火事を消さない消防士
ヒューストン空港から30分程度、ダウンタウンを過ぎてビル街に差し掛かったところのヒルトンホテルに宿泊した時だった。その日はヒルトンのエンジニアリング会社に勤務している友人に会って湖畔のレストランで食事をしてホテルに帰り、ベッドでうとうととしている間にすっかり寝込んでしまっていた。
夜中の3時頃だった。突然、けたたましいベルが鳴り、飛び起きてみると火災警報だ。寝ぼけて必死になって頭を捻ると、どうもここはアメリカのヒルトンだと思い出す。・・・エート、エート、階は何階??あっ、最上階だ!!・・・慌ててカーテンを開け窓から下を見ると真っ赤なランプを点灯させた消防自動車がすでにホテルを取り囲んでいるではないか!!
「こ、これが火事なんだっ!」
私の人生で初めての経験だった。
大急ぎで服をはおり、現金とパスポートを握って廊下に飛び出す。廊下を走ってエレベーターのところに行くともちろん、エレベーターは動かない。人もいない!!非常階段を捜して必死にドアーをめがけて走り、やっとの思いで高いビルの外についている鉄製の階段を下り始める。
と、その時、下の方からドンドンと音を立てて消防士が駆け上がってくる。
「どこだっ!どこだっ!」
と英語で怒鳴っていた。(英語は思い出せないが)
「24階から来た。火も煙もなかったっ!」
と叫ぶ
そして私は下へと階段を降りようとして、足が動かなくなった。
私と最初に出会ったアメリカの消防士は重そうな銀色の消防服で全身を包み、脚には長くてごついブーツをつけていた。そして地上からその重装備で駆け上がってきたのでハーハーと激しい息づかいをしている。私はドンドン下から上がってくる消防士をボンヤリと見つめていた・・・
その時、私は46歳だったと思う。仕事も生活も油が乗り切っていてこうして海外に一人で来ている。でも私は46歳だ。それに較べて、今、私とすれ違って上に昇っていく消防士はどう見ても20代から30代の前半だ。年配の消防士も1,2名はいたが、その人達も私より若く見えた。
・ ・・若いのに危険な方に走っていく・・・私の方が年が上なのに・・・
そう思うと最初に出会った若くて背の高さが180センチもあろうか、体重も90キロはあるだろう、あの若者の顔が目に浮かんで、階段を下りることができなくなった。「私が下に降りて、私より若い消防士が上に行くことはない。私が上に昇って火を消そう」・・・そう思って、降りてきた階段を引き返して、上に向かった。
もちろん、すぐ私は消防士にたしなめられて、また再び階段を下りることになる。そして火事は誤報だった。
数年前の9.11の時に私はこのことを思い出した。多くの消防士があの事件の犠牲になったことを知ったとき、私は、可愛そうだけれど、そうだろうなと思った。9.11でもヒューストンでも消防士は危険とは無関係にビルに昇っていくに違いないからである。
昭和41年、その年は不思議に航空機事故が多発した年だった。事故というものは連続するものだ。本当は続いてはいないが、続くとニュース性が上がるので報道されるだけだとの説もあるが、やはり事故は続くものだと思う。昭和41年2月4日、全日空B-727 千歳発東京行。東京湾に墜落、全員死亡133名。3月4日、カナダ太平洋航空DC-8 香港発東京経由バンクーバー行。東京国際空港滑走路手前の岸壁に衝突。死亡64名。翌日の3月5日、英国海外航空(BOAC)B-707 サンフランシスコ発東京経由香港行。富士山南南東2合目付近に墜落。全員死亡124名。11月13日、全日空YS-11 大阪発松山行。松山空港で着陸に失敗。全員死亡50名。
そして、昭和47年は日本航空の事故が頻発した年だった。5月15日、日本航空DC-8-61。東京国際空港事故(乗客15名,乗員1名負傷)。6月14日、日本航空DC-8-53。インド・ニューデリー事故(乗客75名,乗員11名死亡,乗客3名負傷)。9月24日、日本航空DC-8-53。インド・ボンベイ事故(乗客8名,乗員2名負傷)。11月29日、日本航空DC-8-62。モスクワ事故(乗客53名,乗員9名死亡,乗客9名,乗員5名負傷)。
日本航空と言えば世界でも安全運行では指折りで日本国内でも信頼は厚かった。それだけに1年に4回という事故で日本航空は大きなダメージを受けた。モスクワの事故で負傷して生き残った日航のスチュアーデスが手記を書いている。
「気がつくと機内はもうもうたる煙でした。それが晴れてくると目の前で大勢のお客さんが、苦しんでおられます。ああ、申し訳ないことをした・・・私は必死で救助をしようと立ち上がりました。」
この手記を読んで私は驚き、そして職業というものはかくのごときものであると納得した。
日航のスチュアーデスは女性で、たぶん年齢も20代か30代だろう。普通なら事件や事故があれば真っ先に逃げるか助けてもらう方に所属している人に違いない。その、同じ人が墜落した機内の乗客を見て「申し訳ない」と思い、自分の怪我も忘れて救助に立ち上がろうとするのだ。なんと言うことだろうか!仕事だから人間の体が突然、強くなることはない。一般的には航空機事故では乗客より乗員の方が死亡率が高い。着陸中に立っていたり、簡単な椅子が用意されているからだ。
この女性もそうだっただろう。62名が死亡し、負傷14名という事故だ。体の衝撃はかなりのものだったに違いない。それでも職業意識というものは人間を強くするものだ。
消防士は火事があればできるだけ早く駆けつけ、我が身を顧みずに火を消し、取り残された人を救助しようとする。警察官は強盗を発見すれば直ちに追いかけ、相手が刃物を持っていてもそれに向かって怯むことはない。ヒルトンの火災と同じであるが、強盗に襲われた人は逃げ、警察官は向かっていく。それが職務といえばそれだけだが、もちろん警察官も襲われた人も人間だ。だれでも危険には向かいたくない。
消防士や警察官と較べると研究職はのんびりしたものだ。突然、火事が起こることもないし、危険を顧みずに刃物をもって暴れる人を取り押さえる必要もない。むしろ、そんなことが起これば我先に逃げても社会はひ弱な研究職だからと言って許してくれる。
私が会社で仕事をしていた時、それは年末の事だった。普段、製造係と一緒に化学の原材料を貯蔵していた大きな冷凍室・・・その大きさは8畳ぐらいだったが・・・の掃除をすることになった。まだ若く張り切っていた私に製造課長がこう言ってきた。
「武田君、悪いが、冷凍庫の掃除は研究の方でやってくれないか。製造は明日の出荷分で忙しいものだから・・・」
私はカチンと来た。今だったら多少、大人の対応もできただろうが、その時、
「研究も忙しいんです。製造がやらないなら研究だけでやるわけにはいきません!」
その後、冷蔵庫の掃除をどうしたかについてはそれほどはっきりは覚えていないが、記憶によるとその製造課長は仕方ないということで製造係だけで簡単に掃除をしてくれたように覚えている。
研究はのんびりしているように見える。目の前の火事も階段もない、明日、出荷しなければならない製品もない。あるとすれば他社より一日も早く製品の改良を進めて特許を出さなければいけないということだけだ。だから、今日やらなくても明日やればよいし、明日が来て気分が乗らなければあさってでも良い。毎日、毎日、引き延ばしても何も起こらない。長期的に新しい製品開発が遅れて徐々に徐々に会社の収益が悪くなるだけだ。それも私の勤務していた会社は2万人もいたので自分がその日、サボった影響はまったくでない。
私は研究会にサボって急に出てこない学生にこう言う。
「もし、山手線が止まっているとしよう。聞いてみると運転手が寝坊してまだ来ていないと言う。君は急いでいる。それでも君は平気でいられるか?怒るのではないか?なぜ、君は怒るのだろうか?それは山手線の運転手と君の間に暗黙の約束があるからだ。でも、山手線の運転手はキチンと仕事をしてもらわなければならないが、学生はサボっても良い・・・そんなことはあるのか?先生と学生の間、学生同士には約束はないのだろうか?」
私の話を聞いて、学生はもちろん、ポカンとしている。第一、山手線の運転手は給料をもらって働いているが僕は学生だ。第二に山手線は止まったらみんなが困るが、俺がサボっても研究会は困らない。先生は過剰に反応して言っているだけだ、と学生はただ「ハイ、ハイ、以後、気をつけます」と上の空で言っている。
私はこう思う。
人間は誰もが一生の間、決まった時間を過ごす。少し早めに人生を終わる人もいるし、あるいは100歳までの生を楽しむ人もいる。でもそれは神様がお決めになることで、どの人も健康で、長く人生の時間を楽しみたいと思っている。だから人生の時間とは、その人の職業がなんだとか、身分がなにとか言うことで変わるはずもない。火事に向かう消防士、強盗を捕まえる警察官、事故に遭ったスチュアーデス、製品の期限が近づいている製造課長、ボンヤリした目標と格闘する研究者、そして学生も。
学生はお金をもらっているのではなく、払っているのだから違う、という理屈は常に学生側から来る。でも、運転免許証をとるために学校に通っている人はどうだろうか?もし教習所で予約してお金を払い、行ってみるとその日は「休講」なんて言われたら、その人は怒らないだろうか?「お金を支払っているのに、何だ!」と苦情を言うのは間違いない。だから、払っている、もらっているということとも関係がない。
私は、もともとお金をもらう方と払う方に時間の使い方や態度に差があるとは思わない。タクシーに乗ってどこかに行くとする。タクシーの運転手はお金をもらう方で私は払う方だが、だからといってタクシーの運転手相手に威張るのはみっともない。運転手は仕事だが、私も目的地に連れて行ってもらうのだから、運転手に感謝をする。運転手はお金をもらって「ありがとう」と言い、私は目的地に連れて行ってもらって「ありがとう」という。お金は単にその場の処理の方法に過ぎない。
お金と人生の時間では価値の大きさが違う。
人間には本務というのがある。小学生は小学校を休まない。中学生は中学校を休まない。高等学校にいっても本来は休まない。職場もそうだ。人間は自らの本務に忠実であり、それを休むことはしない。だから大学を休む学生は学生ではないと思う。私はいつも休みがちの学生に「休学」を勧める。
最後に、悩める学生に君たちが学んでいる元となっている「教育基本法」を紹介しよう。教育の目的は人格を高めることにある。職業技能をつけるために大学は存在しない。
教育基本法第一条(教育の目的)
教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。