新しい工学


 われわれの工学に将来の道はあるだろうか。少なくともわれわれがかつて生きてきたような美しい自然、豊富な作物、きれいな海、ゆったりとした生活リズム、そうした真に人間らしい環境のもとで過ごす機会が与えられるであろうか。それを工学という面からどのように進化しようとしているのだろうか。

 工学の権威は「政治家や経済学者が様々なことをしても、本当には我々の生活はちっとも変化しない。自動車社会もできなければ電話一本も引くことができない。それができるのは工学である。この世の中は実は工学が決定しているのであって、その他の学問はほとんど関係ない」と高らかに宣言している。ここまで言われると少し鼻白んでしまうが、確かに工学が社会に及ぼす影響は大きい。医学は工学の中に含まれないが、実際に社会に適応される学問という意味では工学と医学といっても良い。特に最近のように遺伝子工学などの学問が展開すると医学と工学の境界はすでに無くなっているとも言える。

 医学を含む工学がそれほどの影響力を持つとすると、工学という視点から今後の社会を考えることは大変重要になるのである。確かに資源問題、環境問題などの現代の社会問題のほとんどが工学に関係し、工学によって解決を迫られていることも確かである。もし工学がこの文明社会の問題を解決できなければ、我々は原始社会に戻らなければならず、それは貧困と不衛生、短寿命という人生を送ることになるのである。牧歌的な情況を目に浮かべることはできるが、その後ろに悲惨な生活が潜んでいることを忘れてはならない。

 それでは工学はその答えを持っているのだろうか。

 まず、一例として自動車をあげる。自動車は20世紀の初頭に発明され、瞬く間に産業の重要な地位を占めた。人間の生活の中で「移動」ということは非常に重要であり、それによって雨の降る寒い夜でも病院に駆けつけることができ、遠くにいる友達に家族で会いに行くこともできる。あるいは親しいもの同士でドライブを楽しむこともできるのである。自動車の発達ははっきりと人類に幸福を与えた。しかし、今や「ノーカーデー」が叫ばれ、交通事故で1万人を越す人が死ぬ。ある意味では自動車は人類の敵ですらある。なぜこの様に自動車は変貌したのであろうか。

 自動車が発明されると、体の弱い人でも遠くにいける。冬の寒い朝でも移動することができる。大変結構なことである。体の強い人だけが外にでる権利を持っているわけではない。しかし、自動車があまりに便利であるために、みんなが自動車を使い、街に自動車があふれる。最初は「交通渋滞」「自動車公害」という形で現れてきた。しかし、それは単に初期の社会的現象でしかすぎなかった。

 やがて、大量の自動車はその排気ガスで大気を汚し、ガソリンを大量に使用して石油の枯渇に手を貸すようになる。鉄の箱と言われるように鉄は大量に使用され、使い古された自動車は道ばたにうずたかく積まれる。交通事故は相変わらず減少せず、有害化学物質やエイズなどによって無くなる人の数とは比較にならないほどの人が死んでいく。

 社会はその解決方法として、「ノーカーデー」を設け、「交通遺児資金」設定し、あるいはリサイクル、環境に優しい車、電気自動車へと走る。車のリサイクルにはリサイクルの大きな問題がある。リサイクルはその材料のみを再利用させることができるが、その再利用には多くの移動、エネルギー、再生用の材料を必要とし、必ずしも環境にプラスになるとは限らない。ある意味では環境に優しい車などあり得ない。車は全て環境には悪いが、それを少し少なくすることはできる。もっとも環境に良いのはできるだけ自動車を使用しないことであり、同じ自動車を繰り返し長く使用することである。電気自動車はさらに理屈は合っていない。石油から電気を作るときのエネルギー効率はおおよそ33%であり、電気自動車が効率が良くてもせいぜい25%程度の走行効率しか持たない。石油から電気にするときに3分の1、走るときに4分の1だけしか有効に使用できないので、電気自動車のエネルギー総合効率は12分の1になり、普通のガソリン自動車より悪い。ただ、「見えないところで環境を汚しても良い」という見方なら賛成できる。

 次に電話の例を挙げてみよう。


 電話は大変便利なものである。少し前までは電話は珍しいもので、お金持ちの家にしか電話がなかった。そのため、急に人のうちに言ってもその人がいないことが多かった。「そうですか、ご主人はご不在ですか。それでは、また」という訳である。電話ができると相手のいるときに出かけられるし、遠くに離れている家族ともいつでも話すことができる。

 しかし、電話が全世界に普及し多くの人が電話を使用し始めると、電話に使用する電線に使用する銅が大量に必要になる。銅は電話線よりも電力に使用する銅の方が多いが、それも同様な議論を展開できる。銅の使用量が増大すれば、銅鉱山から多くの銅を掘らなければならない。すでに日本の銅は少ないので、南米や東南アジアの銅を掘ってそれを使用する。昔は地表地核の酸化銅が使用されていたが、最近では地表のほとんどの銅は堀尽くされ、地球深く眠る硫化銅(硫黄を含む銅)を採掘するする。そうすると銅と一緒に大量のイオウが噴出し、銅鉱山の周りは死の山になる。しかしここでも「自分の目に触れないものはないも同然」という論理が働いてあまり問題にはならない。

 結局、自動車の場合と同じように、銅をリサイクルして回収しようと言うことになる。リサイクルは先ほど述べたように最終的手段であり、リサイクルのよっては環境は原則として改善されない。リサイクルという考え方自体は環境を悪くするものではないが、リサイクルは資源的に有効なのであって、リサイクルで環境を良くできる可能性は極めて少ない。

 自動車も電話も便利なもので、それこそ工学の成果であるのに、それが使用できないとはどういうわけであろうか。それを工学は解決できないのか。

 電話は簡単な解決策がある。それは「携帯電話」である。携帯電話ほど環境に優しい製品は最近には見られないほどである。携帯電話は小さな電話機で受信、発信ができ、おまけに銅線が不要である。銅線が不要であると言うことは、銅の使用量が減少するばかりでなく、電話線をたてる電柱や電話線を保守する労力もいらないことを意味している。


 遊牧民が電話をしている写真である。日本人の多くは遊牧民は電話をする権利を持っていないと思っている。それは、もし遊牧民が日本人と同じ程度に電話の恩恵を受けようとすると、銅の資源はたちまち底をつき、日本人は電話ができなくなるからである。この意味で、携帯電話は新しい工学の行く末を見ることができる現実的工学の成果と言えよう。さらに、携帯電話は進化し、電話機時代はさらに小さく使いやすくなり、いやな人からかかってきたら、なるべく「居留守」を使ってくれるようになるだろう。

 今や宇宙ステーションは現実のものとなり、多くの役割が期待されている。もちろん衛星放送や気象観測などにはその力を十分に発揮するだろうが、いま、「位置決め」として使用される「ナビゲーション」技術もこれからの工学として期待される。例えば、人工衛星からの位置決めで自動車の行く先を教えるシステムがナビゲーションの応用として用いられているが、これはあまり本当の応用とは言えない。自動車の位置を教えるのではなく、宇宙ステーションで強い太陽光で発電された電気をマイクロウェーブ送電して自動車に送ればよい。そうすると、自動車は燃料を積まなくても走ることができる。ガソリンを使用しないので、これはある程度「環境に優しい」と言うことができよう。


 マイクロウェーブ送電によるエネルギー供給は自動車ばかりでなく、航空機やビルなどへのエネルギーの供給にも使用できる。太陽エネルギーの利用形態としてはかなり優れたものであろう。

 しかし、工学があまり効率を重視する方向に行くべきでないとすると、むしろより人道的目的のためにナビゲーションシステムを応用することを考えた方がよい。その一例が目の不自由な人のナビゲーションシステムである。現在ではまだ、大きなリュックサックを背負って人工衛星からの電波を受け、自分が歩いているところを決める状態であるが、そのうちには受信機も小さくなり、街全体が目の不自由な人のための構造になれば、まるで目が見えるように自由に活動する空間を提供できるかもしれない。


 我々は今、間違った感覚の中にいるから、遊び半分の若者が使うナビゲーションを一生懸命開発している。「それが売れるからだ」という理由であるが、ナビゲーションシステムを目の不自由な人が使えるようにすることを最初に手がけること、これが「工学ルネッサンス」すなわち新しい工学なのである。

 電車の走行においてもこれからの工学の取り組みはずいぶん異なってくるだろう。今までの電車は快適に乗客を運ぶこと、早く走ることをまず第一に目的としていた。しかし、それも重要ではあるが、電車に使用する電力自体を回収し、電力を使用しない電車の開発が工学の主力目的となろう。すでに、「回生電車」と呼ばれるものがあり、75%程度の電力を架線に返すことができる。これは加速の時には架線から電気の供給を受けてモーターを回し、平坦な線路を走るときには慣性力を使用し、減速するときには減速するエネルギーをモーターから架線に返す方法である。

 「資源を無駄使いしたらダメ!」「電気をまめに消して!」という倹約型社会も適当である。しかし、工学はそれ以外のもっと効果的なことができる。それは銅線を使用しないで通話できる電話、ガソリンを使用しない自動車、そして、電気を回収しながら走る電車等である。

 それより強力な工学もある。その一つが通信革命と言われる通信の発達である。この革命は人間の頭脳を最終的に追放するほどの力を持つが、それを有効に使用することができる。通信を有効に使用すれば、ものの移動を極端に少なくすることができる。その一例として新聞を取り上げてみよう。

 新聞は新聞社で刷り上げられて、トラックで運ばれ、販売店で集荷されて、各戸に配られる。各戸に配る方式は日本に特有のものではあるが、これは極めて優れた方法で私たちは毎朝新聞を読むという楽しみを味わっている。新聞は読み終わると、紙の入れ物に入れられて捨てる。再生できるものもあるが、せいぜい段ボールに使用される程度である。紙のリサイクルはもっとも身近なリサイクルではあるが、本当は環境にあまり良くない例である。紙のリサイクルをやってはいけないと言うほどでは無いが、積極的に行うほどの意味はない。現在の日本では紙のリサイクルはむしろ紙の値段を下げ、紙の消費量を増大させる方向に進んでいる。

 それはともかく、もし、新聞が通信で毎日、各戸に背信されるようになると、我々は新聞社と通信を通じて購入契約をする。例えば朝日新聞の政治覧と、日本経済新聞の経済記事、そして報知新聞のスポーツ記事と言った具合に契約をする。そうすると毎朝、もっとも新しいニュースがディスプレイに飛びこんでくる。いくら読んでも紙は使わない。新聞紙を回収することに比較してそれはとても優れた方法である。

 この通信の効果は単に新聞紙が無くなるだけではない、新聞紙を作っている製紙会社がいらなくなる、製紙会社から新聞社に紙を送るトラックが不要になる、新聞社の印刷機もいらず、印刷工も失業する。新聞社から販売店へのトラックも無くなり、販売店、新聞配達も無くなる。失業は増えるが、ガソリン、トラック、トラックのタイヤ、トラックを運転する運転手の飲むペットボトルの飲み物、印刷のインク、製紙社が海に捨てるヘドロ、駅の新聞売りのスタンドまですっかり無くなる。そうすると資源やエネルギーはだいぶ使用しなくなるし、その上、新聞を読む、という楽しみ自体は減らない。

 我々の研究室ではすでに紙を使わないシステムに変わっている。相互の連絡は研究室の中の電子メールが使用されている。ほかの大学などとの連絡もそうであるし、学生のレポートもメールで教授とやりとりされる。そこには全く「紙」というものが存在しない。毎朝、9時から行われる研究会はコンピューターに入っているデータをプロジェクターで投影したスクリーンを見ながら進む。

 楽しみ自体を減らさないで環境に適合する、これが工学である。

 通信はその他にも様々な分野で社会の構造を変革していく。例えば通信販売においても、単にあつい紙に印刷した通信販売の本が配られる現在の方法ではなく、自分の姿をコンピューターに入れておき、通信販売の画面にでてくる服を指定すると、自分がその服を着て街を歩いている姿が写るようになる。そうなるとその服が本当に自分に合うかどうかわかるというものである。


 一方、考え方を変えて新しい工学の未知を探ろうという試みもある。その一つの例がクーラーである。今や夏の暑いときにはクーラーをしようする以外にはないほど、クーラーは普通のものになった。しかし、我々の子供の頃はクーラーは別に必需品ではなかったり、現在でも昼間クーラーに入っていると、体調を崩したり、夜寝れなくなったりして決して良いものではない。これまでの工学はそれでもクーラーを使用する方向に進み、その効率を上げるのに苦労している。

 クーラーを発達させ、乳幼児を無菌室で育てるようになると、次第次第に人間が肉体的に許容できる幅が小さくなる。昔の人が15℃から28℃までを快適に感じていたとしたら、現代は18℃から25℃程度に快適に感じる幅が小さくなっているであろう。そして、小さい頃からクーラーの効く部屋で育った子供は、快適な温度幅がさらに小さくなるに相違ない。そうなると、ますますクーラーの効率を上げ、その部屋全体が均一な温度になる様な研究が盛んになるだろう。今でも、部屋の中を均一な温度にしようと一所懸命努力している技術者がいるのである。


 しかし、人間本来の体は幼児の時に適切な負荷がかかると、その負荷によって体のシステムが決まり、少しの変動はむしろ快適に感じるようになる。我々は快適に過ごすのが目的であって、均一な温度の部屋に閉じこもっているのが良いのではない。


 新しい工学とはリサイクルとは直接的な関係はない。ある意味では倹約とも無縁である。効率や能率、従来からの意味での快適さというのは考え直す必要があり、そしてそれらを可能にするものである。