工学教育と産学連携


1. はじめに

 現代は、産業や社会の変革期にあって、工学教育もその中でともに悩んだり、方向性を失ったりしているわけですが、ここでは「工学教育とは一体何か、何を教えるべきか」について、産学連携を軸にして考えたいと思います。

 お話しする上で特に注意しておきたい点は、教育はその国の風土や発展段階に非常に強く依拠しているわけで、アメリカで成功したからといってそのシステムをそのまま日本に持ち込んでもうまくいきません。ここでは、多少広く、日本の文化などにも触れながら話したいと思います。


2. 大学・工学・産業

【大学の機能】

 まず、大学の機能と連携について、基礎的ではありますが、少し整理して述べたいと思います。

 従来、ドイツなどでは、「研究と教育が連携して大学をなす」--つまり、知の伝達(教育)だけをやれば専門学校になりますし、研究だけでは研究機関と同じですが、それが一緒になって初めて"大学"を構成するというふうに長く言われてきました。現在でも「知の創造活動」「知の伝達活動」は大学の主要な機能になっているわけですが、最近は大学の社会的な位置という点で、「知の発信」も非常に重要視されています。


 現在流に大学の機能をまとめますと、 ①大学で創造的に形づくられる「知の創造」と知の蓄積、 ②教授が学生に教育するという行為で代表される「知の伝達」、③リエゾン・オフィスやインターネットによってなされる「知の発信」であり、大学はその3つをまとめた知を集積して、それを社会に発信することによって社会的な価値を生むと定義できるのではないかと思います 。

【工学の目的】

 学問を議論するときに、常に行ったり来たりすることが多いのですが、その理由の一つに、学問はいろいろ種類があって、「直接的に人類の福祉に貢献することを目的とする学問」と「それにはこだわらない学問」の2種類があるからです。例えば、ここで論じるような工学や農学、法学などは直接的な社会に貢献しなければ、その学問としての意味を持ちませんし、一方、天文学とか文化人類学などは直接的な社会への貢献とは一応切り離された学問です。

 工学の目的は、「自然の原理を応用して人類の福祉に貢献すること」であり、これは工学の発祥の時からそういうふうに言われ続けてきています。逆に言えば、人類の福祉に役立たないものは工学ではないということになります 。

 大学における工学または工学系大学における研究や教育はどういうものかということを考えてみますと、例えば工学系大学である程度研究して、研究成果が上がる--つまり、知の創造という機能が働いて、何か果実が得られる。それは大学から見ると果実でありますが、産業界で活用されたかどうかという分かれ道に立ちまして、それが産業界で利用されれば、それは学の成果が人類の福祉に寄与したということで"工学"の仲間入りができるわけですが、それがお蔵に入って永久に使われなければ、それは工学の体裁はとっているけれども現実には工学ではない--ということは、工学大学の成果では無いということになるわけです。多少、極端な議論で恐縮ですが、次の図の流れと思ってもらったら良いと思います。

 例えば、ある工学系の先生が30年間一生懸命ご研究されてきた。そして、「知の創造だと思われる成果」を上げられたけれども、残念ながら先生が退職されるまでそれは産業界では利用されなかった。そうすると、その先生は工学の大学に所属していたけれども、工学をおやりだったかどうかは定かではないということになります。没後30年くらいたってそれが応用されたら、そのときに初めてその先生は「工学の研究者だった!」ということがわかる--現在の日本の工学大学は、こういうことをかなり厳密に考えたらいいのではないか。この論理は多少強引ではありますが、産業にアウトプットがつながらないと工学ではないわけだから、学と産の関係を考える上で一度は通った方がよいモデルであると思います。
 このように、産学連携がなければ工学大学は存在せずと言えるわけで、工学においては「産学連携が必要か?」という議論を要しないほど必然的なものと思います。

【学の内的条件は進歩である】

 しかし、これに対しては非常に強い異論が予想されます。工学や農学は実学であるがゆえに、実用化されなければ学問ではないという、特別な「学」なのか? そうではないはずだという意見です。

 マックス・ウェーバーの「学」の定義によれば、「学問の内的条件は進歩であり、進歩とは現在の概念や状況を否定することであり、したがって学問が現在正しいと思っていることが学問それ自身によって間違いであるということを証明されるのを待っている。それゆえに"学問は常に時代遅れになることを自ら欲する"のであり、今、正しいと考えていることが間違いであり、否定を目的とするならば、現在の認識によって合理的に立てられる研究テーマは間違いであり、その行為は学問ではない。もし学問が何をなすべきかについてその答えを持ち、しかもそれを追求できるのならば、それは新しい概念を生むことができない」。つまり学問は我々が何をなすべきかという問いには答えないというのが基本であります 。


 では、「社会で応用されなければ工学ではない」ことと「学問は何をなすべきかの問いには答えない」ということはどのように関係しているのか。見かけ上は全く相反するように思えますが、そうではありません。

 1つには、大学で行われる研究は方向性を持ちません。大学でつくられる教育プログラムは産業の要請を直接満足する人材を養成することを目的とはしません(この理由については後に述べます)。教授の心の赴くままに研究テーマを設定し、それを追求するわけですし、その行く先を聞かれれば「産業に役立つかどうかわからない」と答えるでしょう。産業に役に立つことがあらかじめわかっている研究は学ではありませんし、産業に役立つと明白にわかっているなら、産業が実施するはずだからです。もし、産業が自ら実施しないということであれば、それは行動に矛盾があると言えます。

 一方、産業というのは、競争しながら利潤を求めていくことが基本ですから、どうしても現在正しいと予測されるものをやることになります。それに対して、学は、先ほどのマックスウェーバーの定義にもありますように、現在正しいと思っていることを打ち壊していくというところに学の存在価値があるわけだから、学は現在正しい思うことはやらないことになります。

 それでは、産業は現在正しいと思うことをやり続ければ将来が見えるのか。

 実は、現在正しいと思うことは、しばらくたつと必ず行き詰まります。そして、今まで正しいと思っていなかったものがやがて正しくなる--これが学のもたらすものです。  ちょっと雑談めきますが、昔、デパートが非常に良かった。デパートは何でも揃っているし、そこに行くと夢がある。みんなが「デパートがいい」と言っているときにデパートを一生懸命に改善したのが産業でした。そのうち、スーパーが出てきた。そうすると、これは便利だ、非常に安いし、大量に物質が来るというので、一時はスーパーばかりになった。そしてスーパーをいかにして良くするかということだけに目が奪われた。ところが、だれかがコンビニエンス・ストアを持ってきた。最初は、狭くて、物は高いし、品数も置けないし、あんなものははやらないだろうと思っていたら、スーパーを追い抜くくらいに発達した。今、コンビニエンス・ストアの次を考えられなければ「学」ではない。

 つまり、物事の発展には、現在の延長線上で合理的だと思われるものと、それを打ち壊すものの両方がうまく"協奏"して、初めてある進歩としてあらわれます。ですから、産業界が「未来が見えない」ということは非常に重要なポイントになります。


 産業界は「未来が見えない」、大学は「今を見ない」という2つによって、社会の将来を拓くというのが産学連携の持つ意味で、産学連携というのは高度に工業化された社会ではこの矛盾をシステム的に解決する一つの合理的な方法であるということが言えます。

【世界の工学系大学における産学連携:スタンフォード大学の例】

 産学連携で世界でも有名なスタンフォード大学は、自分たちの大学で生まれたものをシリコンバレーに持っていって、そこで育てているというふうに単純に見えます。しかし、スタンフォード大学は非常に強いガイドライン--教授が産業と話すのは基礎研究だけである--を持っておりまして、そのガイドラインが実際に守られているかどうか、責任者が監視するという念の入れようです。そして、最後に外部から大学への資金の導入によって、大学の研究の質が低下しないか、企業の下請になっていないかという、長期的視点からもチェックが行われています。


 スタンフォード大学の技術ライセンス収入は、アメリカでも1、2位で、年間の技術収入だけで約60億円に達します。契約件数は毎年2,500件、1件当たりの大学の収益は240万円程度で、かなりの額に上ります。「スタンフォード大学のようにダントツの研究陣がいれば当然だよ」と思われるかもしれませんが、実際はそれほど単純ではなく、長年の経験と詳細な計画、そして慎重な戦略と優秀なスタッフを"ライセンス・オフィス"に置いて活動しているからだと大学の関係者は言います。

 ライセンス・オフィスの運営の骨子は、 ①教授と学外の提携先とを接触する機会をつくり、提携先の技術顧問などの職につかせること、 ②大学の基礎計画に限定して受託研究を導入すること、 ③企業との間に適切な契約を結ぶこと、です。

 ですから、先生方が企業の人たちとお話しする機会はできるだけ多く持とうとするけれども、そこでは応用研究の話をしてはいけないことになっています。実際上は、企業はもともと基礎研究には余り興味がないので、どうしても応用研究の話になりがちですが、そこのところに一つのガイドラインを持つことによって、スタンフォード大学の価値を保つ。つまり、スタンフォード大学の産業への価値は、一般に考えられているように、産業で使われることを創造する価値ではなくて、産業では創造できないことを創造することである。ですから、ライセンス・オフィスの責任者の話によると、「そのガイドラインを間違うことが産学連携の失敗のもとになっているんだ」とおっしゃっておりましたが、私も同感です。



3. 日本の独自性

【ミスマッチ】

 そういう点から考えると、現在の日本の大学と産業は、いろいろな点でミスマッチがあるのではないでしょうか。研究にしても工学教育にしても同じであります。

 なぜ、ミスマッチが起こるかというと、現実には日本はアメリカと同じようにヨーロッパの大学の制度を入れ、ヨーロッパとともに進んできたわけですし、工学大学が成長する過程では、常にアメリカとヨーロッパを見て改善しながら進んできたわけですから、非常にアメリカと似てくるはずです。しかし、現状の日本の工学大学はアメリカの工学系大学と非常に大きく違います。その原因は、社会の体制とか国民の風土に依存しているのではないかと思われます。

 その一つとして、これはよく言われますが、アメリカは専門家社会でありまして、それぞれの専門家が集まり、実施することによってあるターゲットを達成するという考え方ですね。したがって、専門家が1人減れば、その専門家を補充するという形で物事がなされる。ところが日本の場合は、昔から農耕社会であるということもあって、10人の平凡な人が集まって、その人たちが知恵を出し合ってターゲットを求めます。したがって、人材の求め方も1人欠けたら、10分の9になったから10分の10にしようということで、1人補充する。この過程で専門ということが重要視されない。したがって、大学のときの専攻は忘れていいよという話になり、大学院のようなより専門的な教育は軽視されるようになりがちです。

 ですから、現在の国民所得はアメリカやヨーロッパと日本はほとんど同じなのにかかわらず、大学院に在籍している人口比率はアメリカが7.7人に対して日本が1.3人という、6倍という大きな違いが出ていますが、これは大学の体制とか大学の努力というものに全く関係なく、社会の仕組みがそうさせているということになります 。


 もう一つ、日本の企業は人材を求めているだけで、その学生の能力を認めていません。これは工学教育プログラムの分科会で検討されたことですが、学生が何を考えているかというと、「大学4年間、全く勉強しないで卒業したいと思っている」。その学生に対して、いかに工夫しても、おもしろい講義は不可能であるという話になったのです。つまり、若者は目標がはっきりなければ勉学はしない。例えば、企業が入社試験のときに、学生の専門能力を求める形が必要であろう。

 しかし、これは非常に根が深くて、日本の企業は個人の能力で組織を構成していません。ある大手の電機会社が研究所長を求める場合、社内から年次順だとか、能力などを考えて研究所長を選任する。ところが、そもそも"研究所長"はどういう職務を持っているのか明確ではないんですね。ある研究所長は労務政策を一生懸命やっている、対外的なことをやっている人もいるし、実際に研究を指導している人もいる。では、会社が"研究所長"は何を期待しているのかと聞いても、会社は「一生懸命やってくれよ」という話になるわけです。

 ですから、日本の場合、研究所長を外から求めることはできないわけです。研究所長を外から求めるときには、「こういう能力がある人」「こういう職務をやってくれる人」ということをきちんと定義しなければいけない。しかし、日本の会社には研究所長のような明確な職務であっても、定義がありません。だから、社内から人材を登用しなければならないという風土もありますが、それに加えて日本の社会がポジションに対して明確な要求を持っていないとことも言えると思います。

 それに対して、大学の方がずっと進んでいまして、大学では教授のポストが一つ空くと、その教授は何を専門として、何を講義するのかということを明確に示して公募する。そういう点では、日本の企業より日本の大学の方がはるかに人事的には開かれた社会であるということが言えると思います。

 もちろん企業は急激に職種を変更しなければいけないときもあります。例えば、今まで化学会社だったのに電気的なものをつくらなければいけない。そうすると、電気会社からそういう人を引っ張るか、小さな電気会社を合併するか、もう一つは新しい電気の学生をとるかという、3つの選択肢があります。ここ20年くらい、社会が急激に変化してきた中で、各企業はどうしていたかというと、全部、学生を採って自前でやったんですね。

 どういうふうにやったかというと、新卒を大学からとるわけです。その上に、今まで化学だった専門の人を電気、電気だった専門の人は化学というふうに切り換えて、その人を上司において、ある研究チームを作るというやり方をしてきたんですね。

 日本の専門性の軽視ということがそういうことをさせるわけですが、これはなかなかうまく行きません。業種の転換がうまくいかないのは、「日本では合併が行われないから」とよく言われます。そういうことももちろんあるでしょうが、日本流の"専門無視"ということが、日本の会社のダイナミズムを失わせている大きな原因ではないかと考えられます。

 余談ですが、もちろん、日本でもヘッドハンティングとかいろいろ言っていますが、非常に特殊な例であるということ、そこで動く人は実力のある人が動いているわけではなくて、二、三番手くらいなんです。例えば、大学の教師を雇う場合、日本人の先生は必ず専任であること、終身雇用を求めますね。給与を少し低くてもその方がいいと。これは日本人の一つの習慣でもあるし、欲求なんです。それに対して、アメリカ人の先生を雇う場合、1つの大学に縛られたくないから3年の契約にしてくれ、そのかわり給料は少し高くしてくれということになる。

 これは善し悪しは難しいんですが、そういう文化の差があるということは確かですね。ですから、ヘッドハンティングがいくら今騒がれても、いい人材が移らないから、結局はそれが日本の会社にとってプラスにならないという結果になります。

【工学と芸術】

 次に、日本独自の文化と風土と工学の関連について考えてみたいと思います。

 工学というのが日本では純粋な学問と見られたり、産学連携というと少し汚れているように見られたりするという、日本の特有の"潔癖感"というものがあります。この潔癖感がいろいろな点で日本の工学を遅らせているわけです。

 それには2つ理由がありますが、日本人は工学をすぐ芸術に転化したがります。例えば、奈良の大仏殿などや大きなものを作るという、非常に優れた工学技術を持っていたけれども、大仏殿の建設技術はその後、民家などには余り役立たず、建築物はむしろ優雅な方向へと変身し、茶室に象徴されるような"庵一つ"になっていく。また、東大寺大仏の鋳造技術を支えた金属工学もだんだん工芸品になっていく。

 そういう例は非常に多いのですが、例えば山口県の萩市に萩焼が朝鮮から入ってきましたが、当初は庶民のよりいい食器をつくるために入ってきたのに、直ちに芸術的な萩焼というものできて、そうなると庶民は触れなくなる。

 不完全なものでもいいから、それをどんどん使っていって、福祉に役立てよう、生活の向上に役立てようというのが西洋流の工学なんですが、日本はどちらかというと非常に芸術性が高いので、生活はほどほどにして、芸術の方に傾くわけですね。これは、あるいは日本文化の方が西洋より優れているということも言えないわけではないのですが、それが逆に言えば、日本の工学の発展の妨げになって、きれいなもの、純粋のものにすぐ行ってしまう--そういう傾向は日本の工学の学会などにも見られます。

 幕末の幕府の伝習取締でありました永井尚志は、海軍伝習所における軍艦スームビング合の訓練を担当しましたが、彼の頭の中には日本式の工学が入っていたんですね。日本式の工学というのは、それ自身が完成しているというイメージが強かったわけです。ところが、運転してみると、しょっちゅう故障が起きる、故障が起きたら、工具をオランダまで取りにいかなければいけない。「工学というのはきちんと完成されたものではなく、不完全なものを進行させながら、絶え間なく起きる破損や修理に対処していかなければいけないものなんだ」ということを体得したわけで、それは西洋の工学に初めて接した人の驚きだったわけです。

 しかし、その驚きも100年も経ちますと日本文化に飲み込まれていき、「一国の支配より茶器一つ」という香り高い日本文化が工学の進歩を欧米とは別の方向に引っ張ってきて、スキルとか技能とかいう実用的なものは、少し格が低いものというふうに思われるようになった。これはアメリカなどと非常に違う点で、文化のもたらす工学の変質であろうというふうに思われます。

 少しまとめますと、産業が大学で専攻した学問を評価しなければ、学生は大学で勉強する意義を見出すことができません、先生も勉学意欲のない学生を毎日相手にするのが嫌になって、宿題を出す気にもならない。それから、スキルを軽視していくと、大学教育は少しずつ"象牙の塔"になっていくんですね。架空のきれいなものを求めていくことになるのではないかと思います。

【南洋理工大学とメリーランド大学の例】

 工学教育という点で、先ほどの教育プログラムを体系的に実施しているシンガポールの南洋理工大学の例をご紹介します。

 南洋理工大学は「工学は学と学をもたらすスキルが結合しているものでなければいけないし、それは常に産業と連続していなければいけない」という考え方で、大学卒業に義務づけられている144単位のうち17単位は産学連携教育プログラムとするというものです。2年、3年とそのプログラムをやることにより、学生も継続的に産業とスキルというものに接しながら工学をやる。それによって工学教育が正常になるという考え方ですね。ですから、スタンフォード大学は警戒していますが、南洋理工大学が産学連携を警戒していないのは、144単位はちゃんと学ばせており、その中の127単位はアカデミックプログラムで、これはキチンと学をやっている。しかし、その学は17単位の産学連携とスキルや実務を伴ったものでないと、工学というものの教育はうまくいかないのではないかというのが南洋理工大学の考え方です。


 もう一つの例として、アメリカのメリーランド大学ですが、ここでは大学同士の協定を含む「デザイン科目」というべき科目を設定して活動しています。この教育プログラムは産学連携のもとで実施されているほか、NSF(アメリカ科学教育財団)がバックアップし、ペンシルバニア州立大学、MIT、ワシントン大学など6大学で「工学教育のリフォームのための大学間協定(エスカル連合)」をつくって進めていることが特徴です 。

 例えば、衛星放送の画像の高速化をどうするかといったときに、具体的に生じる作業がありますね。画像を高速化するときには、タイプも打たなければならないし、画面を見なければいけない、そういったものが全部含まれているわけですが、それに学問が付け加わって、初めて工学というのが目の前に出てくるんだということを学生に教えるのがメリーランド大学の試みです。これを大学連合でやっているわけですが,それは大切であるからやるというより、むしろアメリカ人の"肌に合うからやる"という感覚ではないかと思われます。むしろわれわれが、この2つの大学の例で学ばなければならないのは、その国の文化や風土に即して、学生が興味を持て、意義を感じるカリキュラムを組もうとする大学の意志ですね。それが大切だと思います。それなしに、シンガポールがインターンシップをやっているから日本もやろうとか、アメリカがデザイン科目だからでそれだ、ということになりかねません。

 日本ではどうかというと、日本の文化の中に工学が埋もれてしまう--これは文化的に消えていくわけです。後で"アフォーダンス"という言葉が出てきますが、人間が判断をするときに相手から何か受けるものがないと、自己の判断が非常に論理的になったり、かつての、原始時代から埋め込まれている遺伝子的な判断に支配されたりして、一方向に進んでしまうわけですが、日本の工学教育はそういう状態になっていると思うのです。

 大学が外に対して閉鎖されているとか、大学が産学連携をやっていないということは何を意味するかというと、本来、我々が体質的に持っているものの方に進んでしまい、それが良いんだ!という結論に達してしまうということです。

 例えば、日本の大学では、教育プログラムを策定したり、改善するときには、学部長室などの大学執行期間や教務委員会などが立案し、教授会で「純粋な大学教育の立場」から議論され、決定されます。これに対して、諸外国では多くの大学が教育プログラムの検討に当たって産業界の参加は欠かせないとしています。

 日本では「産業界の要望で大学が工学プログラムを作るとはなんということか! 大学で純粋にやる」と言いますが、その"純粋に"とは何を言っているかというと、それを構成している人たちの文化がそのままずっと前に出てくるわけです。だから、それは浮世離れした、特別な集団に変化していくという過程をとる恐れがあるということです。 韓国の工学の人と話をしたことがあるんですが、「韓国は日本よりアメリカ的である。アメリカの大学の形式はすぐ取り入れてやっている。それなのに、やってもやっても日本的になってしまう」と言っていましたが、そのことを認識していればかなり良い方だと言えるかもしれません。

【日本の研究と製造の関係】

 これは少し厳しい言い方かもしれませんが、工学とは研究成果が実用化されて、初めて工学となるわけです。ところが、歴史的に、非常に残念ながら、日本で製造業が使用している技術のほとんどは、アメリカで研究成果の出たものであります。アメリカの製造業はアメリカの大学、国立研究所や企業の研究機関での研究成果をもとに事業化しますから、産業は常に大学や研究機関を向いていないといけない。片や、大学や研究機関にとってみると、自分たちの研究をものにしてくれるのは産業ですから、常に産業とはつながっているという、これは歴史的にそうなっています。

 ところが、日本の産業は、常にアメリカでできたものを持ってきていますから、目はアメリカを向いているわけです。つまり、日本の製造業は日本の大学や研究機関を見なくていいわけです。そうなると、日本の大学や国立研究機関も「どうせ、新しい技術はアメリカから来るのだから、時代を先取りしたような研究はしなくていい」ということになり、社会から孤立し、ますます研究テーマは新しいものが少なくなるという悪循環をもたらします。


 これは大学に限ったことではなく、企業の研究所もそうなんですね。一時、基礎研究所設立ブームがあって、企業が非常にお金を儲けて、自前で基礎研究ができるようになった。しかし、その基礎研究所からは新規事業は出てこない。これはメーカーの人にお聞きになるとわかりますが、どの産業でも似たり寄ったりです。

 そのうち、研究所に資金を投入してもダメではないかと。実は、明治以来、日本の研究からは日本の製造業にほとんど何も出ていないわけです。このことが貿易摩擦に原因になっているので、彼らにとっても、日本で発明したものが日本で企業化され、それで我々が圧迫されるならそう腹も立たないけれども、自分たちが発明したものを日本の製造業が使って、そして我々の労働者を駆逐するのは我慢できないということです。

 アメリカの研究成果を「日本が常に受け取る」などということは、いつまでも続くわけがありません。ですから、日本の製造業が大学を常に見て、大学が常に製造業を見ていなければいけないわけです。ところが、日本の研究が産業界を見ていないと言うのは日本とアメリカの研究費における研究テーマの配分を見ると判ります。


 アメリカは1980年代から非製造業テーマ(情報テーマ)に大きく切りかわって、今では25%です 。日本はかつての5%の情報関連テーマをそのまま引き継いでいます。この差が、産業と研究がつながっているかどうかということを如実に示しています。


4. 産学連携と工学教育プログラム

【国の発展と工学】

 21世紀の工学とか、日本の将来の工学はどうあるべきかを論じたいのですが、現在の工学教育ですら、そんなに満足にはいっていない状態だと考えています。ここでは、産学連携という軸を離れないようにして、日本の工学の問題点、工学教育の問題点を探ってみたいと思います。

 1つには、時代の変化を強く意識しなければいけないということがまず挙げられると思います。つまり、国の発展というのは、発展途上の段階→高度成長→成熟社会へという道筋をとっていきますね。この道筋は工学自体が計画した道筋なんです。

 20世紀は工学が主体となっています。新幹線を工学がつくれば、もう新幹線を敷くということ自体、社会は止めることができない。新幹線で新しい車両をつくったら、古い車両にはもう乗りたくないというふうに、20世紀は工学がやったことをほかの学問やほかの社会システムが止められない世紀であったわけです 。

 物質文明もそうで、一方方向に物質が豊かになってきたのは、工学がそれをやったからです。工学がやったことによって、物質が非常に豊かになり、赤ん坊も死ななくなって、寿命が長くなるといういいことも起こったわけですが、片方で環境が破壊されたりという負のことも同時に起こりました。

 大学を取り巻く環境としては、 1、物質が非常に豊かになる、 2、価値観が非常に多様化した、 3、現実が喪失されてきたということが挙げられます。「現実の喪失」ということは、空調が効いているビルの中で冷蔵庫から物を出して食べるという生活と、畦道を裸足で走って、虫をとって食べるとか、木の実をとって食べるという生活を比べると、現実に接している度合いが違うわけです 。

 これらを作ってきたのは工学です。ですから、工学はそれを承知の上だということも言えるわけですが、社会が成熟し、いわゆる"おしん"型の学生はいなくなりますと、勉強する意味がよくわからない、スキルが不足している、創造性が欠如しているという学生も我々の教育の対象であることを非常に強く意識する必要があります。

 現在でも、工学教育の中で、学生が我慢して勉強しないとか、順序よく教えても覚えないと言われますが、それは当たり前のことで、いわば工学自らが求めた豊かで人工的な社会の中での出来事だというふうに思います。

 もう一つ、ちょっと難しいのですが、「学問」側の変化があるわけです。「学問」側というのは、発展途上では物を効率的につくるという学問ですから、機械工学とか設計、製図とかいった学問です。

 橋を例にとりますと、昔は橋を川に架けるという力学計算が非常に大切で、土木工学科は一生懸命にそれをやったわけです。土木はオーダーメードという感じは建築よりはありますけれども、それでも今は力学計算に重きが置かれるわけではなくて、橋は美術的にどうできるか、地方とどう調和するか、最近では環境的にどうかということを必要とします。そうすると、土木工学科は何を学ぶかというと、土木工学を学び、デッサンをし、地方行政法を学び、そして環境を学ばないと橋ができないというふうに変わっていくわけです。

 では、デッサンができる人が橋ができるかというと、やはりできないですね。例えば、日本の橋とスイスの橋を比べると、スイスの橋は非常にスマートですが、あれは地震がないからで、日本では地震が起こるからその分補強された橋というものが前提にあるデザインや橋の周りの環境が決まってきますが、やはり工学とデザインとか美術が混合になって、そういう学問の方にシフトしていっています。ですから、時代の流れが学生側にも学問側にも影響を与えており、それが特に工学は社会と直接につながっているから、難しいということになります。

【教育プログラム】

 今まで話したことから、「何が工学教育に必要か」ということについて述べたいと思います。

 社会は変化していきますが、その変化は工学の産物でもありますから、それに応じて工学教育の中身を変えていかなければいけません。どういうことかといいますと、先ほど言ったように、大学の中だけでだけやっていますと、知識が"文化"みたいになってくるので、必ずそこに外からの参加者が必要になります。それがアメリカでやっているいわゆる「産業が大学のカリキュラムに関与しなければいけない」ということです。アメリカでは産業が関与しない工学プログラムは考えられないわけです。 先ほども出てきましたが、日本では「産業界の要望で大学の科目を決定するとはなんということか!」となるし、アメリカでは「産業界の要望と関係なく、科目を決定するとはなんということか!」になることから、工学大学が全く別の発展をしてきたということがわかります。


 もう一つ、最近、日本でも話題になっているインターンシップやコープと呼ばれる一群の教育プログラムがあります。この教育プログラムは、学生が現実の社会活動に接することによって視野を広め、自分たちが勉強していることの意味をより理解する機会として効果があると言われています。
 アメリカではインターンシップを実施している大学は約90%、日本では反対に約10%です。実は、インターンシップの問題は、インターンシップそのものによって学生がどの程度成長するか、ということもありますが、それより工学教育であるがゆえに社会との密接な関係が必要であり、そのためには常に社会と接していなければいけない、その一つの手段がインターンシップなのだと考えます。

 産学連携連携によって教育プログラムを作るときに、産業としてはどういうプログラムが必要なのか、学問としてはどういうプログラムが必要なのかということが明らかになってきます。もちろん、大学ですから、学生の基本的なポテンシャルを上げるための「学」は必要ですが、そのためにはどういう教育が要るのか、「産」としてはどういう教育が要るのか、実際に学生が外に出たときに、直接に求められることは何なのかということが、産業界とともに教育プログラムをつくることによってはっきり出てくるということになりますから、カリキュラムの設定には産学連携が大変重要だと思います。

【学生の評価と勉強】

 学生の評価、成績の評価も産学連携と非常に大きな関係があります。

 大学が大学生の専門性とか品質を保証できるか?というと、今は保証できなくなっています。しかし、アクレディテーションの強い動きを見てもわかるように、社会は大学がちゃんとした学業の評価をして、品質の保証した学生を出して欲しいと願っているわけです。多分、一般の人も大学生がブラブラ遊んでいるのがいいと思っているわけではありませんが、しかし、その方法が見つから無いのです。

 先ほど「学生は4年間遊びながら卒業したいと思っている」と言いましたが、学生が勉強するには、その必要性を感じることだと思うんです。つまり、大学で専門の教育を受ければ、自分に身についた専門性を社会が評価してくれるという確信が大前提として必要です。

 そのためには、まず教育プログラムが産学連携であって、かつ学生が卒業したときに、入社試験で専門を問うてもらわなければいけないということですね。それによって、初めてどの大学はしっかりと専門を教育しているか、したがってあの大学はいいよ、ということになると思うのです。そうすると、その大学でも教育に熱が入り、いい大学教育ができるということになります。

 大学教育は大学自身が努力すれば良いといつも言われますが、この点では大学が反省しすぎだと思います。それよりも産業界がもう少し前に出て、学生に専門を勉強する必要性を感じさせなければならないと思います。そしてこれから大学院教育が進むと大学と合計して6年間になりますから、若者にこの6年間を無駄に過ごさせてはいけないので、社会的にとても重要なことだと思います。

【大学はもっと肩の力を抜いて】

 これは少し軸が違うかもしれませんが、兵役がある国では大学生と兵役の時期が重なりますので、その間、学生は休学します。兵役のときに休学になることが何をもたらすかというと、大学卒業年齢を軽く見ることにつながるわけです。

 日本では、大学時代にボランティアをやりたいからといって1年休学すると、「君、どこでダブったの?」と言われますが、向こうでは大学を何歳で出てもいいよということになる。アメリカの大学で、5年が多いとか、6年が多いとかいっても、内容をよく見ると自主的な休学が結構多いですね。しかも休学のときに授業料も余り取らない。私立大学では休学すると授業料の2分の1取ったりしますから、学生は休学できないわけです。しかも企業の方は、卒業の時の年齢で扱い方が違います。

 しかし、大学の4年間の間に、20歳でやるべきこととか21歳にやるべきことが必ず人間には起こるわけです。そのときに、大学の中にゆとりを持たせるのではなく、休学してやればいいわけです。

 大学では一生懸命勉強をするというふうに、大学のやるべきことを明確にするべきだと思います。大学とは勉学のために入るものであり、授業料も払っているので、その間は学生は一生懸命勉強する。そのときに、自分が人生体験をしようと思ったら、半年なり、1年なり、休学して人生体験をすればいいのであり、それを混合しているところに日本の大学の特殊性があるのではないか。

 これは兵役や社会システムと非常に強く連携しているし、企業の終身雇用制にもつながっているので、解決は難しいんですが、工学大学の中に潜む教育の問題点がそこにあります。教育にはその国の文化や風土が強く影響すると、たびたび申し上げていますが、この例もその一つです。しかし、工学大学は工学の専門性をつけるということを第一義に考えて、教育をするということがによって教育がまともになるのではないかと思ったりもいたします。

 大学は、大学生活で満足することを与えてくれるけれども、大学で満足する以外のことは他の所でやってきなさい。それは大学は応援するし、休学や留年をしても良いけれども、そこも大学に期待してはいけない。大学の教育はそれを両立することは難しいということです。

【大学教育の目的と人材】

 最初にお話ししたように、大学そのものがもともと方向性を持たないということから見てもわかるように、大学教育も方向性を持っていません。しかし、大学教育が方向性を持たないということは、そこで育ってくる人はどうなのかという問題が起こるわけです。

 私は、大学の研究は方向性を持たないけれども、方向性を持たないがゆえに企業ができない新しい未来を拓けるんだと思っております。アメリカではそれによって産業がリニューアルしてきたということをお話ししましたが、人材も同様に、大学が産業に直接役立つ人間を出したら、未来を築く人間はできません。

 ですから、大学というのは"学"として少し産業と離れていなければいけない。工学大学の難しいのは、産業にくっついていて産業と離れていなければならないという、2つの矛盾したことを同時にやらなくてはいけないのですが、それによって未来を拓けるし、未来の人材をつくることができるわけです。

 したがって、産学連携共同プログラムをつくるときに、産業界から何のカリキュラムが要るかということは明確になると思いますが、学から求めるプログラムは、「現在、合理的ではない」ということも大切になります。

 現在考えて合理的ではないということを、大学はどういうふうに学生に教育するかということが、未来を担う学生をつくる上で非常に重要なところです。これは難しいのですが、社会の未来は教育によって人材ができるわけですから、そういう意味では産学連携は単純に産業に適合した教育をするということではありません。

 つまり、新しい人材を古い人材がつくることはできません。新しい人材は学によって、本人たちのポテンシャルでつくっていくというルートが要るので、産業界が深く入ってきて、「大学は必要なこともやっていないではないか」と言ってはいけないということです。


5. 産学連携のガイドライン

【教育の場としてのガイドライン】

 産業は「将来を担保」するために学問を必要とし、学問としての工学は「工学を成就」させるために産業を必要とします。しかし、産学連携をやると、「大学が産業の奴隷になってしまうのではないか」とか「学としての自治を失うのではないか」といった議論が必ずありますので、それを最後に触れたいと思います。

 2つ問題点があると思います。

 1つは、産学連携を進めることによって、学生がレイバーとして働かされるような環境に陥るのではないかということです。例えば、インターンシップをやったとき、大学は学生が学外に出てしまうので、先生はその間は楽だということになったり、一方、産業界は"教育"という視点からではなく、アルバイトと同じように学生を使ってしまう、もしくは大学の研究室が会社の問題点を解決するための分室のようになるのではないかという危惧です。スタンフォード大学は長い経験から厳密なガイドラインを持っていて、大学から発信されて企業化されたテーマは大学では研究しないようにして学生がレーバーにならないようにしているようです。

【工学の本質的倫理】

 もう1つは、社会の産業がもし学としての倫理に悖る方向に進もうとしたときに、工学の本来の倫理を守って行けるかという問題です。

 まず、工学の倫理の基本のところを少しだけさわりますと、20世紀の工学はほかの学問が止められないくらい進んでしまったわけです。原子爆弾が一番いい例ですが、工学が原子爆弾を作ったら使われてしまう。なぜ使われてしまったかというと、ほかの学問、ほかの社会体制が止められなくなったからです。ですから、工学自らがセーブしなければいけないのに、今までの工学は自らセーブしようという気迫がなかったわけです。それを3つの視点から説明します。

 まず第一点。ガリレオは宗教裁判で、「それでも地球は回っている」と言ったと伝えられていますが、神が言っていることと自分が見たことはどちらが正しいのかという問いに対して、常に自分が見たことが正しいという結論--これが近代科学の持っている特質、傲慢さをあらわしているのではないでしょうか。

 1920年代にアメリカでスコーブス事件というのがありましたが、要するに、中学校の先生が進化論を教えたかどで裁判になったわけです。この裁判は「科学に対する言われ無き攻撃」と言われていますが、中身をよく見ると、科学的に真実だからといって、人間の精神的なものをどこまで破壊していいかという、科学の精神界に対する破壊の歯止めの議論なんですね。そういう視点もあるわけです。

 もう1つは、人間の機能の追放です。産業革命と蒸気機関の発明による自動機械と新しい力の誕生は、つらい筋肉労働から人間を解放しました。これは別の視点で見れば、もともと男に備わっている筋肉と言う機能の喪失とも言えます。さらに、今世紀の半ばからは電気工学、電子工学、材料工学の発展によって、家庭生活が電化され、家事労働は著しく軽減されました。家事労働の多くを担っていた女性が解放されるとともに、女性が母性として愛され、主婦として感謝される権利が奪われつつあります。

 最後は今、進んでいるのは頭脳の追放です。切符切りや銀行の窓口などの単純労働は要らなくなり、工場の自動化ももっと進むようになりました。そのうちに自動診断機器で医者が要らなくなって、法律なんかも前例集が全部入っていて、聞けばわかるというふうになる。まるで、工学が理想しているのは人間を廃人とすることなのかと思えてきます。歩かなくていいし、筋肉は使わないでいい、愛情も要らなければ、頭脳も要らない--こういうふうに進んできているわけです。

(工学が理想とする人間像?)

 工学は屈強な男から筋肉労働を,次に家庭から父親と母親の労働と役割を果たす機能を,そして最後に頭脳労働を追放する勢いで、まっしぐらに人類に備わっている本来の機能を奪い、じっとしたまま人生を送る理想像を追求しているように見えます .マルクスは労働を人間の真面目さを発揮する神聖なものととらえましたが、人間はすでにその真面目さを発揮できない方向へ向かっているのでしょうか。このような工学の持つ本質的な倫理を工学大学がしっかりと考え、判断すること、それが今後さらに大きな問題となる生命工学などの面で浮かび上がって来るでしょう。

【工学の独走と産学連携の倫理】

 そういった工学の独走に対して、一番大切なのは産学連携での倫理であります。

 バブルのときには効率の高い機械を作るのに一所懸命で「どんどん物をつくった方がいいよ」と言っていた先生が、今度は地球環境というと180度コロッと変わって、「環境が大切だから、物はつくらない方がいいよ」というのはどうかと思います。

 産業界は未来が見えないから、ある程度変わらざるを得ません。しかし、学というのは、できれば一生涯変わらない方がいいわけです。難しいことかもしれまんせが、そこのところの産学連携の重要なところです。

 産学連携をやるということによって、産業界の倫理が大きく変化することを本来は大学が歯止めできるはずなのです。21世紀は今世紀にも増して工学が社会を支配すると思われます。大学で工学倫理があまり議論されていないので、今の工学大学ができるかどうかわかりませんが、これは産学連携での大学の役目であります。

【大学人の倫理】

 もう一つは、教員の倫理としての問題ですが、企業の技術者も専門家ですし、大学の先生も専門家です。産学連携をやっている両方とも専門家同士という位置づけですが、専門家というのは次の3つの要件が必要です。

 1.普遍的な法則に従っていること、2.長期間高度な習練を積んでいること、3.依頼主ではない不特定多数のために働くこと、この3つです。例えば、お医者さんは普遍的な法則、つまり医学に従って、長期間、高度な訓練をし、そしてある国の国立のお医者さんであっても、戦争中に敵の将兵が傷ついていたら助けます。つまり、依頼主に対する方向性はないわけです。そのかわり不特定多数というか、社会に対して忠誠が求められるのです。

 また、建築士で言えば、日本の建築士は営利団体に所属しますが、アメリカなどでは株式会社は認められていないですね。アメリカのアーキテクトは営利団体に所属しません。なぜかというと、アーキテクトというのは社会の財産であり、社会の専門家だから直接収益に関係する建築会社に所属しては行けないわけです。基本的には施工主と契約し、施工主のためにその専門性を発揮するのです。反面、依頼主がこういう建物を建ててくれといっても、社会的に合致しなかったら「だめ」と言えることも大切です。これは大学教授でも医師でも同じです。


 産学連携を進めていくときに、ある倫理問題が起きた場合、企業の従業員は自らの倫理観に従って業務を拒否することはできませんし、会社の方針に沿って動くことになります。大学教授は教授会に属していますから、職務内容が所属する機関の収益に損害を与えるという理由ではクビにはなりません。教授の進退を決定するのは、教授会の仲間の先生たちだけです。

 その身分保障が専門家に与えられているということは、非常に厳しい状況のときに、専門家だけが倫理を守れる。ですから、産学連携のもう一つのいい点は、大学の先生が産業と一緒にやることによって、産業での研究開発にもある程度倫理というものが入るということです。

 これは難しい問題ですが、ある新しい薬品に危険性があるということを製薬会社の技術者がある程度文献などから知っていても、その段階では倫理のしっかりしている人でも、製造を止められません。というのは、そのときに厚生省などで検討していれば、自分は危ないと思っても、決定が出てから止めようという態度は職務として正当なわけです。そのときに、横に先生がいて一緒にやっている場合は、先生が「これはまずい」と思えば、先生の方が止められるわけです。

 このように、「社会に倫理にもとる行為が行われようとするとき、専門家としてそれを防ぐ唯一の人が先生である」ということが言えます。



6. 産と倫理-工学大学の構図

【工学大学の構図】

 今まで申し上げてきたように、工学大学の教育というものを考えると、教育が正常に行なわれるためには大学全体の機能が正常に働いていなければならない--これは当たり前のことですね。そのためにどうしたらいいかというと、学は常に産業と倫理を自分の視野に入れておかなければいけません。そうしないと自分の文化に引きずられて、思わぬ方向に行ってしまいます。必ずそこを見ていなければいけない。

 これは最近の認識論ですが、我々があることを頭で判断しようと思ったときに、その判断の根拠になるのは頭の中に浮かんだ論理的なこととふだん接しているものから受けるアフォーダンスの集合体で判断すると言われています 。今の工学教育というのは、産業界や倫理から全くアフォーダンスを受けていない状態です。キャンパスの中だけ歩いて、キャンパスの中だけを見ながらやっていると、判断基準の一つが欠けてしまう。そのためには、産業界と倫理が常に学内になければいけない。そのためには「スタンス」が大切です。学は常に産業と倫理を視野に入れる。そうすると産業と倫理からアフォーダンスを受けるということです。産と学が一体になっていてはいけない。そうすると相互に自由度を失います。


 学と倫と産が常にある視野の中に存在するところに「学の蓄積」はまともな形で出てきて、その正常なる「学の蓄積」の中を学生が通過していく。今は、学が生み出す学の蓄積は、産業と倫理が視野にないので変な形で蓄積されて、そこを学生が通過するから、変なことも起こるし、また研究として果実としてもうまくいかない。この構図を大学は考えるべきでしょう。

【どうすると良いのか?】

 とかく産学連携というと、大学の研究を産業界が利用し、新しいビジネスを興すんだというふうに直結したり、インターンシップに直結させて、それをやればいいんだというふうに考えがちです。しかし、今まで述べてきたように、産学連携の目的は、教育面で言えば、1.勉強する学生が発生すること、2.スキルの向上が期待されること、そういう工学教育面の全体の効果というのをもたらすことです。

 さらに、研究面では、1.工業化される研究が生まれること、2.大学における研究資金の循環が正常に行われること、ですので、産学連携は工学と研究の本質のところに狙いがあります。これをやれば企業化が興るとか、インターンシップができるという部分的なものではないということをよく認識する必要があります。


 工学大学が産学連携を進める目的は、言うまでもなく教育と研究の向上にあります。そして、教育面で期待される効果としては「学生が勉強するようになること」でしょう。現在の日本の学生が勉強しない大きな理由は就職と学業が連携していないことですので、学生と就職する企業との関係が密になり、企業が教育プログラムに関与し、さらにそのプログラムの理解度を入社のときに調査するようになれば、学生の勉学意欲は一気に高まるでしょう。

 しかし、産学連携の本当の意味を忘れて、大学のリエゾン・オフィスが産学連携だからと言って、「特許だ」「収益だ」と言ってしまうと、みんなは産学連携はそういうものだと思って、日本の工学大学が再生するチャンスを逸してしまうようで心配です。


 工学が20世紀を支配してきましたが、多少歪んでもきました。日本では正当な発達はしなかった、その一つの大きな理由に産学連携という社会システムが成立しなかったことが挙げられます。成立しなかったことによって、大学も崩れたし、社会の新しい技術も育たなかったし、工学倫理も守られなかった。そのことによって、現在に大きな歪みが来ているけわけです。例えば、将来が見えないとか、校内が荒れているとか、学生が勉強しないとかいう社会現象は、産学連携という工業化社会を正常化するシステムが欠けていたからであって、それがすぐにベンチャービジネスと結びつくとかいうと、またおかしなことになります。産学連携を進めていくことによって、ベンチャービジネスなどは自然の循環の中で生まれてくるでしょうが、それと産学連携が最初から目標とするものとは区別して考えなければいけません。


7. 終わりに

 ところで、今まで私が話したことは、人生と社会を経済活動として見たことに限られています。それは工学というものがある意味ではそういうものなので仕方がないのですが、人間の人生の本質は経済活動ではないと私個人は思っています。

 本当は、今まで話してきたことはすべて二次的なことで、最も大切なことは、人間の知的活動とか情の世界とか、そういうことが豊かになることだと思います。我々は生産活動をする物体ではなく、パンのみで生きる存在でもありません。ですから、産学連携というのは工業化社会を正常化するシステムなんだけれども、産と学の目標は「人間の生活を楽しく、愉快にする」というところに置かなければいけない。本質的には、日本の産学連携が経済活動を切り離して協力することができれば、それは日本にとっては一番良いと思います。現代の社会において大学と産業というのは膨大な力を持っています。その2つが経済活動だけを目的として活動したら、社会は殺伐なものになり、決して目標とする社会は現出しないでしょう。

 産と学が信頼する友となり、産学連携のフルーツを得ることの目的にして、互いに非難することなく、お互いの成果を提供しつつ、常に接触することでしょう。それが必要なことは既に産も学も判ってはいることです。


 最後にゲルマンの古代詩を引用し、「では、どうすれば良いのか?」という質問に答えたいとと思います。
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 「そなたが信頼する友を持ち
  しかも、望みの結果を得たいと思うならば
  心と心を打ち解けあわせ
  進物をとり交わし
  たびたび彼を訪れなければならないことを
  そなたはよく知っている」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

名古屋大学 武田邦彦


【参考】

小口泰平、S.I.T. Bulletin(芝浦工業大学), No.6, June, (1998)
H.Brown, "The wisdon of science", Cambridge University Press (1986),London
増子 昇、シンポジウム「21世紀の素材・プロセッシング」(日本学術会議、日本学術振興会主催)(1998年12月2日:芝浦工業大学)
武田邦彦、「工学における教育プログラムに関する検討委員会」教育プログラム分科会報告(委員長 大阪大学 都倉信樹教授) (1998)
大学審議会、「21世紀の大学像と今後の改革方策について」(1998年10月26日)
武田邦彦、「恩人・吉田松陰」(萩市シンポジウム、1997.6.20)山口県萩市
武田楠雄、「維新と科学」、岩波新書(1960)
国立8大学工学部長会下部委員会(委員長 名古屋大学 山本 尚教授)「工学教育プログラム検討委員会:海外視察報告」から。(1998)
総務庁「科学技術研究調査報告」、USA:"NSF National patterns of R&D Resources", (1996)
S. F. Eugene, Engineering and the Mind's Eye, (1993), The MIT Press, New York
生島義之、「現実喪失の思考」近代文芸社(1994)
武田邦彦,工学教育,Vol.46, Mo.2,p.50-57 (1998)
橋本邦雄,芝浦工業大学倫理綱領提案、1999年2月芝浦工業大学工学部教授会議事録,(1998)
M.W. Martin, Ethics in Engineering, (1996), McGraw-Hill Publishing Company.,New York