日本人と金属

 

 食は私たちの体を作るものであり、毎日、毎日、必ず経験するものであり、そして食を通じて家族の愛情や知人との交際が深まるものでもあります。その
で「食文化」と言うように栄養をとるという意味を超えた存在であることは多くの人が認めるところです。

 そして「文化」という限りはその土地の気候、風土、そしてそこに住む民俗とも密接に関係しているのは当然でしょう。今回は日本人と金属のつながりを水銀を中心としてまとめてみました。

日本は火山国で四方を海で囲まれています。世界地図を見ても温帯の島国としては突出して大きく、海流や気候などでも独特です。そんな中で、日本では古代から水銀、銅、鉛などの金属元素を広く利用してきました。

銅や金などの金属元素は、地球深いマグマから火山が爆発するときにその道筋の近くに蓄積されてきます。だから、火山が多い日本で主として銅族元素の鉱脈が散在していたのですが、熊本から四国、紀伊、奈良、三重を通って長野に至る火山列では水銀が産し、中国地方では銅、銀などの鉱脈があります。そして鉱山のあるところに日本の古代文明が栄えています。

その中で今回は有害物質として有名な水銀とイオウについて日本の歴史を少し紐解いてみます。

水銀とイオウの化合物の「硫化水銀」は赤い色をしていて鉱石の名前は辰砂(しんしゃ)、化合物としては「丹生」(にゅう)と呼ばれてきました。写真は北海道のイトムカ鉱山にある辰砂です。全体は硫化水銀の赤い色が付いていますが、右の鉱石の中には所々に水銀の粒子が見えます。

  

ところでこの丹生は古代の日本ではとても重宝されて、神社の鳥居や神殿の朱色に使われました。そこで大和朝廷よりさらに遡って歴史を見てみます。

日本の水銀の女祖、丹生都比売(にゅうとひめ)が誕生したのは日本の水銀鉱脈の西のはずれ、九州の邪馬台国の伊都国でした。この一族は、熊本の八代や佐賀の嬉野の水銀を押さえていた氏族でかなりの勢力を持っていたようです。

でも実際には「伊都国」というのはあまりに古すぎてほとんどその歴史は知られていませんが、官を爾支(にき)と呼んでいたらしく、これは丹砂という水銀の砂の意味であるとも言われています。

九州で邪馬台国が衰え始めたとき、この一族は大分から、四国、広島へと移動し、丹生都比売が率いる氏族は四国を進み、さらに淡路から和歌山へと進出したのです。和歌山にも優れた水銀鉱脈があったので紀の川流域にも住みつきました。とくにその中でも丹生一族は紀州、吉野・宇陀、伊勢の豪族と一緒になって、一大勢力になったようです。

また、丹生都比売の別動隊は、広島から石見・出雲、播磨、そして丹後へと東進して福井に至っています。

古代の水銀鉱山は地表から斜め下に掘って行きましたが、掘る長さはせいぜい50メートル程度で、掘り進んだ水銀鉱脈が尽きれば移動しなければならなかったわけです。つまり鉱脈が小さかったので、移動が頻繁だったことが日本の主要な神社が高千穂、出雲、紀伊、吉野、伊勢、諏訪、そして鹿島と続いている原因になったのです。

このようにして神世の時代が終わると、歴史時代に入り、続日本記に「献伊勢国朱砂雄黄」という記載で丹生水銀が登場します。また、奈良の大仏の建立の時には長門の長登銅山から大量の砒素を含む銅を運搬して鋳造して、その上に水銀アマルガムで金を塗った記録も残っています。

火山が多かった日本は水銀もまた多く、古代から水銀と深い関係にあったのです。たとえば、奈良の大仏を建立するときに、日本の銅鉱山から大量の銅が運ばれました。その内の主力鉱山に現在の山口県、昔の長門の長登鉱山があります。

この鉱山は内陸にあり、地下で鍾乳洞で有名な秋芳洞につながっているのですが、少しヒ素を含んでいます。銅を溶かすには1000℃以上の温度が必要ですが、昔は炉の温度を高くするのがとても大変でした。

この長登の銅は少しヒ素を含んでいるので、溶ける温度が低く大仏を作るのに大変、都合が良かったようです。長登鉱山は現在でも地元の人の保存の努力によって往時をしのぶことができます。そして長門の地から大和まで運搬された銅、その中に含まれていたヒ素、そして大仏建立の時、表面の金箔を貼るのに使われた大量の水銀・・・それらは毒物でもあり、そして日本の文化を創ってきたものでもあったのです。

現在の日本はすでに国内の多くの鉱山を失い、資源のほとんどを外国に依存していますが、かつては有数の銅の輸出国であり、金属を精錬し、加工する高い技術をもっていました。

また、日本人が「もの」を単に「物質」として考えず、その中に常に魂を入れてきたことも特徴的です。たとえば刀の鍔(つば)を思い出してください。ヨーロッパのフェンシングに使う刀の鍔は丸くツルリとしていて、相手の刃から手をまもるのに実に効率的で論理的な形をしています。

それに対して、日本刀の鍔は最初は変哲もないものでしたが、時代を減ると共に、文様が付き、複雑なデザインが施され、次第に芸術的になってきます。

戦(たたかい)のしきたりや作法も精神的になり、「練貫に鶴ぬうたる直垂に、萌黄の鎧着て、鍬形うつたる兜の緒しめ、黄金づくりの太刀をはき、切斑の矢、滋藤の弓持つて、連餞葦毛なる馬に金覆輪の鞍置いて乗ったる武者一騎」と平家物語の直実と敦盛にあるように、美しく変身して行きます。

その国のものが効率的に変化していくか、芸術的に変化していくかという点では、江戸時代までの日本はかならず芸術的に変化していったようです。日本食もその点では世界でももっとも美しい盛りつけをします。四季を小さな皿の上に見事に表現したり、一つ一つのお菓子にも高い芸術の香りを求めたのです。

日本が工業国となり、大量に物質を使うようになると、それまで長い日本の歴史の中で培ってきた様々な文化も姿を消していきました。その一つに水銀の文化もあります。今では水銀という名前を聞くと恐ろしいという感じを持つ人が多いと思いますが、それは水俣病で有機水銀中毒が特別な形で現れたからです。

水俣病はチッソという会社が危険を知りながら水銀を垂れ流してきたからと思っている人が多いのですが、チッソは昔「日本窒素」という一流の会社でしたから、わざと有毒な水銀を流すようなことはしません。後に水俣病と認定された最初の患者さんが病院に診察に訪れたのは1954年でしたら、その時の診断は「脳症」、つまり日本脳炎のような病気ということでした。

水銀がある程度の毒性を持っていることは知られていましたが、水俣病の原因となったメチル水銀が脳神経を犯すというところまでは知られていなかったのです。チッソは水銀がそれほどの毒物であることを知らずに排水していたといった方が正しいでしょう。人間は危険を知らなければ防御も出来ません。

このように水銀はある程度の毒性がありますが、その毒性も日本の文化日本の生活の中で使われてきたのです。それが2000年も続いたのになぜ20世紀になって水俣病というひどいことになったのかというと、それは自然の量を超えて使ったからと言うことが出来ます。

つまり、水銀が有毒という言い方は必ずしも正確ではなく、水銀はその土地の文化や風土に合わせて使えばそれほど有毒ではないが、人間が頭で考えただけの使い方は危ないということを水俣病は教えてくれます。

生物というのはその土地、その土地にある物を拒否せずに体に取り込み、何らかの役割を担わせてきました。魚の水銀が危ないということで厚生省が最近でもイギリスの例をならって注意を呼びかけていますが、その方が危険かも知れません。イギリス人の体と風土は日本人の体と風土とは違うからです。そして日本人の体の中で水銀がどのような働きを持っているか、まだ研究は進んでいないのです。

近代科学は何でも判っているようなそぶりをしますが、本当はほとんど何も判ってはいません。水銀のように研究をされたものでも、水銀を有機化合物の形で大量に摂取すると脳神経がおかされることは判っているだけです。本当の食の安全は非常に難しい・・・「これを食べれば健康になる」「あれは毒物だ」という断定的な判断は必ずしも食の安全にはつながりません。

おわり