動物と日本人

 この食のシリーズではさまざまな角度から食の安全を考えてきました。私の基本的な考え方は、「安全なものは安全、危険なものは危険」ということです。食のことですから十分に安全を考えなければなりませんが、それでも「常識」を働かせて、ある程度のところで妥協することも必要です。

 人生には「絶対に安全」などということは無く、そんなことを考えて不安におびえるとそれでかえってストレスが増え、病気になります。たとえば、1981年に発表されたシェケールらの研究によると「高いストレス群」と「低いストレス群」の2つの群に分けると、ストレスが高い群の人がガンに罹りやすいという結果が出ています。

 食の安全にはまず絶対に避けなければならないものを覚え、ストレスを無くし、美味しく食べ、楽しく生活することが第一であることが判ります。そしてさらにそれに「日本的」が付け加わると縛群です。そこで今回は日本人と動物の関係を少し整理しました。

日本の食文化には、まだ解明されない独特の習慣があります。その一つに、日本人は明治のはじめまで、「四つ足」と呼ばれた一群の動物を食べませんでした。この「四つ足」という表現は多少差別的な響きがあるので、現在ではあまり使われなくなりましたが、日本人の感性では決して悪い言葉ではありません。

源平合戦、一ノ谷の義経は、「馬も四つ足、鹿も四つ足」と言って崖の上から攻めようとする軍を励ましたと平家物語の鵯越(ひよどりごえ)にあります。普通に使われていた用語で、差別や蔑視の用語ではありません。最近、そのように言う人もいるらしいのですが、伝統的な文化は大切にすることが重要です。

「四つ足を食べない」と言っても、なぜブタを多く食べる中国が日本の隣にあり、多くの文化を中国から学んできたのに、四つ足と呼ばれる一群の動物を食べる習慣が育たなかったのでしょうか?

一般的には天武天皇の時に、僧侶の肉食禁止令、つまり宗教的な意味で四つ足の動物の肉を食べないようにというのが最初にあって、それが各地に伝わって、定着したようです。今でも正月のおせち料理に四つ足を入れないという習慣のある地方が多いのも、四つ足を食べることとが不吉な結果を招くと恐れられているからもあります。

民衆の伝承というものは、何らかの合理性を持っているものです。いくら天武天皇が一つの令を発したからといっても、肉が食料として必要であれば、次第に定着してきたに相違ありません。そして日本人はチャッカリしたところもあるので、もし四つ足を本当に食べたければ、何とか屁理屈をつけたでしょう。

そして、仏教は中国から伝来しているので、宗教的に厳しい制限があったわけでもないのです。長い時間の中で淘汰された伝承情報と習慣は何らかの積極的な意味があったと解釈するべきでしょう。これを食としてみるなら、日本人の体はブタなどの四つ足を食べるのが馴染まなかったのではないか、たとえば腸内の細菌の種類によるのではないかとも言われています。

江戸時代の代表的書籍である貝原益軒の「養生訓」には、

「諸獣の肉は、日本の人、腸胃薄弱なる故に宜しからず。多く食ふべからず。烏賊・章魚など多く食ふべからず。消化しがたし。」
とあります。

つまり「四つ足を食べると調子が悪い」ということは実感していたようで、それが日本で四つ足の家畜を飼育せず、四つ足の肉を食べる習慣が育たなかった原因と考えるのが適当でしょう。もしかすると、四つ足は鳥やサカナと比べれば、人間に近く、共食いについての日本人の感受性が高かったとも考えられます。

明治になってすき焼きや焼き肉というような新しい調理方法ができて、消化の心配なく肉を食べられるようになり、現代のような食習慣が生まれたと思いますが、やはり過ぎたるは及ばざるがごとしというのも同時に本当です。

中国南部の広東料理では「四つ足は机以外、飛ぶものは飛行機以外何でも食べると」とされ、なかなかバイタリティーがあるのですが、サル、イヌ、ネコすら食べます。でもそのことと、インフルエンザなどのように動物から人間に感染する感染症が中国南部でよく発生するのと関係があるかも知れません。

日本人の動物観ということについては多くの人がさまざまな見解を述べていますが、「なすがまま」という日本人の自然観がそのまま動物にも当てはまるというのがもっとも普通でしょう。そして野生動物も家畜も、高等動物も下等動物もあまり区別をせず、厳しい訓練もせず、成り行きに任せる日本式な付き合い方をします。

ところが、それも現代は違うようです。
日本の保健所で一年に処分されるイヌは40万匹、ネコも30万匹に上ります。ある時、ダイエットをしようと散歩を思い立ち、一人で散歩するのもなんだから、イヌを買ってきます。最初の内は張り切って散歩を続けるのです、三ヶ月もたつと面倒になって散歩を止め、急にイヌを飼うのがうっとうしくなって捨てるという例まであるのです。

そして、そのイヌは保健所で処分される運命が待っています。本来の日本人の心ではないでしょう。
人間と自然という点ではヨーロッパは全く違う考えです。だからマウスのような下等な哺乳動物を人間のために犠牲にするのにそれほど痛みを感じていないようです。

「メガマウス実験」という有名な実験が人間の健康を保つために少し前にアメリカで行われました。この実験は、メガ、つまり100万匹という膨大なマウスを使って放射線によってどのぐらいガンの発生するかについて調べたものです。

でも100万匹を犠牲にするこの実験によって判ったことは、「放射線が強いほどマウスは打撃を受ける」ということでした。今までより多少は精度があがるという程度のために、100万匹というマウスに放射線を当て、ガンにして殺すのですから、日本人の感性とはほど遠い実験のようにに思います。

日本人は時に生き物を殺すこともありましたが、そのような時には動物の供養をしなければ気が済みませんでした。人間のために犠牲になってくれた動物、その魂を弔い、感謝の心を現わしたのです。食が命を頂くものである限り、命に対する感性は食の安全を守る基本であり、わたし達日本人は今よりずっと学問が進んでいない時代でもよく理解していたと言えるでしょう。

食が生活の基本ですから食が自然から離れると、心も自然から離れ、そして自然を尊重しなくなります。江戸時代の幕末、日本に大きな影響を与えたイギリス大使オールコックは、江戸時代の日本の庶民生活を描写して、次のように書いています。

「・・・これらの良く耕作された谷間を横切って、非常な豊かさのなかで所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きの良さそうな住民を見て、これが圧制に苦しみ、過酷な税金を取り立てられて窮乏してる土地とはまったく信じられない。・・・気楽な暮らしを送り、欲しいものも無ければ、余分なものもない」

この文章は渡邊京二さんの著書から引用したものですが、江戸時代の日本人がよく自然と調和して生きていたことが判ります。

おわり