1.  工学倫理を考えるための2,3の前提

 まず最初に工学倫理を考えるために多少の前提について整理をする。私が学生の時代、「・・・概論」や「・・・の定義」などが出てくると、とたんに興味を失った。抽象的でなんの役に立つのかが判らないからだ。そんな抽象的な話は早くためて具体的なことを聞きたいということになる。まったくその通りで、この章で説明する「前提」は、「前提」であるから勉強する前に判っておく必要があるが、「前提」は内容が判らないとその意味がわからない。このパラドックスがあるので、本著では「前提」を最初に示すが、工学倫理を勉強した経験が無く、本著を読む人は本章や次章をとばして、「事例研究」から初めて欲しい。そして工学倫理にかなり接触してきた人はこの前提から読み始めることを期待している。このような事情から、本著では「前提」を先に掲載することにした。


1.1.  ヨーロッパ論理学

 哲学者バートランド・ラッセルは著書「西洋哲学史」で、人間は自分が考える対象物を前にしてそれを「論理的」に考えるか、「神秘的」に考えるかの二つの立場をとり、前者を「理性主義」、後者を「神秘主義」としている。この世で起こることはすべて人間の頭、それも論理的回路を活用することによって理解することができるとの信念が「理性主義」、「論理学」を生んだ。

 ヨーロッパ論理学は遠くギリシャの昔に誕生して発展してきたが、キリスト教の神秘主義の影響で1500年ほどはあまりその力を発揮しなかったが、ルッターの宗教改革、ジェームスワットの蒸気機関などの援助があって19世紀から急激にその力を伸ばし、ヨーロッパが世界に君臨するようになった。

 しかし、理性主義はそれ自体に矛盾を孕んでいる。論理で対象物を「正しく」判断するためには、判断するときに自分自身が有している認識・知識や論理的体系が「正しい」と仮定しなければならない。たとえば「人間は生き物である」と認識して論理を展開したところ、実は人間は無生物であるとすると、論理の道筋が正しくてもその結論は正しいとは限らない。逆に認識や知識が正しくても、論理の道筋、たとえば「三段論法」というものが間違っていれば、その結論も怪しくなる。

 ウィトゲンシュタインという哲学界では有名な人がいて、この人の「論理哲学論考」という著述物には「語りうるものは明らかに語りうるものであり、語り得ないことについては沈黙すべきである」と言っている。「語る」という時にはその手段として言語を用いなければならないが、哲学のある部分は「語り得ないのに言語を弄して語る」ということがあり、その結果、「謎」が生まれて無意味な論争が起こるということでもある。

 このような考え方は理性主義を好むヨーロッパでは受け入れられるので、その後の科学的判断や科学哲学に多く取り入れられた[1]。

 しかし、これも変な話である。自ら「語りうる」と考えるためにはその論拠が必要であるが、それは簡単なことでもなかなか判らないよく「自分とはなにか?」というような世間的にはすぐ答えられるようなことでも厳密に答えようとすると哲学の永遠のテーマのようになるからである。そして私たちが論理的に取り扱う対象は「自分」などという、少なくとも見かけは単純で明確なものではなく、もっともっと複雑で、「自分」というものより重要ではなく、研究にもそれほど時間を割けない対象物であることが多いのである。

 同じくヨーロッパの社会学者、哲学者のマックス・ウェーバーは「学とは自ら時代遅れになることを望む」としているが、これは学問は「現在の認識・知識・論理的思考方法が正しい」という確信と、それが「間違っているから学問をするのだ」という確信が両立していることを意味している。従って、理性主義や論理学は間違っていると考えられる。たとえば、論理体系が真実によって構成されていると確信されていた数学においても1931年、若きゲーデルが、1)真理と証明は完全には一致しない 2)ある論理システムが真であったとしても、そのシステムでは証明できないことがそのシステム内に存在すること の2つを示して数学と論理学の破綻をもたらした。

 つまり、論理学は「論理的に正しいことを、間違っているかも知れない論理で構築する」というパラドックスの上にあるが故に、永遠に「鶏と卵」の間を彷徨し、新しい事実がでるとこれまでの概念がすっかりひっくり返る恐怖におびえていなければならない。


1.2.  アジアの神秘主義

 ヨーロッパが理性主義でアジアが神秘主義と言うわけでもないが、アジアの思想は神秘主義の色合いが強い。あまり論理的に考えずに「全体としてそうです」とする傾向がある。その典型的なものが中国から日本に入り発展した「禅」である。

 「手になにも持たずに行ったのに、鍬を持っていた。

 徒歩で行ったのに、牛の背に乗っていた。

 橋を渡ろうとしたら、水は流れていなかったが橋が流れていた」

 これは禅の有名な「喝(てへん)」であって[2]、まことに立派な非論理であって、禅の思考する道である[3]。


1.3.  言動一致

 ソクラテスは「悪法も法なり」と言って助命活動をしようとする弟子を制して毒杯を仰いだ。イエス・キリストは布教3年、30歳前後で磔になり、「おお、父よ、なぜ私を見捨てたのですか!」と叫んで息を引き取った。ガンジーは「正しく生きるということはどういうことですか?」という質問に「それは私です」と答えた後、しばらくして暴漢によって暗殺された。倫理は「こうするのが正しい」ということを考える。そしてそれに納得したり、さらにそれを人に勧めたりするのだから、自分自身もそのようにしなければならない。身の危険を感じても節を曲げてはいけないし、環境倫理学者が「人口が増えてきたから環境が悪くなってきた」と結論したら、自分が自殺しなければならない。だから倫理を勉強するというのはある程度の覚悟がいるし、あまり徹底的に最終段階に達するのに慎重でなければならない。

 人間がよく「これが正しい」と言ったり、他人のやっていることを「間違っている」というが、それは「裏の言動一致」とも言えるものである。つまり「動」(自分の行動)が先にあってそれに「言」(正当化する)をつけることによって言動を一致させる。そうすればかならず言動一致になって自分の身の安全をはかることができる。ところが倫理学とは、自分が行動していることは間違っていないか?を疑う学問であり、もし間違っているとなれば、「言」が先になるので「動」をあわせる必要が生じてくるのである。このことは、あまり極端な倫理的な結論を導くことの危険さを示している。

名古屋大学 武田邦彦


参考文献

1) いわゆるモーリッツ・シュリックやルドルフ・カルナップらの「ウィーン学団」などがそれに当たる。
2) 善慧(497-569)
3) 鈴木大拙、"An Introduction to Zen Buddhism", 春秋社(訳本) (1991)