若き教育者へ


― 妥協的生活の中で真実を教えることができるか? ―

 私たち教育者は学生に「真実」を教えなければなりません。小学校の先生から大学まで、教育を受ける児童も生徒も学生も、そして父兄、社会の多くの人たちは、私たち教育者が学生に真実を教えていると信じています。

 もちろん、私も日々、研鑽を積み何とかして真実を伝えよう、真実を教えようと努力していますが、それは現実には不可能というものなのです。

 この不思議なこと、学校の先生が真実を教えられないという不思議な事実が起こる理由は主に2つあります。

一つはすでにこのホームページでも解説をしていますが、私たちは、1)矛盾した人間の頭の構造 2)学問はかならず進歩する、という避けることができない論理構造の中で教育を行っているからです。

人間の頭の情報量は人間が持つDNAの情報量の約1000倍以上ですから、人間がDNAから発せされる本能としての判断に対して、より論理的演繹的に対象を処理しうることは確かです。

 それでも頭脳の判断は強くDNAの制約を受け、主として自己とDNAが自己と類似した個体の保全に有利に働くこと、副次的に身体の五感からのインプットに強い影響を受けることです。

外界からのある刺激に対してまずDNAはすでに先祖からの情報で自己に有利な反応をします。DNAの情報は誕生してから新しく書き込みができないという特徴があり、そのために私たちの父母以前の経験から化学的に変質したDNA上の情報に基づいています。

従って、それが自己保全の為に出動するのは納得できることです。しかもドーキンスが指摘しているように、この場合の自己とは本質的には自己のDNAの保全であり、自己の肉体自身ではないという複雑な関係にあります。

五感はDNAの情報構造を発動するのに補助的な役割を果たしますが、それでも五感で感じた物は直接、脳の判断に影響を与えるという特徴を有しています。

平均気温を遙かに超える外気の中に行く必要を生じたとき、五感に基づく予感は直ちに脳に行かなくてもすむ方法の探索と、行かなければならなくなったときの回避の言い訳を命じるようです。

一般的には冷静で論理的と考えられる脳の活動は、かなり強くDNAの情報や五感から来る肉体の損耗を防ぐような方向に働くのです。

それでいて、脳はDNAに対して1000倍の情報量を持つので、自らDNAの指令に反する論理構造を取ることもできます。その一つがこのホームページでも整理していますように、「人間の男性に性欲がない」という事実です。

ここではこの問題を深くは論じませんが、人間の男性に性欲がないのは脳の情報が独立に幻想を構築したためであり、このような例は男性の性欲ばかりではなく、さらに些細なことで私たちの判断を非論理的にしています。

このような脳の非論理性は文学や芸術の創作意欲のドライビング・フォースになっており、それ自体が人間の文化を形作っています。しかし、論理的な正確さという点では大きな問題を抱えており、それは私たちが「真実」という物に接近するときにはさらに注意しなければならないでしょう。

教育者が学生に「真実」を教える時の第一の危険性は「自分の身を守る為に若干でも真実から離れていないか?」ということを反復、反省しなければなりません。それは一見して自己防御と無関係に感じられる物理法則でもそうなのです。

マスコミが「地球温暖化」という用語で社会に恐怖を植え付けると、それはその社会を構成している人の頭脳に働きかけ、自己を守る方向の思考体系を形成します。

そのような環境の中ではたとえ中学校の物理程度の問題、
「北極の氷が溶けると海水面があがり、平野が水没する」
と言う誤った文章をついそのまま納得してしまう可能性があります。

 次に真実を示すことができない第二の基本的矛盾は学問が進歩するということです。進歩とは「これまで真実であったことを覆す」ということですから、私たちが現在「真実」としている学問的知見のほとんどは間違っていると言うことになります。

 たとえば平安時代を考えてみます。当時、雷という現象は「空に雷神様がおられて地上の雷を落とす。時に菅原道真のような特別に偉く不遇な人は他界してから雷神になることができる」と考えられていました。

 現在の学問では完全に否定されますが、もともと「電気」という概念ができたのが19世紀ですから、わずか150年前には電気的現象はすべて別の原因に帰せられていたのです。

 また平安時代は病気は悪霊が引き起こすものとされていました。だから病気を防ぐのはもっぱら悪霊が憑かないように気をつけるとか、病気になったら神仏に祈るのが正しい方法だったのです。

 病気が最近のような小さな生物が人間を攻撃して起こることであり、本質的には人間がライオンに襲われるのと同じであるということは、これもほとんど電気の発見と同時期なのです。

 私たち人間は自己を防御するために頭脳が働きますから、「平安時代の人は間違って考えているが、現代は1000年前とは違う。現代は正しい」と思いがちです。そう思いたいという私たちの願望はあまりにも強く、その幻想を消すのは容易ではありません。

 人類は600万年前に誕生しています。だから1000年という単位はこれまでに6000回来ているのです。もし私たちから見て平安時代が間違っているなら、平安時代から見るとその1000年前、つまり弥生時代の終期は間違っていることだらけに見えるでしょう。

 それでは紀元3000年の人から見て、現代の私たちの生活は原始的でしょうか?そして学問は十分に進歩しているとしてくれるでしょうか? そうではないと考えることができれば脳の情報の構造矛盾から解き放たれた状態なのでしょう。

 かくして、私たちが「真実」として教えているものはほとんど間違いの可能性があります。だから教育者は学生に真実を教えられないと考えられます。

 第二の困難な点は、もともとかくのごとく不安定な「真実」を前にして、さらに私たち自身の生活が「真実」に対してきわめて妥協的であることです。この場合の生活とは学問的に進んでいくことと、本当の日常的な家庭生活などを含みます。

 人間は日々の生活や友人関係などに強く思考が制限されます。従って、普段の生活が真実から遠いと、なかなか何が真実かという判断が正確にはできなくなります。

まず最初にかなり学問的な衣を着ているが日常的な制約のもとで進む例を示したいと思います。

 私の専門は材料資源ですが、このような古い学問の基礎的な分野で、ヤング率という性質があります。学問的には外部から掛かる力に対してどの程度の応力が生じるかという比率ですが、簡単に言うと材料の固さとも言えます。

有名な外国の学者の本に「プラスチックのヤング率は架橋度で決まる」とされています。材料のことを知らない人はヤング率も架橋度もイメージがわかないので、判りにくいと思いますが、ある程度、知っている人はこの文章に違和感を感じないで理解するでしょう。

しかし、これは間違っているのです。プラスチックはよほど特別なもので相互に構造が類似しているものなら、狭い範囲でヤング率が架橋度によるといって良いのですが、到底「プラスチックは・・」などとは言えないのです。

 なぜ、教科書として有名な権威のある書籍に材料の基本特性が誤って書かれているのでしょうか?それはプラスチックという社会でもっとも多く使用されている材料の基本中の基本の性質ですら、あまり研究されていないからです。

 学問は発達し、これまで真実と思われていたことを否定するのですから、プラスチックのヤング率が間違って認識されていてもかまわないのですが、教育者が学生にこれを真実と教えてはいけないのです。

 本来、私たち学者が日常的に真実に対してもっともっと厳しい態度を取り、どんなものでも曖昧さがあったり、厳密ではなかったりすれば直ちに糾弾するという習慣があれば、このような間違いは比較的早期に修正されると思います。

 でも私たちはおおむね自分のことに忙しく、それほど他人が著述した内容を事細かにチェックする時間はなく、すべては曖昧の内に進んでいくからです。

 ただ、生徒のせよ、学生にせよ、経験が浅く、学問というものをより深く理解していない人たちは、「習ったことは真実だ」「本に書いてあることは正しい」と思いがちです。そしてこれも脳の構造の問題ですが、自分が「最初に見た物」は「次に見た物」よりより真実であると思う特徴があります。

 この「刷り込み現象」は水鳥が親を識別する論理で有名ですが、実は人間の脳も同じような判断をする物です。従って、予習してきた学生があらかじめ「プラスチックのヤング率は架橋度で決まる」と知っている場合には、教育者がそれを否定しても学生は納得しません。

 納得しない理由は単に「前の日に違う記述を見た」というだけなのですが、それに脳の幻想回路が働き、自己弁護の論理を立てるからです。

「ダイオキシンは猛毒」という錯覚はさらにこの種の幻想の典型例です。真実は「ダイオキシンの毒性はきわめて弱い」のですが、学生は大学に入る前からマスコミによってダイオキシンは猛毒だと刷り込まれているので、学問的説明で覆すのはなかなか困難です。

「洗脳」という現象もこの一つで、人間の脳がいかに先行して頭脳にはいる情報を大切にするかが判ります。

さらに社会的には複雑なことが起こります。

その良い例が「森林が二酸化炭素を吸収する」という非真実です。もちろん現代の学問では、「森林は二酸化炭素を吸収しない」のが正しいのですが、この場合は社会的利害が判断を狂わせます。

京都議定書であれほど日本は正義を主張し、二酸化炭素の規制を唱えましたし、森林関係者は絶好の機会が来たということで、補助金を取ろうとしました。

そうなると、今となって冷静になっても、あれは間違いですと言いにくいので、良心的な人は黙り、普通の人は相変わらず森林が二酸化炭素を吸収すると言うことになります。

日常的にはこのようにさまざまな理由によって真実から遠ざかっているのです。

 よく入学試験の弊害と言われますが、入学試験も良いところがあります。それは、ここに挙げた例は、入学試験問には絶対に出せません。「森林が二酸化炭素を吸収する」というのを正解にすれば、学問的には間違っていることになりますし、「森林は二酸化炭素を吸収しない」を正解にすると、ほとんどの日本人の幻想に反するからです。

 学問的な問題で入学試験に出せない対象が多くあることは驚くべきことです。

 家庭生活などはさらに曖昧で、ともかく今日一日が楽しく無事に過ごすことができれば、それが学問的に正しい正しくないなど関係なく過ぎていくし、それが「正しい」のでしょう。でも厳密な学問を教える立場から見ると、日常的に起こる「曖昧さ」はかなり気になるもので、現実的にはそのような曖昧さから距離を置いておかないと自らの判断が真実から離れていくのです。

 この文章を読んだ多くの人は、真実が無いと言ったり、無いと言ったり統一sていないと感じたと思います。それこそ私が唯一信じていること・・・私たちは正しいけれど、同時に絶対に間違っている・・・という矛盾した結論なのです。

 仏教を少しかじった人ならこのことはすでに今から2600年前にお釈迦さんがお話になっていたこと、非AはAなり・・・を知っていると思います。それが真実を知る知恵らしいのです。

 教育とは難しい。人を教育するのだから自分は正しく無ければならないけれど、自分は決して正しくないからですが、それを知って教育するのと、自分が正しいと思って教育するのでは、経験から学生の成長はかなり違うのです。

(おわり)