2.  工学倫理の基礎的整理

2.1.  理学と工学


 工学倫理を学ぶ時には、まず「工学」の定義が必要である。

 工学を「サイエンス(理学・科学)」との関係で簡単に表現すれば、理学が「なぜ」をその出発点にすることに対して、技術は「したい」という希望が出発点になるといえる。例えば、理学は「鳥という物体はなぜ空を飛ぶことができるか?」との疑問を持ち、その原理を明らかにするが、それだけでは、実際に飛行する物体を作ることはできない。流体力学や内燃機関の工学が必要とされる。しかし、それでも人間が空を飛び、快適な旅行をすることはできない。現実に人間が安全に空を飛ぶためには、その夢の実現の過程で悲惨な出来事が起こり、ライト兄弟が僅かな飛行に成功し、その後も幾多の困難に打ちかち、初めて人類は「快適な空の旅」という夢を実現することができる。

 このように希望と夢を実現するための長い過程のプロセスを分解すると、表 4に示すように「理学的な原理」と「夢を実現する技術」の間に「工学」が存在し、工学が体系化した学問を利用して、具体的な装置、あるいは方法に転換する「技術」が働いていることに気づく。

表 1 航空機技術を例に取った理学、工学、技術

 工学の「専門知識」は学問的に精緻に体系化されている。航空機の例を取れば、理学としての物理学・数学などが十分に応用され、流体力学、内燃機関、通信工学や材料疲労などの関連する工学が高度に組み立てられている。しかし、それは工学的な目的を達成するための基礎的な部分にすぎないので「工学の目的を実現する」ことは出来ない。「したい!」という目的を実現するためには、さらに航空機の機体を設計し、制約のある材料を選択し、計器を整え、安全性を備えた航空機の機体を製造しなければならないし、さらに航空機の運航に対して整備、操縦、安全管理技術を要する。それがすべて満足して「学問が社会に貢献する」という所期の目的が達成される。


2.2.  目的とするものと専門家、およびその前提で発生する倫理

 工学を扱う技術者の専門性についてこの節で簡単に整理をする。

 技術者とは「数学、自然科学や時には人文科学の知見を応用して人類の福利に具体的に貢献する装置や方法を提供する専門家」と見なされている1),2)。つまり、倫理は社会と専門家の間に先鋭的な問題として登場することになるが、専門家に関係する代表的な項目とその内容を表 2に示した。本稿でいう専門家とは、①高度な専門的知識を有し ②長期間、高度な鍛錬を行い ③不特定多数に責任を負う ことを要件とした社会的存在とした。その典型的な例が医師であるが、医師は病人を治療することについての高度な専門的知識を得るために、通常の教育より若干長期間にわたる教育を受ける。例えば、社会が教育に「ゆとり」を求めても医師教育はその枠外におかれる。それは専門性を持つために必要な教育は一般的な教育とは質的に異なるとの断固たる信念に基づくものであり、それを社会も支持する。そしてインターンの時期やその後の予備的な経験を通じて「一人前の医師」になるための鍛錬を積む。他の教育より長い鍛錬が受け入れられているのは、医師の専門性について社会が認知しているからに他ならない。

 やがて一人前になった医師は独立して病人の治療に当たる。そしてその専門性の発揮に当たっては医師は雇用主や依頼主の意向とは無関係に医師本来の任務を遂行する。たとえば国立病院に所属し、国家から給与を受けている医師においても戦場に出向き負傷した敵兵が野戦病院に担がれてくれば、「敵兵」であるという特定の枠組みにとらわれず、「人類」という枠組みの中で治療を行う。味方の軍隊がまさに敵兵を殺害するのに懸命である場合においても医師が敵兵の命を救うことに疑問を感じない。それは「命を守る」という医師の専門性の発揮が「国家」という制約より上位にあることを示していると考えられる。営利を目的とする理事長が経営する病院に勤務する医師も「治療」という専門的行為をするときには上司である理事長の許可を必要としない。理事長も治療の内容について欠陥があるという理由で医師を解雇できない。

表 2 目的と専門家

 近代社会における典型的な専門家は、牧師、医師、弁護士、そして建築家などである。これらの専門家は本来その専門性を発揮する明確な目的を有している。「神」が「このように生きるべきである」という言葉を「神学者」が聖典として編纂し、解釈し、そして牧師に伝える。「牧師」は神学者の編纂した聖典を学び、振り返って社会に向かい「悩める人」を救う。牧師はみずからは「このように生きるべきである」と言わず、また聖典の解釈もしない。同様に、「王」は「このように秩序を守るべきである」と命じ、「法学者」は法律体系を作り、それを普及させる。一方、「弁護士」は自ら法律を作らず、解釈せず、社会において「トラブルに巻き込まれた人」に対して法律という分野でその人を助ける。これらの関係を表 2にまとめた。 これらの伝統的な専門家である牧師、弁護士、そして医師にはこの節の最初に述べた専門家としての3つの要件が満たされているに加えて、社会的に何らかの方法で、①その職に就くことが制限され、 ②職を不条理に剥奪されること、 から保護されているという特徴を有する。

 倫理を慎重に検討し始めると、2つの前提が必要であることに気づく。その一つが「人間は何のために生きているのか?」という目的が明確ではないことである。「何が正しいか?」という問いに対しては「それが目的の方向に向いているか?」がまず問われる(ヘーゲル)。第二に「倫理を守ろうとする人に自由意志があるか?」ということである。いくら倫理を勉強してもその人が自分の意志を実行しうる自由意志を持たなければ倫理の勉強は架空になる。その意味で、職業が保証されている医師や弁護士は自由意志を持つことができるが、サラリーマンは一般的に自由意志を持たない。「行動の自由はないが、心の自由はある」という論理は言動一致の法則があるので、自由意志を持たないのと同一である。

 日本では専門家の存在があやふやであり、表 2に示した関係は現実的ではない状況にある。日本のような全員平等で専門性を重んじない国にあっては倫理を守るために「国民総専門家」と類似の身分保障をしなければならず、それが2000年まで続いた「終身雇用」だった。会社で上司に逆らっても容易には解雇されないし、時には「上司が間違っている」と公言することも許される。日本が終身雇用をゆるめた場合、社会の倫理は保証することができなくなるので、その代わりの欧米式の専門家のシステムを作らなければならないだろう。


2.3.  規範の決定方式

 「こうすべきである」という行動規範を決定する方式に4つあり、それぞれ異なった名称で呼ぶのが適当である。すなわち、表 3に示したように、神が規範を決める宗教、王が規範を決める法律、人(一般的には"偉人")が決める道徳、そして相手が決める倫理である。

表 3 規範の決定方式とその内容

 卑近な例として「茶髪」を取り上げると、「茶髪はけしからん!」というのは「道徳」に分類される。茶髪をしている若者は自分がしているのだから、当然、本人の倫理観では茶髪は正しい。しかし茶髪に腹を立てている人は道徳的に非難するだろう。次にホテルは茶髪の従業員を採用しない。この場合はホテルが茶髪に対する考え方を持っているのではなく、「茶髪の従業員がいると客が不快になる」という理由で、相手が決める倫理に従うということになる。これが進むと「茶髪禁止令」になる。このように茶髪や喫煙などの例を挙げると理解しやすいが、通常の生活では自らが決めた道徳と相手の意志を確認した上での判断が混在する場合が多い。

 もっとも「道徳」と「倫理」とはそれほど明確に区別されているわけではない。ツーゲントハットはこの2つを区別しようとすること自体がおかしいと言っているし、事実、名付け親のアリストテレスの「倫理学(Ethiken)」では倫理は道徳理論の研究であり、性格特徴を調べるとしている。またギリシャ語のethikos(性格的)をラテン語のmoralis(習慣的)と翻訳しているのだから字義的には区別は確かに意味がない。また道徳の神様のようなカントはSitten(習俗)という用語を道徳という意味に用い、ヘーゲルは人倫性(Sittelichkeit)としている。漢語では倫という時は複数の人の集まりを意味している。

 このようなことから、道徳も倫理も歴史的に使用された範囲で使用するにはあまり問題がなく、本著では日本における「道(本来)の徳」と「倫(人)の理(ことわり)」という意味を活かして道徳は誰かが本質的に決めた「善」であり、倫理は相手が決めた「善」として整理をした。

 また表 2では神は絶対的な善を決めるとしているが、地上にはまだ神は出現していないように思われる。歴史的に存在するのは、イエス、マホメットなどの預言者か、悟りを開いた人(釈迦、孔子)であり、その他の多くの預言者が存在する。もしイエスとマホメットが二人とも預言者とすると神もややこしいことをしたことになるし、どちらか一人とするとどちらかが預言者ではなくなり、これも大混乱を来すだろう。またイエスもマホメットも神は同じとも言えるが、それにすると預言の方法や時期などは論理的には理解しにくい。

 遠い異国からシルクロードをへて元に来たマルコポーロのフビライ皇帝が「私は国土を拡げた結果、私の国土には5人の神様がいる。どの人が本当の神様だろうか?間違うと天国でひどい目に遭うかも知れないから教えてくれ」という話はかなり深い内容をもった小咄である。私が若い頃、この話に共鳴したのは、当時、自由主義のアメリカと共産主義のソ連が鋭く対立していた。そして学生はどちらかというと左翼でソ連よりだった。しかし、私は「アメリカにも私より偉い人が100人はいる。ソ連も同じだ。そうすると私が自由主義が善と考えるとソ連の私より人格が高い人にたしなまれるだろうし、反対でも同じことになる。だから私は思想を決められない」と悩んでいたからである。この謎もまだ解けていない。

 人は特定の宗教を信じることによって「善」が決定されるが、それは他人に及ばないのが常識的な倫理の解釈である。従って、倫理的にはキリスト教信者は倫理学者にはなれないが、カントなどをはじめとしてヨーロッパの倫理学者の多くはキリスト教徒である。だからヨーロッパ人が「善」を決める手続きは簡単で、それもヨーロッパで倫理学が発達した一つの要件になっている。

 ところで、著者はイエスを尊敬しているが、聖書を見ると倫理的には納得できないところがある。たとえば、聖書にある「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」はずいぶん命令調であり、イエスを神か神の同等者であるという前提をおかないと論理的には破綻している。また聖書の多くの文章では、「神は、あなた方に神殿で商売をしてはならないと言われている」のように神の代弁者として語っている。この「神」はイザナミ・イザナギ(日本の神道の神)とは違うので、旧約聖書を信じているユダヤ人はこの内容を善として受け入れることができるが、日本人は神社にお伺いを立てる必要を生じる。


2.4.  学問と人間が生きる目的

 現代の学問は、人文科学、社会科学、自然科学に大きく分かれている。社会科学や自然科学を除き、人文科学は「人とはどういうものか?」ということを学問の対象とするので、文学部が設置されている。そしてその中でも哲学という学問は「人はどういうものか?」「知とはなにか?」などの基本問題は研究しているが「人はなぜ生きるのか?(価値)」というテーマは通常、存在しない。これまでは、価値に答えるとすると文学であり、トルストイは「学問は人は何故、生きるのか?という問いに答えないから無意味である」と言っているが、大学のカリキュラムを見るとこのトルストイの言葉は的を得ていると言える。

 この根本問題を回避して「相手に聞けばよい」とする倫理は、より明確な判断基準を持っているようにみえる。しかし、この「相手」とは何を指しているのかを深く考えるとこれもまた曖昧である。

 「環境倫理」という領域が発生し、これまで「人間だけのこと」を考えれば良かった工学倫理の分野で動植物、あるいはそれ以上の「自然の存在目的」などを考慮しなければならないようになった。このことから、まだ僅かではあるが従来の枠組みを超えた哲学も生まれてきている。しかし自然科学と密接に関係した哲学は自然科学の力無くしては解明が困難であり、哲学と自然科学の融合が求められている。これまでの哲学が「人間とはなにか?」から出発していることを考えると、環境倫理は「自然とは何か?」という問いから出発する必要があり、それこそ自然科学の目的であった。自然科学は17世紀から急激に進展し、フランシス・ベーコンやニュートンが感じた「自分の目の前にある未知の海原」は1953年のワトソンとクリックのDNA構造の解明によって、一段落している。人間の知的活動はこれからも継続されるから、それによって現在、我々が理解している自然観は再び覆されることがあるだろうが、少なくとも我々は現在、高い透明感で自然を説明することができるので、それによる「自然とはなにか?」をまず規定し、その上で「自然は人間との関わりでどのようにあるべきか」を明確にすることができる。


2.5.  倫理の対象と時空

 「倫理的」なるものは時空を超えて普遍的なものだろうか?「倫理」という用語の響きは,人間の生き方などに関する哲学的,普遍的な基準や原理を基礎として構築されるとみなされているが,歴史的には適切な事実認識ではないと考えられる.歴史的経過をみると、第一には「倫理は本来,その社会の文化や容認されている常識」によって決定されており,第二に「もともと倫理は人と人の関係」で規定されるので,社会の変化,即ちその時の「相手」によってその内容が変化してきたからである.

 第一の典型的な例としては「人間の平等性」があげられる.封建時代には「身分制」,つまり人間は生まれながらにして平等ではなく,個々人においてその価値に差があり,価値に応じて社会的地位が与えられるとするのが倫理的にも正しかった.そのような時代倫理にあっては主人に対して忠節を尽くすことは最も大切な倫理規範であり,主要な倫理学の大家は「主君への忠」を説いた.例えば江戸時代の代表的思想家で「近江聖人」と呼ばれた中江藤樹(1608-1648)は「時・処・位(身分)に応じて行動することが,天地万物を生む宇宙の根源的活動であり,天地の道や人の道を貫いている普遍的な道理」としている.この倫理は現代においてそれを唱えれば、狂気として相手にされないが、当時,疑いなく受け入れられ、それを主唱する人が聖人と呼ばれたのである[3].

 また,男女平等もまた現代では倫理の基礎的要件の一つであるが,婦人参政権が認められたのはトルコが1936年,フランスが1946年であり,それ以前は「女性は男性と同等ではないから女性には参政権が与えられない」,女性を平等に扱うことは「倫理に反している」とされた.一般に自由平等博愛を謳ったフランス革命の時の「人権宣言」での平等は「白人男性」に限定されたものであり,白人以外の男性に平等な権利は保障されなかった[4].人類が平等であるということが確認されたのは1948年の世界人権宣言を待つことになる.人類が平等でなければ,下等な人類が上等な人類の為に理不尽に扱われるのは「正当」であり,第二次世界大戦以前に植民地が公的に認められていたのはこのような倫理的背景に基づいている.

 倫理が普遍的な原理・基準に基づかないとする第二の考え方は倫理学に一つの柱になっている黄金律によく示されており,「自分にして欲しいことを人にする」「自分がして欲しくないことは人にしてはいけない」であり[5][6],論理的には何が倫理に適合しているかは相手によって変わるべきとできる.「倫」という字が人と人の関係を示すように相手の価値観に合わせることも求められる.

 以上の整理により,倫理は一般的に社会的合意により時代と共に変化するものと考えるべきであり,その意味では時代性のある倫理,すなわち「時代倫理」は倫理そのものであると定義しうることが判るが、日本の100年程度の期間で、主として工学に関係の深い事例を整理してみる。

 近代以降,日本における時代倫理は大きく3つに区分される.それは明治以来の日本の工学教育の目標が明治時代から第二次世界大戦まで(1868-1945)の「富国強兵」,朝鮮動乱からバブル崩壊までの「高度成長」(1946-1989),そして「環境保全」(1990-)と変容してきていることからもわかる.明治初期の工学教育の目標は欧米列強の植民地化を逃れるための緊急避難的な富国強兵であった.この時代の工学教育の倫理観を最も良く示す例は東京大学工学部設立に関する明治19年の大鳥圭介の演説記録に見られる[7].それを以下に引用する.

 「吾人亜細亜洲人ハ何故ニ欧羅巴(ヨーロッパ)洲人ニ及バザルヤ.地積ノ大小ヲ問ヘバ,亜細亜全洲ノ面積ハ幾(ほと)ンド欧羅巴ノ六倍アリ.人口ノ多寡ハ如何.亜細亜全洲ノ人口凡(およそ)六億,欧羅巴ノ人口凡三億ニテ,即(すなわち)二倍ナリ.

 (中略)

 然ラバ,版図ノ大小,人口ノ多寡,開闢ノ時代ニテモ亜細亜洲ガ一番ナルベキニ,何故ニ亜細亜人ノ領分ガ欧羅巴,亜米利加,亜弗利加(アフリカ),豪斯多利亜(オーストラリア)ニ無クシテ,却(かえっ)テ亜細亜,亜弗利加等ノ国々ハ欧羅巴人ニ掠略サレシヤ.又何故今日農工商ノ事ニテモ交際上ニテモ欧羅巴人ニ蔑視サレテ頭ガ挙ガラヌカ.之ヲ考レバ,泣クニモ泣カレヌ歎(なげか)ハシキ次第ナリ.之ヲ要スルニ,皆学識ノ虚実ト智力ノ強弱トニ縁(よ)ラザルナシ. 」

 欧米がその武力をもってアジア各国を植民地化していった19世紀中盤の国際情勢にあってアジア各国の関心事が富国強兵であったのは必然性がある.江戸末期には日本にきわめて近い中国の香港で勃発したアヘン戦争は約2年に及んだが,最後の決戦が1842年,4月から5月の作浦と鎮江でおこり,作浦の戦いではイギリス軍の戦死9名に対して,清軍の死者は女子供を含みイギリス軍の埋葬者だけで1,000名を数えた.また,鎮江ではイギリス軍の戦死37名に対して,1,600名の清軍が死亡した.まさに圧倒的な火力を使っての中国人の虐殺と言えるものである.

 このような状況の中,アジアのほとんどの国が欧米の植民地になった中でほぼ日本だけが植民地化を免れたのは,大鳥の演説を視野に入れるならば,日本の近代工学教育の当初の目的が達成されたと言えるだろう.そしてその倫理は次第にアジアにおける覇権との関係へ発展していき,すでに1930年代には日本の海軍力は欧米列強に匹敵するまでに成長した.1930年のロンドン条約ではアメリカ合衆国:大英帝国:大日本帝国の主力軍艦の艦数は15:15:9とされ,日本国民の憤激を買ったが,アジアでは唯一,欧米に対抗しうる国として認められたとも解釈できる.

 すなわち,明治維新から第二次世界大戦までの間,「自由・平等」が国際的にも正しいとされてはいたが,欧米は武力の増強に励み,多くの国を武力で制圧し,力の強い者が正義であった.その国が優れた機関銃や戦艦を建造し,それによって他国を支配することは一般的に「正しいこと」としてよいことを示していた.従って,日本が植民地になることを工学教育の目的としては是認できないとすると,明治維新から第二次世界大戦までの工学教育の目的が富国強兵であったことはこの時期の時代倫理からも正しいと考えられる.

 しかし,第二次世界大戦における諸国民の犠牲は膨大で,特に敗戦国となった日本は犠牲者の数は数100万人にも及んだ.その結果,富国強兵という教育目標は修正を余儀なくされ,昭和26年に大学基準協会から出版された「大学に於ける一般教育」では,

「ところが幸か不幸か,今次の世界第2次大戦の敗戦を契機として我国の社会機構が民主的に変革されると共に,従来の大学教育の欠陥が大いに反省され,学術の研究や職業教育の必要と同時に人間完成を目指す人間教育の重要性が強調されるに至り,ここに新制大学の誕生を見るに至ったわけである.これはひとり日本だけの問題ではなく,欧米においても既に大学の専門教育化の弊害が指摘され,それに対する反省の結果として人間教育が重要視されるようになってきているのである.ただ日本の教育者たちが今日まで人間教育の重要性を等閑視しておったのを,今度の敗戦による反省と我国民主社会の要望により,やっとそれに気がつき,新制大学の名の下に人間教育を強調し始めた次第なのである.」

とされている[8].

 しかし,戦後の大学教育の考え方や倫理は大学全体における教育を論じたものであり,工学教育はあまり念頭に置かれていなかったと考えるのが適当であろう.科学教育や工学教育を取り扱うときには,工学倫理教育よりも原子爆弾などの科学や工学の産物に対する倫理が強く意識された[9].それによって,第二次世界大戦後の工学教育の目標は「平和を前提として健康で文化的な生活を営むことに貢献する」ということであり,それはとりもなおさず「平和利用に限定した安価な大量生産技術と経済拡大に資する工学」に他ならなかった.「所得倍増計画」,「日本列島改造論」などの政治的目標は日本の工学教育と工業が実現させたと言って良い.結果的にそのことは,日本人の平均所得を高め,戦前は40歳だった平均寿命を70歳以上にしたという具体的成果を挙げれば十分であろう.

 一方,世界にも希な効率的生産,狭溢な国土,高い人口密度から,日本国土が処理しうる物質の限界という意味で生産は過剰になり,汚染や資源の問題が議論されるようになった.すでに1970年頃から世界的に環境問題が強く認識され,日本では1990年から環境を配慮することが工学倫理の主たる柱に転換してきたのである.しかし,まだ生産と環境の問題は解決しておらず,一方で,生産活動を意味する「ものづくり」の重要性が強調されるとともに,「世界の持続的な発展」のための「ものばなれと知の創出」が目標とされようとしている[10].実にめまぐるしい倫理基準の変化である。

 道徳や倫理はこのように時空を超えて普遍的に存在する規範があるわけでは無いことを示しているが、これを具体的な世論調査から検証する。図 1はNHKが継続的に調査した「婚前交渉の容認度」に関するものであり、調査対象は無作為に選ばれた日本国民である。1973年から1993年の20年間にわたる変化を見ると婚前交渉を容認しない人の比率は徐々に低下しており、「時代とともに婚前交渉を是とする人が増えている」という結論を得る。しかし、この調査を「生まれた年」に注目して整理をすると、婚前交渉という倫理問題について日本人がその倫理観を確立する時期は15-25歳であり、25歳以降は60歳以上になるまでほとんどその考え方を変えないことが判る。すなわち、時間の経過による倫理規範の変化はその社会を構成する人の移動によってなされると考えられるのである。

図 1 婚前交渉の容認に関する世論調査(左:調査年整理、右:生年整理)

 時空と倫理についての議論の最後に、本節で示した具体的な例、たとえば最後の婚前交渉の是非に関する「倫理的容認」が果たして倫理的であるか疑問である。婚前交渉が社会的に悪い影響を与え、それが問題であれば法律で禁止するべきであるが、「売春禁止法」は婚前交渉を是としている。一方、多くの婚前交渉は青年層に見られるのであるから、20歳から30歳程度の青年層とその時代の平均的結婚年齢で整理をすれば、1973年以来、ほぼ70-80%の人が婚前交渉を是としているということになる。婚前交渉の対象となる人が「是」としているのだから、たとえば60歳の人は結婚年齢の人の倫理観を十分に斟酌しなければいけないとも考えられるが、現実のとらえ方はそうではない。また、婚前交渉は私生児の誕生など家族に影響を及ぼす結果をもたらすので、その点についての影響の程度も考慮する必要がある。


2.6.  状況倫理

 社会が平和の時には平和が倫理的に正しいと主張し、敵国が責めてきたときには戦争が正しいと変化するような考え方を「平和時の平和主義」という。このような単純な考え方は少ないと思われるが、現実は平和時の平和主義がほとんどで、普遍的な平和主義はガンジーの無抵抗主義以外にはほとんど見あたらない。現在の日本の平和主義も日本や自分の肉親が理不尽に攻められたり、殺されることがないことが前提となっている。また、人間および人間の集団は生物の生存原理に従って自分に都合の良いことを「善」とする原則がある。その一つの例が第二次世界大戦後、敗戦国の日本が軍備を持たない平和国家になり、戦勝国のアメリカ、イギリス、フランスおよびソ連はいずれも軍事力を有していることから理解できる。

 かりに戦争が本質的に「善」ではない場合、戦勝国も敗戦国も同じく軍備を放棄して平和主義に転換するべきであるが、現実はそうではない。かりに戦争に勝てば戦争は倫理的に認められ、敗戦の場合は認められないというと結果によって対象物の価値が変化することになる。

 この問題は環境倫理に関しても同じであり、「資源が有限なら資源の節約をするべきであり、資源が無限に近くあれば、環境倫理自体が存在しないという論理も存在する。このようにある状況によって倫理判断がことなるものは「状況倫理」と呼びうる。状況倫理では対象となるものに関する状況によって倫理的結論が変化する。


2.7.  倫理のマクロとミクロ

 ある技術や技術者の行為についての倫理問題には、技術者個人が業務上、倫理に関わる問題に遭遇したときにどのように対処するかに限定するという考え方[11]とより包括的な見地から倫理問題を考えるべきである[12]との見解があり、杉原は前者を「ミクロレベル」、後者を「マクロレベル」の倫理と分類している[13]。すなわち、ミクロレベルの倫理では個々の技術者が遭遇する範囲の倫理に限定し、メゾレベルでは技術者が所属する企業などの組織にとっての倫理までおよび、マクロレベルでは科学や技術と社会との関係において生じる倫理問題を取り扱う。ミクロ倫理は主としてアメリカで発達し、異文化を抱える複雑な社会に場合に有効とされている。またこのような場合は事例研究が主となり、技術そのものの解釈までは及ばない。このような倫理を日本にそのまま持ち込むと日本人の性格としてマニュアル的に定められた倫理規範だけを受け入れてそれを自動的に処理することによって「倫理の効率化」が始まると懸念されている。

 ヨーロッパでもミクロレベルの倫理に限定することについての懸念があり、European Ethics Networkは"Engineering Ethics"と"Philosophy of Technology"を融合した"Ethics of Technology"を構築しようとしている[14]。多少の論理的粗雑さを許してミクロ倫理とマクロ倫理を表現すれば、「原爆を作ることの是非は問わず、原爆の製造行程や研究過程で公衆に危険が及ぶような倫理的な問題が起こらないようにする」のがミクロ倫理であり、「原爆が投下される是非を考える」のがマクロ倫理とできる。従って、高レベル放射線の地層処分、あるいは崩壊年数の短寿命化についても「技術者」としてミクロ倫理をとるかという問題と、「政策決定者」がどのような倫理を考慮するかという大きな問題を含んでいる。

名古屋大学 武田邦彦


参考文献

1) S.Brown、"The Wisdom of Science", Cambridge University Press (1986)
2) 山本 尚、工学教育プログラム検討委員会1997年度報告第一分冊 (1997)
3) 中江藤樹,熊沢番山:日本の名著11,中央公論(1976)
4) 日本学術会議:人権の歩みから何を学ぶか, 日本学術協力財団, 15, (1990)
5) カソリック教会編:新約聖書
6) 孔子:論語,世界の思想,中央公論社 (1979)
7) 大鳥圭介:東京学士会員雑誌,8,3 (1886)
8) 大学基準協会編:大學における一般教育,一般教育研究委員會報告, 大學基準協会資料第十号,(1951.9)
9) J. ロートブラット編(小沼通二訳):核兵器の無い世界へ-A Pugwash monograph,かもがわ出版 (1995.11)
10) 文部科学省:平成13年版科学技術白書
11) 大貫 徹ら編、「工学倫理の条件」、晃洋書房 (2002)
12) 中村収三、「技術者が教える工学倫理」、(2002)
13) 杉原桂太、Nagoya Journal of Philosophy, vol.2, p.21-37 (2003)
14) Goujon, P. and B.H. Dubreuil ed., "Ethics An European Quest for Responsible Engineering", Peeters