平成の「ものづくり」とスキル教育


はじめに


 20世紀は物質文明の時代であった。その中で日本は「ものづくり」と「ひとづくり」を軸として奇跡的な成功を収め、東洋の小国から世界をリードする先進国になった。今や平均寿命、国民一人当たりの所得という「生命・財産」のレベルを決める2つの主要な指標において世界のトップグループにいるまでになった。私たちに豊かな社会をもたらしてくれた先輩諸氏に感謝するとともに、21世紀を迎えた今、この優れた技術の伝統が崩れつつあることを感じる。それは技術者の教育に携わっているものの多くが共感するところであり、それ故に多くの議論や改善の試みが行われている。しかし、社会の大きな変革期にあってその原因は複雑で多岐にわたり、これまでのように単に欧米の追従をすれば解決することにはならないことも同時に指摘されるところである。

 本稿は、日本が繁栄を継続するための基礎は「ものづくり」と「ひとづくり」にあるという認識のもとに、その第1稿として「ものづくり」と「スキル教育」を軸として技術者教育を整理したものである。


1. 技術の目標達成能力

 技術者とは「数学、自然科学や時には人文科学の知見を応用して人類の福利に具体的に貢献する装置や方法を提供する専門家」と定義することができる1),2)。この定義を「サイエンス(科学)」との関係で簡単に表現すれば、サイエンスが「なぜ」をその出発点にすることに対して、技術は「したい」という希望が出発点になるといえる。例えば、サイエンスは「鳥という物体はなぜ空を飛ぶことができるか?」との疑問を持ち、その原理を明らかにするが、それだけでは、実際に飛行する物体を作ることはできない。流体力学や内燃機関の工学が必要とされる。しかし、それでも人間が空を飛び、快適な旅行をすることはできない。現実に人間が安全に空を飛ぶためには、その夢の実現の過程で悲惨な出来事が起こり、ライト兄弟が僅かな飛行に成功し、その後も幾多の困難に打ちかち、初めて人類は「快適な空の旅」という夢を実現することができる。

 このように希望と夢を実現するための長い過程のプロセスを分解すると、表 1に示すように「理学的な原理」と「夢を実現する技術」の間に「工学」が存在し、工学が体系化した学問を利用して、具体的な装置、あるいは方法に転換する「技術」が働いていることに気づくのである。

表 1 航空機技術を例に取った理学、工学、技術

 工学の「専門知識」は学問的に精緻に体系化されている。航空機の例を取れば、理学としての物理学・数学などが十分に応用され、流体力学、内燃機関、通信工学や材料疲労などの関連する工学が高度に組み立てられている。しかし、それは工学的な目的を達成するための基礎的な部分にすぎないので「工学の目的を実現する」ことは出来ない。「したい!」という目的を実現するためには、さらに航空機の機体を設計し、制約のある材料を選択し、計器を整え、安全性を備えた航空機の機体を製造しなければならないし、さらに航空機の運航に対して整備、操縦、安全管理技術を要する。それがすべて満足して「学問が社会に貢献する」という所期の目的が達成されるのである。

 工学と技術はこのような関係にあるから、その目的を達成しうる人材を育成するには、理学的原理、工学的基礎、ハード技術、そしてソフト技術を習得しうる教育が必要である。しかし、日本では歴史的に基礎学問や単なる「知識」を重視する傾向があり、それが技術者教育の一つの歪みとなって顕在化している。すなわち、工学とその技術の教育内容は図 1に示したように、①知識として認識できるもの(認識下の知識)、②知識として認識できない潜在的知識(認識上の知識)、③精神力・体力、④工学技能・社会技能の4つに分類しうる。

 "認識下の知識"とは「事実に関する知識」と「論理の組立に関する知識」で構成され、簡単に言えば言語で表現でき、紙に書くことができる知識を示す。理学などの基礎知識、工学の専門知識、論理的な力、倫理、及び法律(行政法、環境関連法など)などを指す。この中で理学や工学の専門知識については説明を要さないが、倫理や法律は技術者教育に於いて「教養教育」として捉えらがちである。これらの学習が学生の「人格を陶冶する」という意味では教養教育であるが、技術の目的を達成するために必要な倫理や法律の教育は人格を陶冶することも目的とはしていない。たとえば、教養教養で学ぶ倫理は「人間そのもの」に対する考察を主体とするが、工学倫理では技術者が直面する倫理的課題に対して工学的見地から倫理を体系的に教える。対象はあくまで「工学」であって「哲学」ではない。また、法律も国民一人として知るべきものと、技術者がその専門性を発揮する上で必要な法律とは違う。行政法や国際法、環境関連法などは直接的な技術の目的を達成するために必要とされる。

図 1 技術の目標を実現するための要素

 一方、"認識上の知識"は「知識」として認識されず、言語で表現できないが、人間の認識の奥に存在し、感性、創造的活動、無意識な動作、反射的行動を支配している脳の情報を指す3)。DNA情報とは違い、後天的に獲得された情報であるから、特に最近では暗黙知、場所中心的自己、アフォーダンス(対象物からの情報によって自らの情報の修正がなされる動き)などとして注目され、その存在と作用が明らかになってきている。心理学的な意味での「幻想我と現実我との葛藤」、瞬間的な判断の時に動員される知見、対人関係や物質の形に対する感覚とそれに対する行動などが人間の判断を決めるものとして過半を占めるとも考えられている。

 この2つの大きな基盤の上に4つの教育の対象がある。

(1) 社会技能 :知識を共有し、チームワーク、コミュニケーションを図るための技能
(2) 工学技能 :手先の器用さ、実行の手順、危険の予知などの技能とソフト
(3) 精神力  :希望、意志、粘りなどの目的実現に寄与する精神的な力
(4) 体力   :健康な体、精神力を支える粘り強い体、健康管理を行える力

 また図 1を縦に分けて見ると、左側は従前の技術者教育に含まれており、右側はもともと「学校教育」の範疇としてとらえられていないか、あるいは重要視されていなかった。特に明治以来の日本では右側についての教育は不十分であったが、その原因は技術者教育が主として欧米からの知識を学び、多少の改良を加える程度で応用してきたという歴史的背景による。

 なお、本論では「認識下の知識」を別にしてその他の部分を「スキル」と分類しているが、これまでの「スキル科目」と呼ばれる内容に比較してかなり広い意味を持つ。これは欧米の技術者教育における「スキル」に準じている4)


2. 現代社会と現実喪失

 スキル科目の内容を吟味する前に20世紀の物質文明が人間の機能と感覚に及ぼした影響について触れたい。それは現代の若者に強いインパクトを与えていて教育を考える上で無視できないからである。
20世紀の物質文明は人間に豊かな物質文明や長寿命などの「正」の影響と、人間疎外、地球環境破壊などの「負」の資産を与えた。その中で特に若者の精神の発達に影響したのは「人間機能の追放」と「人間の感覚の喪失」であると考えられる。

 「人間機能の追放」はゲーリケの「マグデブルグの半球の実験」、ニューコメンによるダドリー城の蒸気機関、ワットの復水器の発明を経てトレヴィシクの高圧蒸気機関と続いた機械的動力の発達で始まった。さらに電動機、制御工学、アクチュエーター、センサーなどの技術開発によって人間活動における「筋肉の機能」を代換えしてきた。社会生活に使用するすべての動力のうち、人間の筋肉が寄与する割合は1850年には13%であったが、100年後の1950年にはわずか0.9%になったと言われる。まさに、現代の人間は体に備わった筋肉の機能をほとんど喪失していると言える。

 次に工学が人間から奪った機能は「脚力」であった。かつて獲物を追い、田畑で踏ん張った脚力は汽車、自動車、エレベータ、エスカレータなどの近代工学の産物によってその機能を発揮する場を失いつつある。そして最近ではコンピュータが人間の頭脳の機能を代換えしつつあるのはよく知られている5)

 一方、「感覚の喪失」はすこし遅れて第一次大戦以降に顕在化した。アメリカの南北戦争を機に実用化された機関銃は第一次世界大戦のヨーロッパ塹壕戦で本格的に用いられた。それまで「一騎打ち」や「騎馬隊の突撃」などの旧来の戦法を用いた軍隊は連続的に発射される機関銃の掃射を受けて全滅した。それは戦術の見直しを迫まったばかりでなく兵士の心理に大きな変化をもたらしたとされる6)。それまでは肉弾戦で敵兵を殺したことが心の負担となった兵士も、機関銃の登場とともに大量の敵兵を撃ち殺すことに何の感覚も持たなくなった7)。その後、世界有数の頭脳が集まって行われたネバダ砂漠の原子爆弾の実験で、この爆弾が都市に投下されれば、少年少女が灼熱の地獄に落ちることを気がつく学者はいなくなっていたし、さらに湾岸戦争では多国籍軍のミサイルが標的を破壊する様子を茶の間のテレビで「観戦」し、その破壊の下にイラク軍兵士が呻いていることは感覚の外にでてしまったのである。

 1960年代に日本に上陸した冷凍食品は「食品」と「生物」のつながりを消滅させた。かつて、父親が裏庭で鶏を絞め、母親が湯気の立つ血だらけの肉をさばいているのを物陰からそっと見ていた少年はやがて食卓に出された鳥肉があの鶏の変わり果てた姿であることをこころ密かに思いながら箸をとったのである。現代は冷凍庫に格納されている肉片を「チン」して口に運ぶ。鶏肉の破片が「当然のように生命を持っていた物体」であることを知っているのは断末魔の鳴き声を聞いている経験のある者であり、冷凍食品で育った若者が「当然のように生命とは無関係の物体」であると認識しても驚くには当たらない。

 今や「自然」は人工物で覆われ、人工的な環境は第2の自然にもなりつつある。アスファルトの道路を通りガードレールと歩道橋で囲まれた空間を歩き、電車に乗りエアコンの中で一日を過ごす。そして夜は地上7階の空中に浮かんだまま寝ている人間はもはや現実を喪失していると考えなければならない8)

 このような環境は若者自体が好んで選択したものではない。彼らはこの世に生を受け、もの心ついたころにはすでにこのような環境は用意されていたのである。その中でひたすら現実を受け止めながら生きてきたにすぎない。現代の都市の環境では素足で土を踏むことも、野山を走ることも、小さな生物が誕生し死んでいく生命の神秘を知ることも、また友達と喧嘩したり笑ったりすることも経験をすることはできない。動物が臭く、汚く、同時に愛しいものであることも知ることはできない。身の回りの機械はパッケージになっており、その仕組みを見ることもできず、歯車に指を挟まれたり感電してびっくりした経験も持てない。父親がヒューズを交換する姿を見たこともなく、釘の頭を叩いた経験も持たない。

 前節で示した「認識上の知識」とは人間が誕生し育ってきた環境の中で無意識に作られる一群の脳情報を言う。それは後天的であるが故に明らかに脳情報であり、紙に書けない知識であるが故に従来認識されていた知識ではない。そして、誕生し思春期に至る過程で経験が単色で限定された非現実的ものとなった現代では認識上の知識の質と量がそれまでと全く異なることを教育者は意識しなければならないだろう。もし、それを無視して従前の方法にそって教育を行えば、必然的に不整合による矛盾が露呈する可能性があると考えられるのである。
次に論理を組み立てるための準備として、日本文化と工学のスキルに関して触れたい。ある教育をその形式や方法において欧米に模倣しても、それが日本の習慣、風土に合致していなければ効果を上げることができないのは当然であり、スキル科目を考える上でも「日本」と言うものを抜いては論じられない。

 幕末の幕府の伝習取締であった永井尚志は海軍伝習所における軍艦スームビング号の訓練を担当していた。彼は軍艦を実戦に使用するには単に操舵ができると言うことではなく、絶え間なくおこる破損や故障に対処しなければならないことを知ったと伝えられている9)。これが日本最初の造船所、「長崎造船所」ができるきっかけとなったが、日本の工学が異人の工学に接した瞬間でもあった10)。永井尚志は工学とは見事な作品を眺めるものではなく絶え間ない故障と戦うことなのだと言うことを知ったのである。またオランダから主要な機械は運んできたものの日本には工具や補助的な器具はほとんどなく、何か必要なものがあるとオランダまで取りに行かなければならなかった。さらにオランダ人と幕府の官吏とのコミュニケーションがままならず、それも大きな障害となったと記録されている。
このように日本の工学の先駆者は工学におけるスキルの重要性を理解し、工学の本質を垣間見たのである。しかし、経験が「外的」なものであったが故に、頭では必要なことを理解しても心底納得していなかった。すなわち、日本の技術は日本刀や陶器に見られるように、常に実用から離れ美術品に昇華する特徴があり、それが日本における「技能」、「技術」の軽視につながったと考えられるのである。

 一方、日本には精神力を鍛え、それによってより高度な技術的目標を達成しようとする試みがあった。柳生流の武術にその典型を見ることができるが、日本刀や陶器の技術も高度な精神力を重視した。異種の文化の接触が一方の文化を排斥するものではなく、融合してより優れたものを生み出すとするとするならば、日本の技術に包含されていた、優れたシステムや精神を西洋の合理的アプローチと合体させ、より高いものを作り上げることこそ大切であろう。


3. 「スキル」教育の内容

 前節までの整理をもとに技術者教育におけるスキル教育について、具体的な内容の考察を行おうと思う。ただ紙面の都合でスキル教育の全体像を示すことができないので中心となる想像力と実行力の教育に絞って述べた11)

3.1. 創造力

 創造は深い知識と綿密な論理から生まれると言われる。しかし、この理屈を突き詰めると「創造力は知識の深さに比例する」という単純な結論に至る。事実、現在の工学教育では知識の伝達に重点が置かれる。しかし、日本の工学が欧米の技術の模倣が多い原因の一つに「知識偏重」であることを歴史的事実として捉えるべきであろう。この際多少粗雑な議論であっても創造性の欠如を「日本人の民族的特徴」や「知識レベル」に帰す前に基本的に考え直す時期が来ていると考えられる。

 「必要(ニーズ)は発明の母」という。特に工学はその成果を社会が応用することを前提としているので、ニーズを正確に把握することが第一になる。従って、工学教育においては歴史も含めて具体的な例を挙げて社会のニーズを体系的に教えることが必要である。なにが発明のインセンティブになったか、それをどのように克服し「夢」を実現したか、それは興味のある過程であり、学生は自分の身の回りをもう一度見回すことにつながり、あれほど有名な発明が案外簡単な原理や方法によっていることを知るだろう12)

 次に理学の発見と工学の発明の関係とそれらの過程も重要である。歴史的に見れば、技術は自然現象の発見や原理の体系化がおこなわれた後、30~100年を経過して花開くことが多い。例えば、1643年トリチェリーの真空の発見は1712年にニューコメンの蒸気機関の発明となり、電気工学分野では1752年にベンジャミン・フランクリンの放電の実験は50年後にロシア人ペトロフによるアーク灯の考案となる。現在では1953年のDNAの構造解析から遺伝子工学に発展し社会に影響を及ぼすまでの時間的経過は興味ある話題になるだろう。

 創造力をより直接的に養成する教育も考えられる。すなわち、①異なる分野の技能や知識を有機的に繋げる能力、そして、②存在していないものを創造するプロセスを理解する力、の養成である。学生や若年の技術者は自己の専門領域と異なることに対して「これは私と関係ない」と関心を示さない。総ての「作業」が指示され、それに基づいて業務を行うという固定観念があるからと考えられる13)14)

 また、権威に従わずみずみずしい感性を持つことも創造力の発揮には大切であり、そのためには「学問の意味」をもう一度深く考えてみる必要がある。すなわち、学問の内的条件は進歩であって、進歩とは現在の概念や状況を否定することである。従って、学問が現在正しいと思っていることが学問それ自身によって間違いであるということを証明されるのを待っていると言える。つまりこれをマックス・ウェーバーの言葉を借りれば「学問は常に時代遅れになることを自ら欲する」であり、今、正しいと考えていることが間違いであり、否定を目的とするならば、現在の認識によって合理的に立てられる研究テーマは間違いであり、その行為は学問ではないとできるのである。もし、学問がなにをなすべきかについてその答えを持ち、しかもそれを追求できるならば、それは新しい概念を生むことができない15)。学問に対するこの論理展開に異論もあろうが、想像力教育という手強い相手に立ち向かうためには役に立つのではなかろうか。

3.2. 実行力

 伝統的な日本の教育には「意志の力」を養うことを目的とした教育システムが存在した。例えば、冬の寒い時に井戸の水をかぶり、師匠の命を受けて冷たい道場に長時間正座をするなどの例がそれである。これらの訓練は学ぶこととは一見何の関係もないことに見える。しかし学問の知識や自らの創造を現実のものにするためには人間の心の鍛錬が必要であることを先人達は良く理解していたように思われる。

 学生が人間である限り、また現実を喪失し人間機能を十分に発揮しえない現代にあってはなおさら、意志の強さが不足していることを多くの教員が感じている。しかし教育機関は教育をためらっている。しかし実施が難しいということと不必要であるということとは別である。技術者教育に携わる関係者が経験や試み、議論し、実行しうる教育方法を編み出すことが急務である。

 実行力には「実務能力」が含まれる。工業社会が成熟する以前では実務能力は幼児期からの生活体験の中で養われた。しかしそれはすでに期待できないので、高等教育機関において自らの責任において実務能力を上げる教育プログラムが必要とされよう。学生を一定期間社会に出して実習をさせることを目的としたインターンシップやコープなどはある程度効果があるが「実務教育は教育機関の責任ではない」という形態をとることが最大の欠点である。

 実行力を高める要因は目的意識である。目的意識はまさに認識上の知識からでるものであり、人生に対する考え方、社会への貢献に対する熱意、倫理観などの人間としての基本的な素養などが関係し、集合的な教育になじまない。幼児期の生活が極度に苦しかった場合、その学生の体内に潜むハングリー精神は強靱である。貧しい時代にハングリー精神を持つことのできた同一人物は現代の社会ではその意識を持てないであろう。

 特に最近ではオゾン層の破壊や地球温暖化、拡大生産による資源の枯渇などの問題によって自らの将来が人類の福利の増進という技術本来の目的に合致しているかという疑問は拭いきれない。

 目的意識を持つための第二の要因は緊張した精神状態にある。自らが行うことに価値があるなら、それに多くの時間を割かなければならないことは自然の感覚である。オリンピックに出ようとする若者は「ゆとりの練習」に抵抗するだろう。もし、ゆとりの練習で自分の目的が達成されるなら目的自体があまり価値がないと直感するからである。


おわりに

 技術者教育は未来の社会の中心となって活躍する人材を育てることを目的としている。「技術者教育とはこの範囲のものだ」という制限を持っているものではない。そして現代の若者は本論で言う「認識上の知識」、一般的に表現すれば「経験や実践力」に不足していることは確かであり、社会がそれらを与えてくれないと苦情を言わず教育者自らが組み込み実現していく意志が求められる。
 本稿は崩壊しつつある「ものづくり」と「ひとづくり」という課題のうち、特に「ものづくり」に主眼を於いて整理を行った。また本稿では「工学的目的を達成する為の力」を構成する重要な要素である工学倫理については次の機会に譲った16) 17) 18)

(本稿は著者が芝浦工業大学に在籍していた時に、中島先生のお薦めで「ポリテクカレッジ」に投稿した原稿を一部修正したものである)

名古屋大学 武田邦彦


参考文献

1) S.Brown、"The Wisdom of Science", Cambridge University Press (1986)
2) 山本 尚、工学教育プログラム検討委員会1997年度報告第一分冊 (1997)
3) J.ギブソン、生態学的視覚論, サイエンス社,(1985)など
4) 武田邦彦、「世界の工学大学」、(1997)
5) J.Fouke, Edi., "Engineering Tomorrow", IEEE Press (1999)
6) ジョン・エリス著、越智道雄訳、「機関銃の社会史」、平凡社、(1993)
7) J.エリス(越智道雄訳), 機関銃の社会史, (1993), 平凡社.
8) 生島義之、「現実喪失の思考」、近代文芸社、(1994)
9) 武田邦彦、「リサイクル幻想」 文春文庫  (2000)
10) 武田楠雄、「維新と科学」、岩波新書(1960)
11) 武田邦彦、「工学教育におけるスキルの概念」、工学教育、 Vol.47, No.2,(1999)
12) 島田 弥、平成10年度工学・工業教育研究講演論文集,p.197-204 (1998)
13) オルテガ著、桑名一博訳、「大衆の反撃」、白水社、(1991)
14) J. Derek, de S.Price, "Little Science and Big Science ", Columbia University press
15) Max Weber, "Wissenshaft als Beruf",1919 Munchen University
16) M.W.Martin, R.Schinzinger, "Ethics in Engineering" McGraw Hill (1983)
17) 武田邦彦、「工学倫理の構成」、工学教育, Vol.45, No.6, p.2-5 (1997)
18) 武田邦彦、「工学倫理の教育」、工学教育, Vol.46, No.1, p.12-16 (1998)