卒業論文とは何か?



 卒業論文の時期がやってきました。日本の多くの学生が「自分の初めての作品を、どのように作ろうか?」と考えていると思います。また、11月頃まですっかりサボっていて大慌てで実験をしている学生もいるでしょう。

 このような時期に「一体、卒業論文とはなにか?」について整理をしてみました。まず、「論文」には著作権があることから始めたいと思います。

 大学3年生までは講義を受け、レポートや試験問題を解く生活をしてきた学生がほとんどでしょう。そのレポートや試験問題には「正解」があり、正しく解答すれば満点がもらえます。また「カンニング」という言葉があるように人と同じ内容のレポートや解答を提出しても、「正しければ満点」となります。

 ところが卒業論文には「正解」がありません。なぜ、正解がないかというと、著作権があることと同一の内容を持っています。卒業論文はそれを書く学生の創作物でなければならないからです。創作物であるから著作権もあり、創作物であるからこの世に一つしかないという事になります。

 創作物を著述するには準備がいります。これまではレポートを提出する前日に大慌てで取りかかり、インターネットで調べて(自己満足に陥るためには徹夜も良い方法になるが)、それを適当にまとめれば良いのですが、創作物は自分の中で暫く暖め、それを咀嚼して心の中から出てこなければ書けません。参考書を横目で見ながら書くと、それは自分の文章にならないからです。

 それではなぜ、日本では学生の卒業研究にその人一人だけの論文を求めるのでしょうか?それにはヨーロッパで始まった大学の歴史を紐解かなければなりませんが、簡単に言うと「人に言われてやる仕事ではなく、自ら計画し、自ら回答を出し、自ら整理する初めての経験」を大学の最終年度で行う意義が高いからです。

 世の中の仕事には2種類あります。

 第一に人の指示に従って手間賃を頂く仕事。
 第二に自分が考えて創造的にやる仕事。

 どちらの仕事が優れているかは判りません。価値判断は難しいのですが、大学を卒業した人材には社会は創造的な仕事を期待します。特に国立大学では多くの税金を投じて、大学生が支払う授業料の6倍程度の費用をかけて、将来社会の役に立つ人材を育成するのです。国立大学を選ぶというのは国立大学の偏差値が高いとか、授業料が安いなどの理由ではなく、将来、社会に役立ちたいから大学時代に税金を頂くという決意なのです(脚注1)。

 私は私立大学でも教鞭を執っていましたが、私立大学でもかなりの補助金を受け取り、さらに多くのことに無税措置を受けているので、やはり私立大学生も卒業したら社会に貢献することが期待されています。

 その貢献とは人に指示されて手間賃を頂くのではなく、自ら創造的な仕事をして社会に大きく貢献することを意味しています。そこで、春、卒業研究をするために配属された研究室で教授とじっくり1年間の研究計画を練ります。もちろん、まだ知られていないことを研究するのですから教授も最終的な状態は判りません。学生と話し合いながら成功の可能性が高く、1年間で整理しやすいテーマを選択します。

 学生は卒業研究の計画ができたら、それに沿って勉強し、研究をしていきますが、何しろ人生で初めて人に言われないで「自分の仕事」をするのですから、うまく行くことは希で失敗の連続となるはずです。しかし学生自身が考えることですから、それほど苦痛は無いはずです。この社会の中で仕事をする上で、自分自身の判断と意志で作業をするほど心理的な負担が少ないことはありません(脚注2:反論あり)。サラリーマンになったら給与や上司のことを考えて仕事をすることになるのですが、大学から社会に出る学生は人生で最後の、「真に自分自身の意志でやる仕事」を試みることになるのです。

 さて、著作権のある創造的な研究とはどういう内容でしょう?

 まず実験や調査をする人は比較的、卒論を仕上げるのは容易です。それは実験や調査は「自分だけのデータ」が得られやすいからです。もっとも典型的な例が「アンケート」です。何かのイベントをやっている会場に行き、大学生だからアンケートに答えてくださいというと大抵の人が協力してくれる。それをパソコンに入力し数値処理すればかなりの論文になる。確かにオリジナリティーはあるし、内容も面白いから論文にはなるが、学生のプライドが許さないだろう(脚注3)。

 人生、イージーに生きて生きることが出来ない訳ではない。それならそれでもっと最初からイージーに生きれば良く、受験勉強などで高校時代の大切な時期を灰色で過ごさなくても良い(脚注4:反論あり)。受験勉強がわるいということはないが、自分の意志で勉強ができる卒業研究と大学受験勉強ではやはりその人の人生に与える影響が違う。

 卒業研究は自分の中から創造的なものが出てくるまで苦しむ方が良い。苦しまなければ本当の意味の創造物は出てこない。トルストイでもベートーベンでも創造物を出すのは苦しみを伴う。でも、高い山の頂上にヘリコプターで行くのと、重たいリュックを背負って行くのでは頂上に立ったときの景色の美しさが違う。苦労した者の特権として美しい景色と心の底からの感激を味わうことができるのだ。

 実験を中心として卒業研究をする場合に、最も注意しなければならないことは、「実験には失敗がつきものである」ということである。これまでの学生実験というのはすでに多くの人が実施していて、おまけに「学生はここが間違いやすい」という事も判っており、かつ先生は面倒だからあまりトラブルになるような実験を避ける。その結果、実験はやればある程度の結果が出ると思っている学生すらいる。ところが卒業研究の実験ははじめてやる実験だから失敗だらけである。

 現在の日本の研究室では、先生は教えたくないし、学生は簡単に卒業研究を済ませたいということで過去の先輩の研究と同じ研究をし、酷い場合は先輩の卒業論文の一部を移して論文にするところもある。これは盗作であり、そのような論文を認める先生は教師としての資質がないから、すぐ大学を辞めなければならない。論文はあくまでもオリジナリティーが一番重要である。

 私は自分の研究室の学生に、あまり高いレベルは求めず、とにかく「創作物」を求める。それが創作物であれば私は認めるし、新しいものを含んでいなければ卒業論文として認めない。きわめて簡単な判断基準であるが、一年かけて、自分の人生に誇ることが出来るような創作物を作ることはそれほど簡単ではない。

 頑張ってください。期待しています!!


● 今年、卒業研究に携わっている学生とのディスカッションを以下に収録しました。さまざまな点がより立体的になって理解が深まると思います。

(脚注1) このところについて私の研究室の学生が次のようなコメントを寄せてくれました。「このような決意で大学に国立大学で入学した学生は少ないかと思われます。大学に入学する目的としては自分中心のことであることが多く、社会に貢献しようというほど強い意志を持った学生は残念ながら少数であるかと思います。こういう意識は大学での勉強のモチベーションをあげるためには持つべきものであると考えられるため、大学受験をする前に高校の進路指導の先生方からこのような話を聞かせていただけるようになれば、学生の勉強に対する意識というのも今より向上するのかもしれません。」

(脚注2) これも学生のコメントです。
「すべての人が「自分自身の判断と意思で作業をする」ことが楽であると感じるとは限らないと思います。他の人の意見に従い、仕事をこなしていったほうが楽だと感じることも多くあると考えられます。社会は自分自身の判断と意思ですることに「責任」を求めます。「自由」には「責任」が伴うものだということになります。その「責任」というのは心理的負担が重くなる原因となると考えられます。ただし社会がその行為に責任を求めない場合、またその人が「責任」を感じない場合は何事も自由に行うことができるので苦痛は感じないと思います。」
・ ・・(著者)確かにもっともな考えで、他人が決めてくれた仕事の方が気が楽という人の場合も多いと思います。

(脚注3)学生のコメント
なぜ、「学生のプライドが許さないのか」を付け足して書かれたほうがいいかと思います。学生の中にはそれで十分だと満足してしまう人もいると思います。そういうひとにとっては理解しにくい部分であると思います。・・・大学を出る、学歴・・・というものは何か?著者は、大学に行くか行かないかは、生活の糧を得るものでも、まして人の上に立って威張るものでもなく、その人の人生設計によって決めるという先入観がある。だから、学生には大学に行くという時点である目標があり、単にアンケートを整理する程度では、何のために青春を大学で過ごしたのかという疑問が湧いてくるだろうと思っていた。しかし、このコメントを寄せてくれた学生は、より現実的である。

(脚注4)反論
受験勉強をしている時間が「灰色」であるかどうかはその人の考え方によると思います。勉強している時間を非常に有意義に感じている人、目標に向かい努力していてその自分に満足している人はその時間を「灰色」には感じないと思います。