― 学問と作業 ―

 

 1908年、オンネスはほとんど絶対零度、-273.15℃に近い温度を作るためにヘリウムという珍しい元素を用い、熱力学の重要な法則の一つであるジュール-トムソン効果を応用して絶対零度を1℃超えた1K(ケルビン)を作り出した。


 続いて1911年。極低温での物質の電気伝導度を測定したところ、水銀、スズ、鉛などの純金属が極低温で電気伝導度がゼロになることを発見したのである。電流が流れても抵抗がゼロ?オームの法則に慣れた私たちにとってはなかなか直感的には理解が出来ない。

 でも今では「超伝導」という用語は科学用語としてだけではなく、マスコミにもたびたび登場するので、その中身を理解しているかどうかは別にして当たり前の現象のようになっている。「電気が流れても抵抗がない」「永久に電流が流れ続ける」と聞くと「本当?」と聞きたくなるほどの常識外れのことなのである。

 上のグラフはオンネスが最初に水銀の超伝導現象をプロットしたものだとして、誰からかコピーをもらったものである。温度が下がると電気抵抗は少しずつ下がっていくが、グラフを見ると確かにある温度で抵抗がゼロになっている。さぞかし驚いたことだろう。

 オンネスは学識があり粘り強く、時に不遇の時期もあったがそれにもめげずに頑張った。そして発見の内容も立派なものである。いわば「科学の鏡」であり「技術的進歩をもたらした大きな発見」をした人である。誰もオンネスの業績に批判はしないだろうし、事実、低温の研究で1913年にノーベル物理学賞を受けている。
 
 でも、大学にいて「オンネス流」の研究をしようとすると、あちこちから批判を浴びる。もっとも批判的なのは学生である。「なんでそんなに新しいことを追求するのだ!」と学生は怒る。「そんなのは学問ではない!」と彼らは言う。

 1953年。チーグラーはエチレンの反応の研究をして、ある実験を終わり反応釜を開いてみるとその隅に白い粉がこびりついているのを見つけた。そんな物が出来るとは思っていなかったチーグラーは不思議に思ってその粉をこさいで取った。後にこの粉がポリエチレンであることが判り、現代の生活の中で欠かすことが出来ない材料が誕生したのである。

 チーグラーの発見についてはここで詳細には書かない。彼はアルミニウムと炭素の結合がある化合物が有機反応にどのよう効果を持つかという基礎研究をしていて偶然にポリエチレンの触媒になることを発見した。

 チーグラーは学識があり注意深く、時に不遇の時期もあったがそれにもめげずに研究をしていた。そして発見の内容も立派なものである。いわば「科学の鏡」であり「技術的進歩をもたらした大きな発見」である。誰もチーグラーの業績に批判はしないだろうし、事実、この研究で1963年にノーベル化学賞を受けている。
 
 でも、大学にいて「チーグラー流」の研究をしようとすると、あちこちから批判を浴びる。もっとも批判的なのは学生である。「なんで副生成物などが大切なのだ!」と学生は怒る。「そんなのは学問ではない!」と彼らは言う。

 学生にとって学問とは「目標に向かってできるだけ効率的にやる作業」であって、決して「新しいものを発見すること」ではない。また「厳密で再現性のある結果」が得られるべきであり、「反応装置の端にたまった塵や、もう一度、実験しても再現性が得られない」は学問の対象ではないと信じて疑わない。

 学生や最近の技術者の金科玉条は次のようなものである。

1.  明確な目標のもとに、スケジュールを立て、できるだけ効率的に作業をする。
2.  すでに確立された学問的手法を使い、できるだけ高価で自動化された測定器を使用し、繰り返し測定してそのうちもっとも「悪い」データを採用する。

 この二つの金科玉条のうちの1.は学問と産業を間違えている例であり、もともと目標が立てられれば学問ではなく、作業である。作業は大学の研究にも教育にも無関係だ。

 第二は「上司に怒られる」、「製品の品質は作った物のうち、一番、性能の悪い物で決まる」ということを学問の世界に持ち込んだ結果である。

 しかし、学生の怒りはなかなか収まらない。学生は学問を知らず、科学の歴史を知らず、自分が教育を受けていることを知らないため仕方がないが、教師にとってはやっかいなものである。学生に学問を教えるには、まず学生が素直に指導に従ってもらわなければならないが、反抗的気質の年代である。自分と先生の考えが違うと間違いなく「先生が悪い」と結論する。そんな年齢であり、私もそうだった。


 教師の指導を難しくしているもう一つの原因が「社会的常識」である。社会は「お金儲け」を中心に価値観が構成されている。「成功したらお金が儲かる」ということしかしてはいけない。だからオンネスに次のように質問するだろう。
学生 「オンネスさん、あなたが膨大なお金を使って研究している「極低温」という研究が成功したらどうなるのですか?」
オンネス 「それは判りません。」
学生 「もし極低温で何かが発見されても、そんなに低温にできないのだから意味がないのではないですか?」
オンネス 「それはそうです」
学生 「それでは研究自体に意味が無いじゃないですか?」
オンネス 「・・・・」

 発見というのは「それまで頭の中に無いことが見いだされる」ことであり、それが次の時代を開くから人類にとって発見は宝物なのである。最初から目標にできるようなことはすでに頭の中にあるから発見でもなんでもない。単なる作業の結果である。

 学生はよく「確認した」という用語を使う。私が「確認したという言葉は学問には適当ではない」と言うと一様に「先生は変なことを言う」という反応をする。この応接は学問的には実に「深淵」な議論なのでおそらく20年は学問を経験し、苦しまなければ会話自体を理解することができないだろう。

 学問は奥が深い。そして社会活動とまったく違うところがある。だから学者は変人である。大学も「変なところ」「社会とかけ離れていてムダをしている」と感じられることが名誉である。それを貫けば次の時代の社会に貢献するという学問の目的が達成される。

おわり