人生の過ごし方2

― 登山と高い山 ―




 人生はどのように過ごすのだろうか?

 前回、同じテーマで書いたときには、散歩と通勤を例にとって、「目的を考えた人生は空虚だが、行為を楽しむ人生の時間は充実している」という話をした。

つまり、「会社に行く」「名古屋駅に行く!」という目的があって歩いていると、歩く時間は「空(から)」の時間になるので、人生の時間からその時間を引かなければならないが、「結果としては会社に行くのだが、歩くときは歩くとき、目的とは無関係」と思うと、その時間は自分の人生の時間になる。

 拙著「エコロジー幻想」に、私は結婚式に呼ばれたときには2時間前に披露宴会場につくと書いた。そうすると自分も喜びを感じることができる。急ぐ時間はなにも自分に与えてくれないが、ゆっくりした時間はさまざまなものを与えてくれる。

 ところで、人生の時間の2度目は「登山」を話題にしたい。

1953年、ニュージーランドの登山家、エドモンド・ヒラリーが世界で初めてエベレスト(今は現地語でチョモランマと呼ぶが)の登頂に成功した。はじめて、ネパール人のシェルパ=テンジンとともに、世界最高峰、8848メートルの頂に立ったのである。



それから46年後の1999年、イギリスの登山家ジョージ・マロリーの遺体がエベレストの8290メートル地点で発見された。ジョージ・マロリーは、1924年にエベレスト登頂を目指して途中で消息を絶ってから実に75年の年月が経っていた。

もし、マロリーの遭難がエベレストの登頂に成功した後だったとしたら、ヒラリーの初登頂は歴史から消える。でも、そんなことは山には関係がない。

 ところでマロリーという登山家を知らない人でも、次の有名な言葉で思い出すだろう。

「なぜ山に登るのか?」と質問されたマロリー、少し考えてから、
「そこに山があるからだ」
と答えた。

「なるほど!」
とこの話を聞いた人はみんな納得する。マロリーという類い希な登山家だからこそ、この簡単な言葉に登山というものの本質を表現できたのだろう。

 ところで登山について、哲学者ニーチェは、
「登山の喜びは山頂を極めたときに頂点に達する。」
と言っている。これも的を得ているようで少し物足りない。

 我らが吉川英治は、
「登山の目標は山頂と決まっている。
しかし、人生の面白さはその山頂にはなく、かえって逆境の、山の中腹にある。」
と苦労人らしい表現である。

 登山を一つの人生と考えてみよう。

【設問】

頂上が目的なのか、
歩くのが目的なのか
そこに山があるからか?

山は高くなければ登山ではないか
山は高くなければ登山は満足できないか
山は「より」高くなければ満足できないか?

【回答】

頂上が目的ならニーチェ型だが喜びは一瞬である。あとは苦しいばかり。
歩くのが目的なら苦しさを楽しまなければならない。苦労人はこれでも良い。
そこに山があるから上るなら、それはそれで楽しい。「たかが山、されど山、たかが人生、されど人生」である。

山は高くなければ登山ではなければエベレスト以外は登山ではない。
山は高くなければ満足できなければエベレスト以外は満足できない。
山はより高ければ満足を与えるのなら、エベレストで良いが、エベレストはたった9000メートルで、ずいぶん低い。

アメリカの大富豪・カーネギーは格言集で有名だが、人間が気になるのはすべて相対的なことであるという意味のことを多く言っている。エベレストに登って偉いというのは相対的に高いだけで地球の大きさから見れば地に這っているような高さだ。

私は、やはりマロリー派だ。
「なぜ、人生を生きるのだ?」
「そこに、人生があるから」・・・たかが人生、されど人生・・・

Dedication!
たかが人生の中心となる言葉である。

私のこの信念をセコンドしてもらうために、カーネギーにもう一度登場してもらう。
「幸福になりたければ、やれ恩を返せだの恩知らずだのと言わないで、人に尽くす喜びだけを生き甲斐にしようではないか。」