安全安心な都市生活のための社会技術

第三回 -物理的・心理的マッチポンプ-


1.  第四のキーワード:物理的マッチポンプ

 都市の専門家や行政に対して都市に居住する一般人が「安全・安心」という視点で不安感を持つ原因は「危険と承知で都市を建設しているのか?」という疑問である。次々と超高速ビルが建設される。都市にすむ人は毎日その横を通るのだが、このビルが地震で倒壊しないのか不信感を持っている。

このことをいくら専門家が説明してもたとえば阪神淡路大震災において新幹線の橋脚が脆くも倒壊したのを知っているので、にわかには信じられないのである。つまりもし阪神淡路大震災が起こる前に都市の住民が新幹線橋脚の耐震性について質問したとすると専門家は「大丈夫です」と答えると信じているからである 1)。

 この問題は社会的減少であると共に技術的な問題である。たとえば東京のビル全体にコンクリート埋め込み型常時診断システム、あるいは外部から微小な歪みを検出し、客観的なデータを出すことなどが解決方法として考えられる。いずれにしても高層ビルが現実的に危険を作り、その危険で一般市民を危険に陥れ、不安を醸成していることは事実であり、これに対する社会技術の開発が待たれる。

    
図 7 高度集積都市と阪神大震災の時の新幹線橋脚

 超高層ビルと並んで深深度地下鉄、超高密度都心などの安全設計についても信頼性はない。これらの不信感は「地震の発生によって東京では膨大な犠牲者がでる」という報道で裏付けられる。このような現象を都市の安全に関するマッチポンプ、もしくは「両価性」と呼ぶことができる。

 多少の厳密性を犠牲にして、この現象を描写すれば、「高層ビルは安全です」「深深度地下鉄は安心です」と言う新聞記事の横に「もし東京で地震が起こったら高層ビルや地下鉄から逃げ遅れるなどして数10万人の犠牲者が出る」という記事が並んでいる状態を指す。二つの記事は相互に矛盾しているが、個別の評価は正とされる。

つまりこの2つの記事が矛盾しているという指摘の元に再度高層ビルの安全性と深深度地下鉄の安全性を研究しても、「やはり安全」という結論しか出ないからである。この問題は自身が来る前に「この建築物は地震に対して安全ですか?」という質問に対して安全であると答えざるを得ない問題と類似している。

 都市の安全安心に関する多くの課題がこれまでの社会科学で解決出来なかった理由の一つがこの点にある。社会科学者が高層ビルの安全性と地震が起こったときの犠牲者の数を計算すると相矛盾した結果しか出てこないのはそこに技術の総合的判断が入らないからである。

個別の安全性は必ずしも総合的な安全性を示さず、総合的な安全性はから名寿司も総合的な安心感には結びつかないからである。このような複雑な問題こそが都市の安全安心の中核をなすが学問的にはほとんど解決の見通しすらついていない。大きな今後の研究課題である。

 

2.  第五のキーワード:心理的マッチポンプ

 都市の住民は自然や体を使った生活と離れている。自らが自然と接し、自らの体を使ってものに触り日々の生活をしていれば、現実的に起こりえない事に対して心理的な幻想に怯えることも少なくなると考えられる。しかし、現代の都市は完全に人工的に構築された構造物で構築され、人間以外の動物も土の香りもせず、筋肉を使った労働や四季の変化も乏しい。


図 8 自らの感覚が発揮される町村の昔の生活
(大鉢(大きな木の枠)に石臼を二つ重ねて置き、一晩水にかした大豆を入れながら摺るのだが、それが重たくて一人では摺れなかった。 昔は、四季の祭,お正月、お盆、拝事、何かあれば、こうして豆腐作りをしていたのです。だから女は、休む暇もなく多忙でした。これ以上にも、お餅、饅頭、こんにゃく、何もかも手作りだったから大変。何も出来ない私だったが、姑さんと一緒にしているうち、いつの間にか出来るようになっていた。手作り豆腐は、がっちりしていておいしかった。 今の豆腐は、田楽焼きなどは、こわれて出来ないがむ、手作りの豆腐は、扱いやすくて本当に良かった。 あの味は忘れない。田楽焼が懐かしい。(インターネットで人気のある大島トメさん) 2)


図 9 幻想を作り出す空間(新宿の周辺。渡部さんご提供)
(夜、マンションの玄関を入り、私はエレベーターに乗って十一階の自分の部屋にたどり着きます。食事をして風呂に入り、テレビを見る。普段となんにも変わらない時間を過ごし、一日の無事を感謝してベッドに潜ります。深夜、ふと目が覚めると、どうも落ち着きません。夜が深いことでもあり、自分の感覚はとぎすまされ、ベッドのきしみと僅かに下の方から聞こえる車の音が私の耳を打ちます。
突然、私は、自分が空中で寝ていることに気がつくのです。もし、自分のマンションが透明の材料でスケルトンにできていたら、十一階で寝ている自分はさぞ滑稽でしょう。しかし、空中で寝ているのは私や私の家族だけではありません。マンションの総ての人が空中に浮いています。そしてその隣のマンションも、また隣も、みんな空中で寝ているのです )。3)

 図 8と図 9、および図の下に文章をつけて、昔の田舎の生活と対比する形で現代の東京の生活を象徴的に示したのは都市の安全安心という問題が新しい感覚の問題であること、この社会科学に取り組むためには従来の技術的学問の感覚を超えた取り組みが必要であることを示すためである。

 いずれにしても都市での生活は自らの体で体験出来ず新聞やテレビからの情報のみで判断しなければならない状況では、情報発信側にその意図が無くても、心理的で幻想的な危険意識が醸成される危険性が高い。直接都市とは関係がないが最近問題となっている典型的な心理的マッチポンプの例としてはダイオキシンがある。

現在、都市における苦情の第一は隣の焚き火と言われているが、焚き火によって拡散して来るであろう「猛毒」のダイオキシンに対する恐怖心で苦情が発生する。苦情は心理的な安心感が得られないからであり、この問題は本領域では重要問題である 4)。

ダイオキシンが毒物であるか、ほとんど無毒であるかについては科学的に説が分かれているが、仮にダイオキシンの毒性が低いとすると作られた心理的危険がマッチとなり、それを防止するために高性能の焼却炉を設置したり、ダイオキシン濃度の定期的な測定監視が求められる。焼却炉や監視装置は物理的な安全を増進することができるが、同時に心理的な不安感を呼ぶ。

しかし真にダイオキシンを注意しなければならない場合は人間はそれを納得する。それに対してもともとダイオキシンはあまり危険では無い場合、いくら対策をうっても「被害者」が発生しないので、どこまで注意をすれば安心かの歯止めが掛からない。

別の例として「食品添加物」を上げることができる。食品添加物は都市に住む主婦にとってはもっとも注意を要するものの一つであるが、食品添加物に関する危険性について専門家と主婦で大きく認識が異なっている )。表 4で判るように専門家は(自然な)食品中の毒物がもっとも危険で、次のタバコ、そしてウィルスの順になっている。

これに対して主婦は、第一位が食品添加物、第二位が農薬、そして第三位が焦げである。このような差が生じたのは「事実」に対する認識と「ウソ」に関する感覚である。

 専門家は食品添加物による犠牲者は戦後60年でズルチンによる死者1名であり、その他の統計上の問題を考えてもきわめて少ないことを知っている。また農薬での犠牲者、ガンの発生などもほとんど見られないと言う歴史上の事実を把握している。

これに対して、主婦の情報源は主としてテレビであり、テレビは視聴率の競争の中で危険を煽る番組を作りがちである。最近のNHKと新聞社の争いでも見られるとおり、「取材に来たようで結論は最初にあった」という取材の経験をされた人はかなり多いと考えられる。

表 4 食の安全に関する専門家の認識と主婦の認識の差

 食品添加物や農薬に対する安心感を社会技術で作り上げる必要がある。この不安は「実体のある不安」であるだけに現在までの学問的手法が使えないという問題がある。これまでの学問的手法は19世紀型の学問体系を基本としているので、「学問的に正しければよい。知らない人が損をするのは自業自得」という考え方であったが、都市の安全安心という領域はそのような考え方を基本的に否定するものであり、それによって人類全体の福利に貢献しうる新しい技術的思想を作り上げようとしている。このことは原子力、企業不祥事などで大きく傷ついた技術に対する信頼性の回復をどのようにするかについてのヒントを与えてくれるものと期待される。

これに対して、都市のように人口が密集していない場所や、あるいは「危険性」という認識が「数値的データ」ではなく現実の被害の経験によってなされる場合、ダイオキシンのような「いつまでも犠牲者の出ない毒物」に対しては、次第に危険性に対する認識が変化し、安全は確保されていると受け取ると考えられる。

 また心理的マッチポンプには「事実が普及すれば消滅するもの」と「事実が普及すれば不安が拡大するもの」がある。前者の代表的な例がダイオキシンであり、後者が石油の枯渇が上げられる 5)。かつて石油ショックの時、石油の枯渇が社会問題となり、大きな不安を醸し出した。

トイレットペーパーの騒ぎはこれから30年後に石油が無くなるかも知れないこと、トイレットペーパーの元になるのが太陽の光で育つ樹木であることを知りながら、多くの人は明日にでもトイレットペーパーが無くなり、トイレに行くのも難儀するのではないかとの幻想の元に買いあさった。買いあさりがある程度進行すると現実にトイレットペーパーの生産が追いつかなくなり、買うことができなくなる。事実が幻想によって打ち負かされた例である。

 その後、30年を経て石油が枯渇しないと、オオカミ少年論が登場して石油は無くならないあれは脅しに過ぎない、イヤそのうち本当に来る、オオカミ少年だ、と議論が分かれて不安を醸し出す。この場合は専門家ほど危険を感じ、一般の人はそれほど危険を感じていないという反対の例である。


図 10 石油の枯渇を警告する生産量推移のグラフ

 図 10によれば石油の生産量の推移は石油ショックが起こった当時の推定線上を動いており、2010年までに生産量はピークを打つと考えられる。これに対する都市の備えは全くできていないが、その理由は主として「状況を明らかにして議論を深めると、経済的な損害を受ける」という専門家や政府などの思惑が入るからであり、それがさらに一般人を不信感に陥れることになると考えられる。

この課題は緊急の問題であり、社会技術としてのプライオリティーも高い。石油のない社会が訪れたとき、現代の都市がどのような状態になるかの解析を行い、新たに開発が必要な課題を摘出し、具体的な開発計画を組み、そしてそれに取り組むという手順が考えられるが、石油生産のピークが専門家が予測しているように2006年以前とすると社会技術の進展速度から、この危機に十分に対応出来るかが問題である。一つの回答は石油がなかったときの時代や自然を参考に、「自然に学ぶ」「伝統に学ぶ」事も今後の具体的な課題になるだろう。


参考図書

1) 平成7年度運輸白書より.
2) 武田邦彦、「エコロジー幻想」、青春出版 (2001).
3) 和田 攻、「ダイオキシンはヒトの猛毒で最強の発ガン物質か?」、学士会報 No. 830 (2001).
4) 武田邦彦、「何を食べたら安心か?」、青春出版 (2004).
5) C. Campbell & Global Commons Institute: 2003から石井吉徳先生が引用.