研究というもの


 学問の内的条件は進歩であって、進歩とは現在の概念や状況を否定することである。従って、学問が現在正しいと思っていることが学問それ自身によって間違いであるということを証明されるのを待っていると言える。つまり「学問は常に時代遅れになることを自ら欲する」であり、今、正しいと考えていることが間違いであり、否定を目的とするならば、現在の認識によって合理的に立てられる研究テーマは間違いであり、その行為は学問ではないとできるのである。もし、学問がなにをなすべきかについてその答えを持ち、しかもそれを追求できるならば、それは新しい概念を生むことができない。

 このことは具体的に次のような研究につながる。研究では「有望」と判っているものは行わない。有望とわかっているものは、すでにそのように判断する何らかの学術的根拠があるので、すでに研究ではない。特に、産業界との共同研究においては、「産業は今を正確に認識し、近い将来を予測することが出来るが故に、将来を生み出すことは出来ない」、一方、「学は自ら時代遅れになることを望むが故に、新しい時代を切り拓けるが、今必要なことはできない」、という原則がある。産業は収益を第一として研究開発を進めるので、通常の場合は「有望なものを手がける」ことになる。従って、将来を生み出すことは苦手になる。これに対して、学問は自分を否定するので、成功率は低いが新しい時代を切りひらくことができる。

 しかし、研究費の公的補助を受けるためには「すでにこのようなことが知られていて有望であり、収益の上がる結果をえる」と申請書に書くことは必須である。

 工学は「自然の原理を応用して人類の福利に貢献する学問」であることから、社会との関わりが深い。歴史的には社会への技術のもたらす影響が大きくなるに連れて技術の成果と社会との距離が近くなった。19世紀の技術は「その作品をショーウィンドウに飾るだけ」で、そのうちどれを選択するかは主人である社会が決めると言われたが、20世紀では技術の成果が直接社会に投入されるようになる。

 社会との関係できわめて深刻で重要な事件が原子爆弾の製造とその使用である。

 写真は原子爆弾を産んだ「優れた」科学者であったオッペンハイマーと、左は長崎での原子爆弾投下のあと、死んだ弟を死亡した両親に代わって集団埋葬地の前に連れてきて立ちすくむ少年である。人類にとって最高の教育を受けたオッペンハイマーとまだ教育を受けていない少年のどちらが「優れて」いるのだろうか?


 この厳しい問いは一面的ではあるが技術における教育の本質的意義を問うものである。工学教育は単に技術的な能力を磨くばかりではなく、それと調和した人間的な力を高めなければならない。自ら工学研究を担当し、次世代の工学技術者を育てる立場にあって、このことがもっとも実施困難なものの一つである。博士論文を著しても、誠意がない学生がいる。修士論文が立派でも講義室では一番前に座って、最初から机の上に頭をのせて眠っている学生がいる。それらの学生を「不可」にするべき理論武装もできていないし、また自分だけで判断することにも無理がある。
 
 道は長い・・・