マラヤ大学


 平日の朝は東京よりもずっと酷い交通渋滞に巻き込まれてまったく車は動かないが、日曜日の市内は閑散といている。多国籍の人が雑居する街だけあって、歩いている人も様々なら、建物も色とりどりだ。伝統的なマレーシア建築、近代的ビル、そして中国人の住む2階建ての家などが混在して雑然としている。角を曲がると、先の方から華やかな衣装を着た一群の女達が集団で歩いてくる。

「あれはフィリピーノですよ」

と運転手は流暢な英語で話す。マレーシアはイギリスの植民地だったので今でも多くの人は英語が達者である。運転手の話によるとマレーシアで働く家政婦の多くはインドネシアからの出稼ぎの女だが、いくらかはフィリッピンからも来るという。インドネシアの家政婦は一般家庭に多く、フィリッピン人はホテルなどが多いそうだ。インドネシアの家政婦は1ヶ月に300リンギット(1リンギットが35円程度であるから、300リンギットでは約1万円である)、フィリッピンの女性では1ヶ月で500リンギットという。

 私が遭遇したフィリッピン人は日曜の朝、教会に礼拝に行った帰りの一団だった。フィリッピン人はキリスト教が多いが、マレー人は教会に行かない。マレーシアはイスラムの国である。実は、「マレーシア人」と言った場合にはマレーシアの国籍を持った人をさすが、その数は約2000万人、そのうち70%がマレー人で、30%が中国人である。「マレーシア人」と「マレー人」とは定義が異なり、「マレー人」は「マレー人の血が入っていて、しかもイスラム教徒」の人をさす。ということは信仰が深いとか浅いとかの問題ではなく、マレー人はその定義からしてキリスト教の教会に行くことは無いのである。マレー人は金曜日の午後、モスクに行く。モスクは市内の至ることろにあり、いずれも綺麗で簡素である。巨大なモスクもあるが、キリスト教の教会や仏教の寺院に比較しても簡単な作りながら神への祈りをする場所としての充分な尊厳さをもっている。モスクは柱が林立しただけの開放的な建物であるが、信徒が礼拝をしているときには中に入れない。そして女性は信徒でなくても頭にベールをかぶらなければならない。仏教はもちろん、キリスト教と比較しても彼らの信仰は生活と文化の中に深くとけ込んでいる。そして宗教は国の政治の一部でもあるので「国立」回教寺院などがある。

 イスラム教徒の人口は少しずつ増えているようだ。そして最近はあまりいい加減な信仰が許されなくなり、より厳密なイスラム信仰が求められるようになってきた。世界的に仏教がその宗教としての役割を果たせなくなってきてから久しい。現代の日本の仏教はすでに宗教としての体をなしていない。キリスト教もその勢いを失っている。ヨーロッパの大きな教会は日曜日になっても閑散としている。日曜日に礼拝に来る信者は国民の数%とも言われ、大きな教会はすでに施設の維持ですら思うようにいかない事態に至っている。イスラムの簡素で真剣な祈りを見ていると、3大宗教の勢いを見るようだ。お釈迦様が在世されていたのは紀元前600年、イエス様が紀元元年、そしてマホメットが紀元後600年、人類が誕生して450万年後に集中して出現した大きな宗教の誕生が丁度600年ずつ違うのも興味があるが、一番古い宗教が勢いを失い、一番新しい宗教が盛んなのは当然かも知れない。

 周りを海で囲まれているマレーシアでは魚は良くとれるが、最近では公害が酷くなり生の魚は食べられなくなったという。日本のコメより少し長めのコメは隣国のタイから輸入しており、その他の食料も輸入品が多い。マレーシアはあまり農業が発達しておらず、マレー人の農家は少ないという。マレーシア料理にはスパイスの利いたカレーの様な食べ物が目に付くが、マレーシアにはインド人もバングラディッシュからも多くの人が来ている。

 マレー人は「生まれつきの貴族」である。彼らは、農業をしない、家庭労働もしない、商業も嫌いである。コメはタイ人に作らせてそれを輸入する。家庭労働はインドネシア人の家政婦に任せる。そして、最下層の仕事はバングラディッシュ、学校の先生はインド人、商業は国民のほぼ三分の一をしめる中国人である。マレー人はそれらの外国人のマネージメントをするだけである。

 しかし、自分たちが働かないで威張っているためには、それなりの力が要り、現代社会における力は「知」であるから、マレー人は勉強し、ハイテクの会社を経営する。これが現代のマレーシアの大学を理解するためのキーであるのだ。


マラヤ大学

 マラヤ大学は1957年に設立された。マレーシアの独立戦争は日本の敗退の2年後に始まり、9年の独立戦争を経て1956年に独立した。マラヤ大学は独立一年後にできたマレーシアの最初の大学である。そしてマレーシアでマラヤ大学の次の大学(UKM)ができたのが1975年であるから、10年以上の間この大学はマレーシアただ一つの大学として君臨したのだ。今はマレーシアに9つの国立大学3つの私立大学があり、その他日本の短期大学に当たる大学が20校程度ある。



 マラヤ大学の設立の翌年に最初の学部として工学部ができた。その後毎年のように、理学部、農学部、教育学部、医学部、コンピューター・センター、経済学部、付属大学病院、外国語センター、歯学部、法学部、教養センター、基礎科学センター、研究センター、イスラム・センター、イスラム法学部、イスラム神学部、スポーツ科学学部、そしてマラヤ・センターの順に設立され、今や11の学部、2アカデミー、それに3センターなどの附属施設を持つ総合大学に成長した。経済学部はその後発展して、経済学部と会計学部になり、農学部は独立した学校になり、外国語センターは外国語学部に発展した。学生数は18000人、教員数が2000人、そして職員は250人である。学生に対する教員数は少なくとも数字上は九人の学生に対して一人の割合であり、かなり良い数字であると言えよう。

 "工学士"の資格を出す学問領域は、土木工学、電気工学、機械工学、化学、環境工学、材料工学、通信工学、工業工学、CAD/CAM工学、生化学であり、"科学士"を出すのが建築工学、建設工学、地質工学、そして経営工学である。CAD/CAMは日本では大学の履修科目の1つになっているが、ここでは1つの学科であり、CAD/CAM学科は独立した建物も持っている。また、修士課程では、工学修士、工学科学修士、そしてPh.Dである。

 キャンパスは広大でシンプルな配置である。キャンパスのほぼ中央に車で5分ほどかかる池があり、その池の周りに一方通行の楕円形の道が走っている。門から入るとその道をぐるっと回ることになるのだが、常に車の右に池、左に校舎がある。つまり池の周りに道路、その外側に学部の建物が配置されていると言うことになる。池と周回道路の間には、大学本部と学生会の建物があるだけである。学部の建物はそれぞれに特徴があり、特に教育学部などの新しい建物はマレーシアの伝統的建築物の面影を残し、かつ近代的に仕上げている。工学部建築学科の建物はいかにも建築学科らしく、色彩豊かでデザインも凝っている。

 いずれの建物も立派で周辺には空地を配し、かなりの敷地を占有している。学部と学部の間には道があり、その道を進むとさらに奥に9つに分かれた学生寮やスポーツ施設、モスクなどがある。つまり、池の周りを「山手線」とすると、山手線の内側には大学本部と学生会館、山手線のすぐ外側が各学部の建物、それから放射状に外に向かって道路が張り巡らされている。キャンパスには外周道路はないが、全体に論理的な建物の配置なので、一度設計者の意図を把握すると迷うことはない。そして、いかにも「その国を代表する大学」らしい雰囲気と良い意味でも悪い意味でも威厳が感じられる。現在の日本の大学は何の思想も感じられない建物の配置であるが、それより遙かに全体の設計思想が感じられる。もっとも日本でも大学が作られた初期の頃には見事なキャンパスがあったのだが、その後、大学指導部がうっかりして現在の様な統一的とは言えないキャンパスになったというべきであろう。

 クアラルンプールの市内は至ることろが工事中であるが、マラヤ大学の中もそれに劣らず建物の新築ラッシュである。入り口の右手から教育学部新校舎、CADCAM学部の建物、その奥に建設学部の新校舎、そしてしばらく行くと新しい第6寄宿舎の建設中だ。寄宿舎も第9まで建設を進めており、ぐるっと回ると新校舎とユーティリティの建物の建設用地が整地中である。全ての建物の半分が建築中という印象を受ける。そしてすでに建築の終わっているが、真新しい総合図書館、通信教育建屋、学生会館などが目立つ。工学部の本館も今年の4月に完成したばかりで、エレベーター・ホールは暗いが、ホールの電気をどのスイッチを押せばよいのか、学部長、学科長、スタッフ、そして掃除のおばさんの誰もが知らないし、階段を上がって上の階の階段の扉の鍵のあり場所も判らないという有様である。会議室には、日本製の自動的にコピーの撮れる黒板、自動的にコーヒーの出る機械、そして透明でなくてもOHPの様に良く写る実物投影機など自慢のものがあるが、どれも満足に動くように準備されていない。

 工学部は一昨年まで、1学年の学生が200人であったが、今年は500人を入学させた。来年はたぶん600人は入れる必要がある、と学部長は話す。政府が増員を要求してくるので仕方が無いという。設備も増強中だが、それより先生が足りないのでインド、バングラディッシュそれにイランから採用してくる。全体の先生の内、60%がマレーシア人、残りの40%が外人部隊である。通貨危機で対ドル相場が下落したので、アメリカ人やヨーロッパの人は高給で使えないし、まして日本人はさらに高給でとても来てはもらえない。

 もともとマレーシアは「マレー化政策」のもとで大量の留学生を海外に送り出した。その留学生は留学先に残るが、ある程度の留学生は順調に帰国する。しかし、経済の発展が急速で、大学より高給を出す外国企業に勤めてしまう。その結果、大学はひどい教員不足に陥っている。

 学生急増に対する施設と先生不足を補うために、クアラルンプール郊外や地方に"サテライト教室"を置いて、大学のキャンパスには収容できない過剰の学生を収容する。このようなサテライト教室ではマラヤ大学からの双方向通信で教授が講義を行うので、先生が少なくても一度に大勢の学生が聞くことができる。さらに全ての講義の内、重要な講義はマラヤ大学の教授が担当し、その他の一般科目は高等学校で教鞭を執っている先生に頼む。マラヤ大学だけが大学であった時代が長く続いていたくらいだから、高等学校の先生は大学は出ていない。その先生が大学の講義を使用というのであるから、教員不足も相当なものである。もちろん、高等学校卒業の先生は正式には大学の学生を教えることはできない。人を教育するというのはそんなにいい加減なことではないのだ。大学生を教えるのは大学を卒業していれば良いというほど簡単ではない。人の教育というものは神聖なもので、教える人は博士号を持つなど数段上で無くてはならない。しかし、今のマレーシアはそんな事は言っていられない。先生の絶対数が不足するのだから、もし先生を雇うことが出来なければその学生は高等教育の機会を生涯失ってしまうからである。教育を受けられることが第一、質を問題にするのは贅沢と言うものである。


マラヤ大学のハイテク教育

 マラヤ大学の生徒会館の前にある新しい4階建てのビルディングが情報教育センター("遠距離教育マラヤ大学センター"というのが正式名称)である。このセンターの目的は、マレーシア全体で教育施設や教室の数が不足しているので、最大一MBIT/SECで信号を送れる高速度通信回線を利用した双方向通信教育やその他のシステムを利用して、高等教育をすることであり、1994年11月に設立された。このセンターは将来の通信教育の強化を目的とした通信教育システムの開発も担当している。現在、盛んに利用しているのは、マラヤ大学の講義をサテライト教室に配信するもので、小さいが装置が整った講義室に2台の40インチ程度のテレビ、講義中の先生と黒板を移すカメラ、実物投影機など講義に必要な機器が揃った小さな発信室があり、そこから全国に発信している。


 アメリカや日本の機器やソフトなど、先進国のものをそのままそっくり使用するので、ある意味ではマレーシアが自国で開発するより効率的かも知れない。発展途上の国ではかつての日本でもそうであったように、先進国のものをそのまま使う傾向があるが、それはそれでよいのではないか。先進国の優れた技術を使いながら徐々に工業や技術を形成していくのである。日本が技術を盛んに学んだときは、それらは汽車であり、自動車、化学工業であった。現在発展中のマレーシアでは「双方向同時通信による遠隔講義システム」を先進に学ぶ。

 通信のコントロールセンターが市内にあり、そこと連絡しながら講義の傍聴や配信を行う。現在、工学系の学生で通信教育を受けている学生は全部で412名ということであるから、大学に来る学生の1100名と合計すると約1500人が工学部の学生数となる。

 2,3の講義を見てみるとある先生は黒板を使い、ある先生は実物投影機を使用していた。講義は比較的わかりやすく、なんと言ってもビデオと違い臨場感があるので、身に入るように思われる。先生がよほど不足しているのだろう。先ほどまで我々を案内してくれた学部長が今度は双方向遠隔講義に登場されて講義を行っていた。サテライト教室はおおむね50人ほどが入れる教室だが、学生は10人程度が写っていた。教室は少し照明を落としてあり、眠ってしまう学生の対策も必要だという。完全に双方向通信なので眠っている学生を見つければ先生が叱ればよいが、その学生の所に行くことができないので、それだけ迫力はない。

 しかし、必要性に迫られたマラヤ大学の双方向遠距離教育は成果を上げているように思われた。その第1の理由は教える先生がこの教授方法になれていて、図の使い方、説明の仕方がごく自然であるからである。これで画面がもう少し大きければまったく問題なく講義をすることができるし、この講義が理解できなかったり、眠ったりするのであれば学生自体に問題があろうと思われる。


予備教育機関と日本の大学

マレーシアは国民の30%が中国系の華僑でこの人達がマレーシアの経済を支配している。一頃は経済ばかりでなく、政治にも華僑が大きな力を持ち、例えば地方の長官はマレーシア人でも、次官以下を華僑が占めて、実質的には華僑支配になっていた。マレー人のマレーシアを実現するために、マハティール首相は「マレー化政策」を実施した。官吏の登用、国費留学による高等教育をマレー人に受けさせることなどマレー人の優遇政策を実施したのである。特に、日本との間ではOECFの援助の元に、マレーシアでの予備教育を受けた学生を日本の留学生として迎える計画が進んでいる。

 マレーシアの学制は小学校が6年、中学校が5年、大学の予備学校が2年、それが終えると19才で大学に入学することができる。高等学校と中学校があわせて5年、大学は3年なので、その分だけ修学期間が短いが、そのかわり大学に入る前に2年の予備教育機関があるので、合計した修学年は日本と同じに16年、年齢は22才で終わることになる。マレーシアの大学の予備学校は日本の高等学校と大学の教養課程をあわせたような教育を行っている。

 このシステムを利用してマレーシアの大学生を海外に送るプログラムを行っている。定型的な留学生プログラムとしては、2種類の派遣システムと2種類の教育プログラムで運営している。留学生の派遣システムとしては、いわゆる純粋な"国費留学生"でマレーシアが国家が奨学金を出し、その枠に合格した学生が予備教育を受けた後に、外国に留学するものである。このシステムを利用している留学先の国はイギリス、アメリカ、フランス、オーストラリアなどが主要な国である。もう1つの派遣システムは"特定の目的を持つ政府間借款に基づく派遣"であり、例えば日本への留学生がその例である。いずれも基本的には国費留学生であるが、アメリカ、オーストラリアの留学生は政府予算であるので、政府の予算編成方針によって変わる。事実、現在マレーシアは激しい通貨危機に見舞われており、今年の国費留学生の政府予算は一気に80%減と決まった。そのため、これまで予備教育機関で留学を目指して勉強してきた学生が一斉に行き場所を失った。その一部はマラヤ大学などで収容したようだが、多くは行き先を失い、一時就職せざるを得ないと予備学校の校長先生は訴えている。

 完全な政府予算の国費留学生とは別に、外国からの借款によって留学する学生は、相手国からの借款が続く限り派遣されることになる。例えば、インドネシアー日本技術フォーラムが中心になって、マレーシアのマラ教育財団との間で進めている留学プログラムでは、日本との借款が継続しそうなので、卒業式に出ている学生の顔も明るい。このプログラムで学生に渡る学費は、授業料全額と月18万円なので日本でも結構、恵まれた学生生活を送ることができる。

 これに対して教育プログラムは、①マレーシアの予備学校を2年受け、卒業した後に外国の4年の大学に1年次から入学するプログラム ②マレーシアで一年の予備教育と、1年の大学教育を受け、外国の2年に編入するプログラム の2つがある。①の場合には外国の大学を卒業する年齢が国内大学を卒業するよりも1年多くなる。②の場合にはストレートで卒業した場合、22才の卒業になる。外国に留学するのだから1年程度余計に勉強しても良いとも思われるが、国費留学生は一般にかなり優れた学生であり、また中には語学力ともにそのまま大学に入っても遜色ない学生もいるのだから、この1年は大きいのだ。そこで、欧米の多くの大学はツイン・プログラムと称して②の方法を採っている。これに対して日本では①の留学生しかいない。留学を志したマレーシアの学生にとっては、日本に留学すると、語学のハンディがあり、修学年限が長くなり、さらに日本の授業料と生活費はおおよそ欧米の2倍であるので、学生の感覚としては日本への留学は欧米への留学に対して4倍の負荷がかかると感じるのである。

 結局の所、日本に留学する学生は、アメリカやヨーロッパに留学できない学生で、卒業後、特に日本企業に就職することを希望しているものに限定されることになる。一方、日本の大学側の受け入れ態勢にも問題が多い。国立大学では最近まで身元引受人に制限があり、受け入れる教授としての負荷が高かった。第2に、日本の大学は1年次からの積み上げ方式でカリキュラムが組み上げられている傾向にあり、単位が自由に取れない。日本という国は良くも悪くも「丁寧に世話をする国」であり、学生が自ら考えて大学を卒業するのではなく大学が学生様を大切に扱い、エスカレーター方式で卒業させる。そのあおりを留学生が受ける。第3には日本に留学した東南アジアの学生の多くが「親日家」ではなく、「反日家」として帰国するという事実である。この原因は複数ある。大学にほとんど日本人しかいないので、施設や食堂などのサービスも外国人を念頭に置いていないことが第1である。マレーシアやインドネシアの留学生の多くがイスラム教である。イスラム教の教徒は1日に何回かお祈りの時間が必要である。その時には手足を洗って、適切な場所でお祈りをする。彼らは宗教について非常に謙虚で日本の大学内にモスクが必要であるとか、お祈りの場所を用意してくれとか言うような要求はほとんどしない。しかし、他人の宗教を奇異な目で見ないという最低のモラルも守られないことがあるのだ。また、イスラム教は「神と個人」が直接結びついているという考えであるから、日本人が何か親切にしてくれてもそれに対して親切をしてくれた相手にあまり感謝しないで、そのかわり神に感謝するのだ。そのようなイスラムの留学生に対して「あいつらは酷い奴らだ」という様な感情を持つ先生や学生もいる。卒業近くなって日本の企業に就職しようとする学生には、「純血主義の日本の会社」の壁にぶつかる。会社は私企業であるからある程度の自由はあるが、理由もない外国人排斥は日本を好きになりかけている学生にショックを与える。

 これらのことは、人間は多様な慣習と宗教、信念を持つという基本的な国際感覚が日本人にはまだ十分に育っていないことにこの基本的原因があるのだ。

 いったい、大学の使命とはどこにあるのだろうか。もちろんその国の高等教育部門を担当し国民の平均的な学識の増大に寄与することは当然である。しかし、先進国の大学には世界的な視点から人類の学識の増大のために寄与することが求められる。この使命は「損得」で判断するべきものではなく、「本来こうあるべき」という姿勢で日本の大学が臨むことであるが、結果的に日本と外国とのつながりを密にすること、日本文化の理解が進むことなどの効果も当然期待できる。その点で、日本の大学の工学教育システムの中に、もっと積極的に留学生に対するプログラムを充実させるべきである。大学は常に世間一般よりも、より世界的、より先進的でなければならない。

 今こそ、日本の学生の過保護教育の促進に力を尽くすばかりでなく、発展途上国の学生を受け入れることを前提とした姿勢に転換するべきであろう。

 1941年12月8日、日本軍機動部隊は真珠湾に奇襲を仕掛けた。太平洋戦争はこの奇襲によってその幕を切って落としたと言われている。しかし、日本軍はこのとき南方にも同時に兵を送り、第1陣が12月7日、当時のイギリス植民地であったマレーシアのコタ・バルに奇襲上陸した。マレーシアでの戦争はその後「銀輪部隊」の活躍などでしばしば話題に載ったが、その陰で、マレーシアの18才から50才までの男性、およそ4万人が日本軍によって無差別に虐殺されたことも忘れてはならない。

 現代のマレーシアにはその陰はすでにほとんど感じられない。マレーシアの中国系の人の中には、父や祖父を日本軍に殺された人が要るということを十分に注意し観察し、また現地の人にも聞いてみたが短い滞在期間でそれを感じることはできなかった。むしろ商人としての中国人が活発にマレーシア国内で活躍しているという印象が強い。

 マレーシアの首都クアラルンプールは高速道路の発達した近代的都市である。世界一高いという「KLタワー」とそのタワーに並んで新築された「ツウィンタワー」がイルミネーションで夜空に輝いている。マレーシア人の自尊心と貴族性を象徴するかのようなこのシンボルは同時に現在のマレーシアの通貨危機の根の深さをも象徴している。ツウィンタワーにまけずに立派な銀行のビル、超一流ホテルが林立する。それらの建物とクアラルンプール近郊の住宅街の建物とはいかにも不釣り合いなほど差がある。銀行のビルは全館ガラス張り、大理石の玄関、全館冷暖房である。そこに勤める人の住宅は狭く、遠く、そしてあまり清潔ではない。国民の労働による付加価値がその国の富であるとすると、この国はどこに富を求めようとしているのだろうか。

 クアラルンプールは建設中の街と経済に目がくらんだ市民が右往左往しているようだ。街角を曲がるとまた建設中のビルに出会う。郊外にでると途中まで建設が進みクレーンと鉄骨がさび付いているように見える団地がある。マハティール首相がアメリカの資本に怒り心頭であることは理由のあることだ。一国の経済というのはゲームではない。ビジネスでもない。国民一人一人の人生がかかっているのであるから、それをあたかも経済のゲームのように進めてもらっては困るのである。しかし、伸びきった政策はどこかで破綻を来すのかも知れない。その破綻が米国資本の引き上げという形で現れたと言えないこともない。

 このまま行くと、マレーシアには中小企業が育たない。それはマレーシアの工科系教育が産業の基盤となるべき地味な機械加工や鋳造、精錬、プラスチック加工などの工業の教育をあまり重視せず、環境工学や情報工学に進もうとしているからである。それはそれでマレーシアの選択であるが、工業の基礎基盤を抜きにして先端工学を学ぶと、その学生は自ら工業を興し得ず、さらに仮に自力で工業を興そうとしても国内に基盤となるインフラストラクチャーが無いので、挫折する可能性が高い。これを、経済用語に習って表現すればまさに「技術バブル」といえるものである。この国が本当に技術バブルで行かざるを得ないのか、それともそれは成長を求めるための一時的な気迷いなのであろうか。

 文化という点でも少し不安になった。街には文化の香りはない。それでも異国から来た文学者はこの国で芝居を見ようとし、戯曲の作品を探した。それは無駄なように思われる。今のこの国には文化は育たない可能性もある。工学がバブルになるように、文化もバブルになってしまうからである。

 クアラルンプールの北方、60キロの彼方に新しい飛行場が建設されている。そこまでの交通を確保するためのモノレールも建設中である。これはバブルとは言えないだろう。この空港が出来て、マレーシアに再び経済成長期が訪れ、そして国民が真に安定した生活を送れるようになると考えられる紀元2030年頃には石油資源は枯渇し、ガソリンや航空機用軽油は高騰してクアラルンプールー東京間の航空運賃は1000万円にもなっている可能性がある。全ての経済発展の努力はその時点でまた元に戻るかも知れない。