幻想の意義


 柔道の世界選手権に優勝することは素晴らしいことだ。私はテレビをみて感激するし、勝った人に心から賛辞を送りたい。でも、柔道は相手を投げ飛ばすことをもってその目的とする。相手を投げ飛ばすことになにか意味があるのだろうか?確かに、護身用にある程度の柔道の素養は必要かも知れないが、あれほどの訓練をする理由にはならない。護身用の訓練としては世界選手権は行きすぎだ。

 それでも、なぜ、世界選手権に出場する選手はあれほど熱心にその人生を掛けるのだろうか?そして私はなぜ、これほどまでに世界選手権で優勝した日本人に感激するのだろうか?

 それは・・・・

 柔道は柔道自身で価値があり、プロ野球はプロ野球そのもので価値があるからだろう。

 「たかが野球、されど野球」

という名言は人間の本質と人間が作る社会の真実をついている。衣食住が足りて、生物としての一生を無事に終えることは議論の余地なく大切であると感じられるが、それ以上の行為はすべて発達しすぎた人間の頭脳を満足させるための幻想だろう。

 現在、日本は日本人の基礎代謝と基礎的に必要な物質の10倍以上の物質を使っている。残りの90%以上は精神的満足を得るための物質だ。テレビも本も、グルメも、大吟醸もみんな生存には関係ない。そしてテレビはほとんど物質として働き、精神的な充実感は与えない。

 もし、精神的な満足を現在の日本人のように物質に求めなければ、物質消費量は10分の1程度になるのは間違いないのだ。

 私はいま、材料工学を専攻している。かつて生存に必要なものを提供していたころの材料工学には大きな意義があっただろうが、すでにものがあふれている現状では、材料工学という「幻想」が意義のあるものとは思えない。もし、柔道の世界選手権を前に柔道に意義を感じなくなった選手がいたとする。その選手はついこの前まで懸命に練習し、世界選手権で優勝するのが自分の人生にとってとても大切と信じていたとする。その彼が試合を前にして「相手を投げることに何か意味があるのか?私はやりすぎではないか?」と疑問を感じたとする。それに全力を費やすことは可能だろうか?

 矛盾は強く私の心を束縛する。

 幻想は頭脳の発達した人間にとって無くてはならないものだが、それ自体で価値があると本人が錯覚できるものでなければならない。