工学はその目的を失う。現在の環境問題の議論の中に明確ではないが、同類の考え方が見られる )。

 従って、その時点での社会が完全なものであれば学問はその意義を失い、仮に不完全であれば学問的作為は社会にとって正しいことであり、不作為は社会を不完全な状態のまま放置することに他ならない。社会を構成する職業のなかで学問を旨とする業に従事しているものは、継続的な努力によって新しいものを生み出していくことが基本的な職業倫理となる。工学においては社会に生じた故障を修繕するに止まらず、より積極的な改善を目指すことが求められるとできよう。

名古屋大学 武田邦彦


参考文献

1) http://www.pref.kumamoto.jp/eco/minamata/minamata02.html
2) マックスウェーバー、「職業としての学問」、岩波文庫
3) 武田邦彦、機械学会誌、67 (658) p.154-161 (2001), 66 (641) p.198-205 (2000)
4) 伊藤仁斎(根元派)「仁とは人道の大本、衆善の総要。人道の仁義有るは、猶天道の陰陽有るがごとし。仁と義は相離れずして、仁を以て要と為。(童子問)」、荻生徂徠(認識派)「孔子の道は先王の道なり。先王の道は天下を安んずるの身となり。孔子は六経を修めて以てこれを伝ふ。六経は即ち先王の道なり。必ず天下を安んずるを以て心と為す。是れ所謂仁なり。(弁道)」