-問いと答え-

 

 その昔、お釈迦様は「人生とはいったい、なんだろう?なぜ、私はこれほど苦しいのだろう?」と悩み苦しんで修行をされていた。類い希な頭脳と高い人格、そして何不自由のない身分で生まれたのに、お釈迦様は苦しんだ。

 人間はいつも悩む。恵まれているから悩みが無いということはない。むしろ恵まれていると悩みも深い。そしてその苦しみの後に「悟り」を開かれた。今から2600年ほども前の事であった。

 人間がどんなにもがいてもお釈迦様の掌からも出ることができないという話があるように、お釈迦様の教えはそれはそれは広いので、ここでその全部を紹介することはできない。でも、この複雑な現代の日本という社会にもまれて苦しみ悩んでいる人たちにもお釈迦様は暖かい光を与えてくれる。だから、このシリーズではお釈迦様やイエス・キリストが私たちに示したことを少し紹介するようにしている。

 今回は、すこし理屈っぽいけれど、「悩み」は心から出ているのか、それとも「頭」からかということを最初に、そして「頭で考える」ということはどんなことなのか、という順序で筆を進めたい。

 悩んでいる時には「胸が苦しい」。頭は体の上にあって胸にはないし、心臓が激しく鼓動したり、胸が締め付けられるように苦しい。だから自分の苦しみは「心、胸」にあると感じる。でも、その心を支配しているのは頭だと近代科学は言う。胸が苦しい原因は頭にあり、頭でグルグル考えている内に胸が苦しくなるのである。

 だから胸が苦しい時には頭を治せばよいということになる。つまり悩みの原因は頭にあるのだから、それを退治すれば心は自然と楽になる。それでは人間の頭とはどういうものだろうか?

 人間には、物事を判断したり、考えたりすることのできる素晴らしい頭がある。この頭で私たちは毎日、自分の身の回りに起こることを観察し、考え、そして行動する。人間以外の動物はそれほど優れた頭を持っていないので、遺伝子の命ずるままに生活をしているが、それに比べると人間は頭を使えるだけ、幸福なはずである。

 でも「頭」はいつも自分の味方ではない。特に、夜の帳(とばり)が落ち、夕闇が迫ってくる頃には頭の働きは少しずつ調子が狂ってくる。夜更けになると暗闇の中で一人、床についている自分の周りを妄想が回り出すが、この妄想は最初は頭の中で回り出すのである。

 頭を回り出した妄想は、次第にその輪を拡げて自分の胸にまで広がってくる。憎らしいあの人の言ったことが耳につく・・・心配事が膨れあがり、今にも破裂しそうにまでなる・・・そうだ!明日の朝になったら、しなければならないことがある!と決意するのもいつも真夜中である。

 ・・・私は言われたとおりにしたのに・・・あの人はそれを知っているのに・・・あんな事を言って・・・きっと私になにかあるに違いない・・・頭というものは一つのことと一つのことを理屈でつなげながら、次々と論理を展開していく。だんだん、胸が苦しくなっていくのだが、よくよく考えてみると、一つ一つの「問い」と「答え」は理屈でつながっている。理屈でつながっているということは「頭で考えている」ということである。

 そして、ここが重要なポイントだが、人間は頭で考えることができるし、それは人間の重要な武器なのだが、そこに大きな落とし穴がある。

 実は、
「頭で考えたことは間違っている」
ということなのである。

 次のように考えてみよう。今から2200年前にギリシャのアテネにソクラテスという飛び抜けて頭の切れる哲学者が現れた。そのころのアテネは繁栄していて力も強かったので、市民と言われる特権階級は生きるために畑を耕したり、牛を殺したりはしなくて良かった。毎日、昼になると外に出てみんなで話し合ったり、食べ物を食べたりして楽しんでいた。つまり市民は有閑貴族だったのである。

 そんな生活だったから「いったい人生とはなんだろう?」ということを考えるのが流行になり、ソクラテス、プラトン、そしてアリストテレスといった後世で「哲学者」と呼ばれる人たちを生んだのである。ソクラテスが言ったことを書いた本を読むとこの人が素晴らしい頭の持ち主だったことがよくわかる。最後は裁判で死刑になるが、最後の最後まで清廉潔白、哲学者としての威厳をもって死に臨んだ。

 アリストテレスもずば抜けた人で今でもアリストテレスの著作は面白いし、価値がある。でも、それから2000年、人類はずっと「いったい人生とはなんだろう?」と考え、頭を巡らした。近代になってもカントやヘーゲルという巨大な哲学者が出て、それは20世紀でも変わらない。

 もしソクラテスの言ったことが正しければ、人生は既に解明されているのだから哲学という学問は無くなるはずである。でもソクラテスから2000年経ってもまだ哲学者がいるということは、ソクラテスが答えを間違い、プラトンもアリストテレスも、カントもヘーゲルも間違っているからに他ならない。

 このことは哲学でも科学でも同じで、いくらやっても正解に到達しないので、永遠に努力をしている。「少しずつ進歩をしている」という言い訳も怪しげで本当に進歩しているかもはっきりとはわからない。

 人間の頭で考えることは、一つの「問い」に対して一つの「答え」を出すが、その答えにまた問いが続く。なぜなら、最初の答えは間違っているので、それに対してまた答えが必要になるのである。

 お釈迦様はそれについて次のようにお答えになる。

「人間の知恵、それは本当に小さなもので、あまり役立つものではない。人間の頭で考えることはいつも真実に到着しないので、次へ次へと問題を先送りするようなものである」

 深夜、布団の上で妄想に悩まされ、苦しんでいるあなた。あなたはもしかすると「頭で考えている」ということはないだろうか?
・・・あの憎らしい彼はこういった・・・それは酷い!そんな酷いことを言う彼は人間じゃない!
・・・あのことさえなければ、私はこんなに苦しまなくても良かったのに!
いつも一つの問いに、理屈があっている一つの答えが準備され、それがグルグルと際限なく回る。正しい結論の無い論理展開はその人を混乱させ、不安に陥れる。

心の中からわき出してくる暗い闇は「感情」が動いているようにすら思える。でもそうではないのだ。人間の心は美しく、愛情に溢れ、決して人を憎くは思わない。他人が憎く思っているのは実は人の心ではなく、頭なのである。頭が理屈をこねる、そしてどう考えてもあの人が間違っているという結論に達する・・・それが心を動かすのだ。

復習すると、人間の頭で考えることは次のようでもある。
1) 正しいと考えることは間違っているので、永遠に考え続けなければならない。
2) いつも「新しい」ことを考えつく。それはその前に考えたことが間違っているからである。
3) 自分が正しいと思うことは自分が有利になることだから、相手は自分が考えていることを間違っていると思う。

 お釈迦様は2600年前に私たちに教えてくれた。人はいくら考えても頭で考えていれば必ず間違うし、際限がない。だから頭で考えるのを止めて、自分の頭が捕らわれていることから離れるのだ。もし、心が頭から離れて一切の煩わしいことが視界から消えれば、その瞬間にあなたは楽になる。

 それには頭に残っている憎しみだけを生み出す記憶を消し、憎しみを生む頭の回路を消し、少しの損得は気にせず、頭を空っぽにすれば悩みは無くなる。どんなに悩んでも頭で考える限りは繰り返しになって永遠に解決はしないのだから・・・

おわり