-本を読んだら理解できるか?-

 

 私が40代の時だった。私の後輩でなんとなく気が合う人がいた。その人は私より10歳も若かったし、まだ独身だったから私とはかなり違った人生を歩いていたと思うが、それでも何となく親しみが感じられる人物だった。

 その人は技術者で議論をしているとかなり優れたところもあるし、またプライドも高い。性格的には少し癖があって、誰とでも巧くやっていけると言うことでもなく、そして技術者にはありがちなことだが、何かに拘ると攻撃的になり、人を非難するようになる。

 彼は人柄がよいので、きっと少し時間が経つと「ああ、あんなこと言わなければ良かった」と反省することが多いのではないかと思っていた。かく言う私もその一人で、どうしても「事実」や「真実」、時には「正しいこと」に拘り、自分から見て正しくないことを発言したり行動したりする人を許せなくなるのである。

 しばらく彼とは仕事が離れ、ご無沙汰をしていたが、ある時にまた一緒に仕事をするようになった。彼も少し年をとって成長し、私も私なりに成長していた。簡単に言えば二人とも角が少し取れたと言っても良いだろう。

 新しい仕事が始まるとすぐ、彼は「お久しぶりです」と言って私のところにやってきた。私も懐かしく彼とお茶を飲みながら、しばらく離れていたときのことなどとりとめのないことを話していたが、突然彼が話題を変えた。

 「武田さん、一つ相談があるのですが・・・」
話し方顔つきから言ってまじめな話であることは容易に判ったし、何よりも彼がそのように切り出したので、私も少し緊張して相談に乗ることにした。

 「武田さんは、本を読んだらすぐ理解できるのでしょうね?」
最初に彼はそういった。相談が終わって思い出すと彼が切り出したこの質問がすべてだったのだが、もちろん私は全体像をつかんでいないので、その時はとりあえず質問に答えようと思った。

 私が技術者として人生で得たことのうち、後になってずいぶん良い勉強をさせてもらったと言うことが多い。技術者は自然を相手にするから、相手が人間と違って「説得」というのが効かない。自分がなんと思っても自然は自然の法則で動き、妥協してくれない。

 だから自分が何かを計画してもその通りになることは少なく、自然が「ダメ」と言えばそれで終わりである。そのような経験を日常的に積んでいたので、あまり最終的な結果を考えずに、その時その時でベストと考えられる方法をそのままやるという態度が身に付いてきた。

 彼の相談でも彼が何を相談したいのか、相談の内容にどのように答えれば彼の悩みが解消するのかなどは一切考えず、聞かれた質問に誠意を持って答えることだけをする、それが技術者生活から私が学んだことだった。

私「そんなことはないよ。本を読んでも普通は何が書いてあるか判らない」
彼「そんなことはないでしょう。武田さんは最優秀なのだから書いてあることは判ると思うのですが」
私「いや、私の場合だが、最初に読み始めるとおおよそどのようなことが書かれているかは確かに理解できるが、全体としてボーッとしていて実は理解できない」
彼「へーっ!そうなんですか!武田さんでも判らないのですか」
私「正直、そうだよ。でも、理解が出来ることはある」
彼「それはどんな時ですか?」
私「三つあるね。一つがその本の内容を人から聞くことだ。人間は目で読むより耳で聞く方が理解できるような気がするね。第二に繰り返し読むこと、そしてもっとも自分の身に付くのは、本に書いてあることを自分なりに書いてまとめるか、それとも計算問題なら計算をして納得したときだね。」
彼「へーっ!それじゃ、私と同じじゃないですか!!」

 最後のおどろきが彼の悩みだったのだ。彼は一流大学を卒業し、家族の期待、本人の希望の元に技術者として旅立った。その時、つまり大学院を卒業するときだが、彼は自分の力は自分で作ってきたと思っていた。生来、優れていた彼はおおよその本は読めば理解できたし、成績も卒業研究も順調だった。だから満々たる自信で技術者になったのだが、いざ独り立ちして新しい分野の本を読んでもさっぱり理解できないのだ。

 ある程度何が書いてあるかは判るが、もう一つしっくりこない、自分のものにならないのである。そうこうしているうちに年月が過ぎ、次々と未消化の本が自分の前を通り過ぎていく。あれほど自信のあった自分の頭脳も本すら理解できなかったのか、と悩みそれが研究意欲に影響を与え、私が再会したときにはいわばどん底にあったのだ。

 人から見れば贅沢な悩みと思うだろう。一流大学を出て技術者として恵まれたポジションにいる。新しい分野の本の内容が判らなくてもそれほど悩むこともない。でも本人は真剣なのだ。自分は優れている、人より優れているのだからと思ってこれまでも人を攻撃してきた。自分が正しいのだから、自分が間違っていると思う言動をする人は正さなければならないと思ってやってきたのだ。

 その自分がそこら辺で売っている技術の本を読んでも判らないなど彼のプライドが許さなかったのである。そうだ、武田さんが来られた。みんなが彼を優秀だと言っている。その人に自分の悩みを効いてもらい、何とか打開策を見いだしたいと彼は思っていたのだ。人間の悩みというのはその人本人にとってはみんな深刻で、他人にはばからしく思われるのが常である。彼もそれで簡単には話が出来なかったのである。

 いったい、人間は本を読んで理解できるものなのだろうか?理解するというのはどういうことだろうか?新しいことはそのものを手で触り経験しなければ人間の頭は理解しない。単に文字を見てもそれが自分の体験の中にあるなら理解できるが、体験の外の場合は理解できないのが普通である。人間の頭脳とはそのようにできていて、字を読んだら理解できるというのは錯覚に過ぎない。

 だから、体験学習というのがあり、実験があり、もっと基本的に言えば学校というのがある。もし人間が本だけを読めば理解できるのなら、先生が話し実験をする学校というのは不要になる。人間が理解するのにもっとも良い方法は経験することだが、経験は時間がいるし、時には経験できないこともある。それを補う方法が耳で聞くと言うことだ。

 私はそれから10年ほど経って、ある報道機関が主催する講演会で講演をした。その時の主催者は私がレジメを作るのをいやがった。レジメというのは講演の概要を紙に書いて聴衆に渡すものだが、講演会場に着くと彼はレジメを聴衆に渡していなかった。

 私はレジメのない講演をあまり経験したことがないので不安感の中で講演をしたが、その講演は大変に成功した。それはレジメ、つまり目で見るものがなかったが故に聴衆は私の言うことに耳を傾けたのだ。人間は耳から聞いたことの方が深く体にしみこむ。そしてそれは講演する人の魂が込められているほど奥に浸みる。

 彼が技術者としてつまずいたのは、大学にいるときに講義を受けていたからである。頭の良い彼にとって講義を受けるのはいささか苦痛だったに違いない。でも、彼が本を読みつまらないと思われる講義を聴くことによって彼は目と耳で理解をしていたのである。それが会社に入って目だけになって知識が形骸化したのである。

 つまり勉学とは次の順序を踏む。まず目で見てザッと何が書いてあるかを知る。そしてその事について人から話を聞く。出来ればその聞いたことを自分でまとめる。さらに出来ればそれを体験する。そうして人は身に付く。

 彼はその後成長した。その理由は二つある。一つは私のように「優れている」と言われている人でも本を読んでもさっぱり身に付かないという事実を知ったことだ、それは自信にもつながり、また技術者として成長するコツもつかんだからである。

 第二に彼は「自分は自分で生きよう」と思ったことだった。彼は自負心が強く個性も強かった。自分では自分の人生を自分で歩いてきたはずだったが、実はそうではなく、人と比較したり、自分が本を読んでも理解できないのに他人は理解できるのではないかと思ったりしながら生きてきたのである。それが自分が理解できることが自分に理解できることであり、自分が理解できないことは自分が理解できないことであると言うことが判ったからである。

 もちろん、その後の彼はまず幸福になった。なぜかというと心が平穏になったからであり、またそれが人との関係も改善した。活発だったが攻撃的というのが活発で謙虚になったのだから対人関係は改善される。

 このところ彼に会っていない。でもたぶんもう問題はないだろう。彼から「どうしてます?」という便りが待ち遠しい。

おわり