江戸時代は鈍な時代だったのか、それを前回から写真を通して考えてきました。その続きで、今回も2,3枚の写真を見ることにします。まず漁村の子供達から。

 こんなにの屈託のない楽しそうな笑顔は今の子供達に見ることはありません。やんちゃそうな男の子たち、明るくて優しそうな女の子、みんな楽しそうです。そしてその後ろにいる大人2人。子供が前にいて、その後ろの大人は少し控えめな顔をしています。子供達が笑ってカメラに向かっているのをほほえましそうに、そして未来が明るいな、という感じがその顔に出ています。

 男の人の横には女性が一人なにか食べ物を用意しているようです。当時は女性があまり出しゃばるのを好みませんでしたから、この場合もすこし控えたところにいるのだと思います。それでもその顔には満足そうな楽しそうな感じが良く出ています。

 写真とは実に素晴らしいものです。今から150年前の社会を手に取るように見ることが出来るのですから!そしてその人達の心が私に伝わってきます。次の写真は時代が少し下って明治の初期、1880年の風景で、女性が洗い張りをしています。

 当時、写真を撮る人も専門の写真家でしたし、第一、高価な物でしたから、この写真もポーズを付けて少し緊張した雰囲気が漂っています。でも着物を洗濯して糊を付け、板に貼り付けてシワになるのを防ぐこのような仕事は女性の仕事でした。

 まだ「蒸気機関」「モーター」等という動力はあまり使えなかったので、仕事はもっぱら腕力でやりました。そうなると力のいる仕事は男、繊細な仕事は女と役割が決まっていました。このことが良いことなのか悪いことなのかは別にして、「モーター」というものがなく、人間の筋肉の付き方に差があれば必然的なことだったのです。

 でも人々には「願い」がありました。今ではそれほど苦痛ではない日常の生活も、当時は辛いことがあったのです。冬になると身を切るような風にふるえ、冷たい水で手はアカギレ(皹)になりました。それでも洗濯はしなければなりませんし、時に寒風をついて外にでたのです。

 昔の写真を見ると「ああ、今は水洗トイレと瞬間湯沸かし器があって良かった」と思います。それ以外のものはひょっとしたら必要がないのかも知れませんが、あの汚いトイレと冷たい水はできれば勘弁してもらいたいものです。

  

 私は良く上の写真と下の新宿の写真(渡部さん撮影)を比較して見ます。この2枚の写真に私たちがこの100年間にやってきたことを凝縮して見ることが出来るからです。先ほど例に出しました水洗トイレと瞬間湯沸かし器もどちらの生活がどうなっているか、すぐ思い起こすことができます。

 そして写真にも現れない哀しい物語がその後ろに控えています。可愛い子供がちょっとしたことで命を落とし、盗賊が一家を皆殺しにすることもありました。そんな生活でしたから「はかない人生」を感じつつ、美しい小説も誕生したのでしょう。

 ともかく、人間の願いは「辛いことをなんとかしたい」ということでした。それには自動車も携帯電話も必要が無かったかも知れません。なぜ、水洗トイレと瞬間湯沸かし器だけにして、その他のものを作らないようにして「近代化」が出来なかったのでしょうか?

つづく