― 仮説と検証 ―

 

 科学が、「仮説を立てて、それを検証する」という手順で発展してきたことはよく知られている。自然科学系の学生や研究者にこのことを聞いたら10人が10人、知っていると言うだろう。

 しかし、普通の人がぼんやりと理解している「仮説と検証」という言葉の中には2つの重要な示唆が込められている。そして、はっきりとその意味を理解していない若手の研究者が時に、悩み、周囲の人とうまくいかなくなり、また論文が通らないと悩む。

 そこで、今回は「仮説と検証」という言葉の中に含まれている、「学問の内部矛盾」と「答えがない場合のアプローチ」について解説をしたいと思う。

 仮に、
1) 現在の人類はこれまでに確立した科学的事実を良く整理し知っている。
2) 研究者も科学的事実を良く整理し、且つ努力家でもある。
とする。それでも彼が「研究」を行うということは、次の二つのケースである。
1) 今まで、人類が調べていないこと、見ていないことをやる。
2) 既にある程度、わかっていることだが、疑いをもって検証する。

 ニュートンが科学の対象を「眼前に拡がる未知の海原」と表現したのは、1)のことであり、それは今から300年前である。それから250年間、膨大な努力の結果、現在では「日常的な現象で科学的な根拠をもって説明できないことはほとんどない」ということになった。

 眼前の広い海原は既に消え、私たちの前には岩陰のよどみしか残っていない。

 かつて、科学的根拠で説明できない現象が多かった。その場合は「神様、悪魔」に登場してもらわなければならない。たとえば、ニュートンが生まれてくる前は「なぜ、ものは落ちるの?」という問いに対して、「地中の悪魔が引っ張っているから」と答えた。

 またヨーロッパ中世のフランスで、若い修道院の僧侶が「太陽を観察したら黒い点が見える」と先輩に質問したところ、先輩は「アリストテレスの書物には太陽に黒い点があるとは書いていない。君の目に黒いシミがついているのだろう」と答えた。人間はともかく答えなければならない。

 今や、多くの疑問は科学的に説明できるようになった。そうなると現代の研究者の多くは、これまでに既に解明されたことの中に間違いがないかという仕事をしていることになる。

 でも、人間の頭は過去の事例、これまで「正しい」と考えられてきた科学的事実や理論を構築したものに拠って物事を判断し、新しいことを試みている。だから、もし「正しい」ということだけをやれば「新しいこと」をすることはできない。なぜなら、「新しいこと」は「間違ったこと」になるからである。

 このジレンマ、研究に内在する矛盾があることをまず、肝に銘じなければならない。それが第一である。自分はこれまでの学問を否定しようとしているのか、それともよどみを発見しようとしているのか、ということである。

 新しいこと、これまでの学問と反することを研究する一つの手法として、「仮説とその検証」という方法がある。ある研究対象に対して仮説を立てる。なぜそれが仮説かというと「これまでの学問に反するから」というのが正しい。もしもこれまでの学問によって判断できることなら、単なる確認に過ぎないからである。

 仮説は「これまでの学問では否定されるが、もしかすると」というのが仮説である。そして実験とか理論を立てる。何も仮説がないと作業がしにくい。

 ところが、研究の王道と思われる仮説とその検証という手法は、驚くべきことに多くの研究者や学生にとって苦手の一つである。研究の王道を嫌がるようでは研究者ではないと思われるだろうが、それには理由がある。

 「仮説」の多くは「現在の学問としてはおかしい」ということだから、良く勉強している若手の研究者や学生は納得することができない。それも勉強したばかりの時はなおさらダメである。なぜなら、昨日、一所懸命、勉強してやっと理解したことをすぐ否定するのは辛いからである。

 かくして、若手研究者や学生は仮説を立てるのが怖く、仮説の検証を嫌がる。多くの仮説はそれを検証する前には学問的に欠陥があるし、その多くは検証で否定される。従って仮説の検証は実のならない仕事だからである。でも、そこからしか新しい発見はない。

 ある程度、訓練された若手の研究者はこのレベルを超している人もいるが、学生などは仮説を立てるのではなく、直接的に「真実」に向かって突進する。学生の「真実」とは「自分が勉強した学問でわかっていることから組み立てられた真実」であり、学問的には「仮の真実」であることには気がつかないのである。

 そこで、研究に行き詰まっている若手の研究者や修士課程の学生にアドバイスをしたい。

 仮説を立てるのを恐れるな。そして仮説を検証する作業が無駄になることも嫌がるな。さっき、「研究者も科学的事実を良く整理し、且つ努力家でもある。」と書いたが、努力家というのはそういう意味である。多くは無駄になる作業に情熱を込めてやるのだから、よほどの努力家でなければできない。

 だから、自然科学を研究する者は努力家でなければならない。なぜなら、彼がする作業は「効率的」ではいけないからである。

おわり