学問に対する私の考え方


 科学は無限に発達し、学問は人類に大きな貢献をすると考えられています。私も、人生の大半を学問に捧げてきました。

 私はその「学問」について、次のように考えています。

 まず、「学問そのもの」についてですが、一般に学問は新しいものを生み出すと考えられていますが、学問が新しいものを自ら発見したということは歴史的にまれです。むしろ、学問はそれまでに判ったもの整理し、筋道を立てて考える"よすが"を与えてくれますが、新しいことを生み出すのは苦手だと感じています。

 その理由は次のように考えられます。

 学問は基本的には体験ではなく頭脳で考えるものです。我々の頭脳は情報を処理する新しいアルゴリズムを作り出すことはできますが、推論過程はそれまですでに経験的に知覚しているものから生み出されるものに過ぎないようです。ですから、現在、すでにインプットされている知識などから推論するということは、創造的にはならないということです。新しいことは何かを実施することによって偶然に発見されることであり、その発見に学問が手助けすることは可能ですが、主人公になることはない。

 次に「人間と学問」ということですが、学問は本来、人間の社会に貢献するものではなく、知的欲求を実現するものですが、時代とともに、法学、経済学、農学、医学、工学などの実学が誕生してきました。そこで、社会と学問との関係が生じ、たとえば、工学は「自然の原理を応用して社会の福利に貢献する」という目的を持つようになりました。そうすると、工学を行うときにはなにが「社会の福利か?」が判っていることが前提になります。それがとても難しいことを私は指摘したいのです。なぜなら、「善いこと」というのは人によって違うからです。

 むしろ、学問を学ぶものとして大切な心構えは、「学問を学ぶとともに自己防御が強くなる」ということと思います。私の経験では、学問を積んでその人が良い人になることはほとんどありません。多くの人は学問を学ぶことによって自分を守ること、他人を攻撃することを覚え、それで人生を送ります。だから、私は工学の教育そのものに大きな疑問を持っています。

 それを自ら戒めるために、私は次の写真をいつも学生に示します。長崎の原爆で両親を失い、最期の肉親だった弟が死んで、共同墓地に埋葬に来た凛々しい少年と、原爆の父オッペンハイマーです。どちらが尊敬できる人間でしょうか?


 もちろん、オッペンハイマーは世界的な物理学者で原子爆弾の父。人格も高潔で指導力もありました。また原子爆弾が現実に投下された後、その反省から神経を病んだと言われています。少年はおそらくあまり知識も無いことでしょう。この少年がその後、立派な人物になったかどうかは不明です。しかし、共同墓地の端にたたずむこの少年は明らかに立派な人間です。もしこの少年が勉強してオッペンハイマーと同じような力をつけ、原子爆弾よりもっと破壊力のある兵器を作り出したとしたら、この少年は勉学によって総合的には「悪くなった」と言いうるでしょう。

 知識を積むことによって私たちが獲得する力に相当する人格をつけることは本当に難しいことで、それを考えると大学教育ではその半分以上を「人」「自然」などに費やすのが正しいと私は思っています。