平成の「ひとつくり」とスキル教育
はじめに
技術者教育にとって「ものづくり」と並んで「ひとづくり」の重要性は論を待たない。もちろん「ひと」が「もの」を作るのであるから「ひとづくり」が教育の直接の目的であることも当然である。しかし、このあまりにも当然であることが変化の激しい現代では難しい。ほんの50年前には「滅私奉公」の志をもった若者を作るのが教育の中心であった。そして20年前は地球環境など考慮せずに高効率大量生産技術を至上命令にして励む技術者を養成した。時代の流れが速くなっていることを考えると20~30年後にはどのような「ひと」が社会に求められているのかを予測する困難さにとまどう。そして、いま私たちの責任のもとで教育を受ける若者は、そのとき壮年期にある。かつての私たちの学生は自分が誤った教育を受けたことをどのように感じるだろうか?
一言で「ひとづくり」と言い、それが教育者の当然の役目であると思えば思うほど任務の重さに慄然とせざるを得ない。本稿は21世紀を迎えるに当たって、前稿の「ものづくり」に続き、技術者教育において「ひとづくり」とはなにか、普遍的な技術者の教育はあり得るのかについて考察をくわえたものである。
1. 技術の発展と社会
近代の科学・技術の始まりをガリレオが他界しニュートンが生誕した1642年に置くことはそれほど異論はないだろう。それから約350年、フランシス・ベーコンが予想したように科学技術は人類に大きな貢献をした1)。個別の事実を羅列するにはあまりに多いが、産業革命後隆盛を誇っていた1846年のイギリス人の平均寿命が43才、長寿の国スウェーデン人の平均寿命が50才を越えたのが1903年、そして2000年の日本人のそれが80才と言う数字をあげれば十分であろう2)。豊かに供給される物質、発達した医療、そして合理的科学的精神などが総合して健康で文化的な社会を築いてきたのである。
一方、すでに多くの指摘があるように過度な物質文明は18世紀にすでに矛盾を露呈し悲惨な炭坑労働者を生み、20世紀初頭にはオートメーションの工場で働く労働者の疎外が指摘された。また戦場では機関銃や原子爆弾などの大量殺戮兵器が使用された3)。アヘン戦争では1842年の作浦の戦いではイギリス軍の戦死9名に対して,清軍は女子供を含み1000名を数え、鎮江ではイギリス軍の戦死者37に対して,1600の清軍が死亡した.まさに圧倒的な火力を使っての中国人の虐殺と言えるものであった4)。
1963年、レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を出版して人間の活動が自然を破壊しつつあることを指摘したが5)、その後、オゾン層の破壊、地球温暖化、主要資源の枯渇のおそれなど地球環境破壊は次々と顕在化し、国連事務総長ウ・タントが警告したように宇宙船地球号の限界が明確に見えるまでになってきたのである6) 7)。高効率大量生産技術と大量消費を前提とした文化的生活が生活の向上と環境の破壊を同時にもたらすことは今や否定することができないだろう8)。
また、前稿で指摘したように動力、輸送機器、そしてコンピュータの進歩は人間の主要な機能、すなわち「筋肉」「脚力」「頭脳」の機能を奪いつつある9)。技術の産物が一心に人間からすべての機能を奪い去ろうとしている現実は、多少の誇張を許せば、人間機能の全面的な喪失をもたらす「廃人技術」と呼ぶこともできよう。さらに、人工物に囲まれた空間は第2の自然を作りだし、現実味のない食物とともに人間の感性や感覚を従来とは全く異質なものにしつつあることも併せて指摘した10)。
地球環境は激変し、人間は機能と感覚を失う。さらに人間の心も科学によって不安定になったとも言われる。ガリレオが呟いたとされる「それでも地球は廻っている」という言葉は近代科学が迷信の頸城から脱する大きな第一歩と認識されているが、一方で、人間がそれまで自分たちこそ宇宙の中心であり神の恩寵を受ける資格のある存在であると信じていたことが、地球が宇宙の中心から端に追いやられた瞬間に崩れ去ったとも言える。そしてダーウィンの進化論が人間をサルと同じ地位に引きずりおろした。当時の風刺漫画にサルに奉仕する人間の姿が描かれているが、「真実かもしれないが、やりきれない」という当時の気分が良く伝わってくる11)。そして、1953年のワトソンとクリックのDNA構造の解明による「命」そのものの解明は、人間の最終的な尊厳を奪う可能性を秘めていると言えるのではないだろうか。それから、生命の尊厳が直接的に問われる遺伝子工学の研究が話題となるのは、ガリレオからダーウィンへと進んだ近代科学の生命への挑戦の最終的段階のように感じられる。
さらに第二次世界大戦後のいわゆる冷戦は原子爆弾や水素爆弾の過剰の生産によって人類の破滅を予感させ、20世紀後半の大量生産を機能とした工場は、地球環境問題と資源枯渇をもたらしつつある。人間の活動は徐々に自然と比肩しうるようになり、さらにそれを凌駕し、自らの生存自体を脅かしつつある。
以上、整理してきたように、永続的な生産力の不足に悩まされていた人類は技術の恩恵を受けて、その苦悩から開放されたが、同時にその対価を払わなければならない状況へ追い込まれてきた。また、皮肉なことに、また必然的に、社会への技術のもたらす影響が大きくなるに連れて技術の成果と社会との距離が近くなった。19世紀の技術は「その作品をショーウィンドウに飾るだけ」で、そのうちどれを選択するかは主人である社会が決めると言われたが、20世紀では技術の成果が直接社会に投入されるようになる12)。携帯電話はそれが社会にどのような影響を与えるかについての検討や予備的な試行段階を踏むことなく短時間の内に生活の中に組み込まれ、新幹線に新たな車両が投入されるとたちまち新車両の運行が主力になる。その車両の運行によって到着地までの時間が僅か20分程度短くなり、その代わりエネルギーと物質損耗が極端に増大してもそれを社会全体との関係で考慮する時間は十分には与えられない。
このような状態の中では技術者はその専門性においてより社会に対して直接的な責任を負うと考えられる。
2. 専門家の役割と社会
専門家とは、①高度な専門的知識を有し ②長期間、高度な鍛錬を行い ③不特定多数に責任を負う ことを要件とした社会的存在である13)。その典型的な例が医師であるが、医師は病人を治療することについての高度な専門的知識を得るために、通常の教育より若干長期間にわたる教育を受ける。社会が教育に「ゆとり」を求めても医師教育はその枠外におかれる。それは専門性を持つために必要な教育は一般的な教育とは質的に異なるとの断固たる信念に基づくものであり、それを社会も支持するからである。そしてインターンの時期やその後の予備的な経験を通じて「一人前の医師」になるための鍛錬を積む。
やがて一人前になった医師は独立して病人の治療に当たる。そしてその専門性の発揮に当たっては医師は雇用主や依頼主の意向とは無関係に医師本来の任務を遂行する。たとえば国立病院に所属し、国家から給与を受けている医師においても戦場に出向き負傷した敵兵が野戦病院に担がれてくれば、「敵兵」であるという特定の枠組みにとらわれず、「人類」という枠組みの中で治療を行う。味方の軍隊がまさに敵兵を殺害するのに懸命である場合においても医師が敵兵の命を救うことに疑問を感じない。それは「命を守る」という医師の専門性の発揮が「国家」という制約より上位にあることを示しているのである。
第一次大戦から第二次大戦に至る期間に、ヨーロッパでは機関銃と毒ガスの研究開発が盛んに行われた。機関銃は主として機械技術者の手によって行われ、毒ガスの開発は化学系の技術者が主役であった。そして戦争の準備に当たるときに機械技術者は機関銃を、化学技術者は毒ガスの生産にあたった。しかし、医師はリンゲル液を準備した。この現象は機械技術者や化学技術者が「国家」に忠誠を誓い、医師は「命」に忠誠を誓ったことを示している。
近代社会における典型的な専門家は、牧師、医師、弁護士、そして建築家などである。これらの専門家は本来その専門性を発揮する明確な目的を有している。「神」が「このように生きるべきである」という言葉を「神学者」が聖典として編纂し、解釈し、そして牧師に教授する。「牧師」は神学者の編纂した聖典を学び、振り返って社会に向かい「悩める人」を救う。牧師はみずから「どのように生きるべきである」と言わず、また聖典の解釈もしない。同様に、「王」は「このように秩序を守るべきである」と命じ、「法学者」は法律体系を作り、それを普及させる。一方、「弁護士」は自ら法律を作らず、解釈せず、社会において「トラブルに巻き込まれた人」に対して法律という分野でその人を助ける。これらの関係を図 1にまとめた。
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図 1 専門性とその立脚点
これらの伝統的な専門家である牧師、弁護士、そして医師にはこの節の最初に述べた専門家としての3つの要件が満たされている他に、社会的に何らかの方法で、①その職に就くことが制限され ②職を不条理に剥奪されることから保護されている。医師は特定の教育機関を経て医師の国家試験に合格し、必要とされる訓練機関を経てその資格を取得し、それを社会が認定する。医師の資格は、医師を雇用している雇用主が不適切と認めても剥奪されることはなく、医師会などの専門家集団が医師としての専門性に著しく悖ると判断することが前提となる。すなわち「専門家」はその専門領域において社会の最高の知見と判断力を有するのであるから、その資格を社会が判断することは論理的に不都合であり、かつ専門家の第三要件である「不特定多数に貢献する」という意味で雇用主の価値観や判断と異なることがあり得るからである。
以上の整理から、「専門家」には3つの基礎的な要件と有機的に結合した形で身分の保障があり、日常的にもそれが示されていると言える。すなわち、専門家は雇用主と「職務分担」が異なるのであって、その間に「上下関係」が存在するのではないとの認識が共有される。つまり給与や職務規程などの点では雇用主が専門家に命令できるが、専門家の領域の業務について雇用主は指示、命令することができない。すなわち、医師の治療方針を雇用主が変更することができないことを意味する。
3. 専門家としての技術者と教育
以上の整理に基づいて、技術者教育と技術者の社会的位置づけについて考察を加える。
専門家は不特定多数に対して貢献するのであるから、その貢献も目的が明確でなければならない。専門家でなければ、個人の信念に基づいて目的を定めても良いし、組織に所属する場合にはその組織の目的に合致した行動が求められる。たとえば、再び戦争の場合を取り上げると、国家に所属する将校は自らの信念とは別に国家の命令にそって行動が要求される。一方、専門家である牧師は神の命令、弁護士は王の命令(近代国家にあっては国会の決議)、そして医師の場合は「命を守る」という抽象概念が命令する。
技術者に近い専門家として教授という職がある。科学は「真」という決定者があり、「真」を追求する科学者が発見し、体系化したものを教授が学び、社会に対して伝達する。社会が特定の依頼者である学生や生徒であっても、社会人教育であっても教授の教える内容は同一であり、かつ教授の雇用主の命令があっても「真」に背くことは教授しないし、解雇もされない。
「技術者」を専門職として考えると、決定者は「技術は自然の原理を応用して人類の福利に役立つこと」ということとできる14)。この決定者の定義は近代科学の発祥時に唱えられたものであり、その後、綿密に検討がなされたものではない。しかし、近代科学の約300年の歴史を振り返ると、まさに技術という専門性の決定者は「福利」もしくは「善」であったと考えられる。
すなわち、技術の専門家は「福利」もしくは「善」を決定者として、工学者が発明し体系化したものを技術者が修得し、長期間の鍛錬を行う。そして職に就いたならば「福利」もしくは「善」のため不特定多数のために貢献することになる。この論理から「技術者教育」とはなにかが必然的に明らかになると考えられる。すなわち、医師の教育において、「生命・生物学(基礎学問)」「人間の体の構造としくみ(専門基礎)」「治療法(専門知識)」「治療技術(スキル)」が必要とされるように、「科学」「専門領域の工学」「具体的な工作の知識」「技能」が必要とされる。専門家は「学者」ではなく、学者は「専門家」ではない。工学を専門とする学者は「科学」と「専門領域の工学」を専らとし、「具体的な工作の知識」についてはそれを専門家に解説するための整理を行うことが任務である。一方、専門家たる技術者の任務は「具体的な工作の知識」と「技能」であり、「科学」「専門知識」は基礎的な判断力のために修得するのであって、直接的に専門性を発揮するための知識ではない。
現実に日本で行われている技術者教育は「専門家(技術者)を養成するのか」「学者(工学者)を養成するのか」が明確ではない。その結果、技術領域における「スキル」の教育がおろそかにされ、それを「ものづくり」などの標語を使用して強化せざるを得ない状況にある。しかし、もともと技術者の専門性は本人に備わった「スキル」で最終的に表現されるものであり、それは「治療のできない医師」を養成しても意味が無いのと同じである。
このような環境は技術者が専門家として認知する社会的環境が整っていないことにも原因している。先に述べたように、専門家はその専門性を発揮する上での保護が与えられていなければならない。資格に対する制限と職の保全である。最近、日本では「技術士」という資格ができ、ある程度技術者の専門性についての社会的環境が整ってきた。しかし、技術士は大学の教育、工学博士号、諸学会との関係が明確でないし、本来、密接に関係していなければならない社会制度との関係も疎遠である。
20世紀の大きく発展した技術は社会に直接的な影響を与えるようになり、それに伴って技術者の行動は専門家としての規範を求められるようになってきた。事実、日常的な業務の中での技術者の責任ばかりでなく、薬害エイズ事件、乳製品汚染事件、自動車のクレーム隠匿事件、そして原子力臨界事故など技術者の行動が大きな社会的影響を与える事件が頻発している。これらの頻発する事件の背景には「技術」の社会的影響が大きくなってきたにも関わらず、「技術者」としての専門性が社会的に認知されず、その教育や制度の概念も明確では無いことが一因であると考えられる。
技術者の倫理を軸として技術者教育、技術者資格について抜本的な改革が要請されると考えられる。第一に技術者教育を医師並の高度な教育システムに改善し、専門的学術の修得と平行して技巧(スキル)教育の充実を図り、合わせて技術者の資格と身分保障に対する社会的システムを構築することである。技術者教育は技術者の社会的な資格と連動して学生がその目標を明確に認識できるようになっていることが必要である。その意味で教育改善の前に「資格と保証」を先んじる必要がある。技術者としての門戸を常に狭くし、社会が技術者の価値を高く認めるようにしなければならない。その上で、専門性を持つ技術者の周辺に補助的役割を担う人材を配置する全体構想を要する。このようなシステムが構築されれば専門家としての技術者を養成する教育、補助的な人材を養成する教育の概念が明確になる。また、スキル教育は技術者の中核的な教育領域であることに対する確固たるコンセンサスを要する。
最後に私見であるが、現在の日本の技術者教育はすっかり自信を失い、教育するべき像を放擲して「ゆとりの教育」などの非専門家教育と同一になりつつある。その点で筆者も含め技術教育に携わる人が技術の社会に及ぼす影響の大きさについて認識を新たにし、プライドを回復して高度な専門性を有した技術者の輩出に力を注ぐ必要があると考えられる。
また技術が「人類の福利」に貢献することを目的としている以上、「教育を受けたことによって本来の目的に対する意識がより強固になる」ことを目指さなければならない。かつて人類が原子力という科学的力を手に入れたとき、技術の専門家でない人たちはそれに参加することはできなかったが、技術の専門家はその専門性を発揮して原子爆弾を作り、それを市民の上で炸裂させた15)。
この論を閉じるに当たって写真を二葉かかげる。右は原子爆弾を産んだ「優れた」科学者であったオッペンハイマーであり、左は長崎での原子爆弾投下のあと、死んだ弟を死亡した両親に代わって集団埋葬地の前に連れてきて立ちすくむ少年である。人類にとって最高の教育を受けたオッペンハイマーとまだ教育を受けていない少年のどちらが「優れて」いるのだろうか?
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この厳しい問いは一面的ではあるが技術における教育の本質的意義を問うものである。工学教育は単に技術的な能力を磨くばかりではなく、それと調和した人間的な力を高めなければならない。原子爆弾を作る能力とその巨大な力に相当する人間的な力を持つのは不可能であるとも言える。20世紀後半での核兵器拡大競争において広島型原子爆弾換算147万発の核弾頭を製造した事実は、広島における原子爆弾投下の倫理があれほど厳しく問われたことを考えると、工学教育の難しさを感じさせる。
(本稿は雇用・能力開発機構の中嶋俊一教授のご推薦で「ポリテクカレッジ」へ投稿の機会を得た時に執筆したものである)
名古屋大学 武田邦彦
参考文献
1) F.ベーコン(桂寿一訳), ノヴム・オルガヌム, (1978), 岩波書店.:Bacon F, "The Two Books of the Proficience and Advancement of Leaning", (1605).
2) 武田邦彦、「環境にやさしい生活をするために「リサイクル」してはいけない」、青春出版 (2000)
3) 岩堂憲人, 機関銃・機関砲:近代戦の主力兵器総鑑, (1982), サンケイ出版.
4) 武田邦彦、「吉田松陰」、芝浦工業大学萩市シンポジウム (1997)
5) レイチェル・カーソン、「沈黙の春」、新潮文庫 ( 1962 )
6) D.H.メドウスら、「成長の限界」、ダイヤモンド社、p.3 (1972).: Meadows D L, "Toward Global Equilibrium-Collected Papers" Cambridge, Mass.: Wright-Allen Press, (1972),
7) ウ・タント, 世界平和のために, (1972), 国際市場開発
8) 増子昇, 鉱山, 10, (1975), 9-15.
9) 武田邦彦、「工学倫理の構成」、工学教育, Vol.45, No.6, p.2-5 (1997)
10) 武田邦彦, 本多光太郎記念特別講演記録, (1998), 名古屋大学.
11) 武田邦彦、「われわれはどう生き、なにを子孫に残すのか?」、平成9年度港区区民大学公開講座、
P.138 (1997)
12) E.S. Ferguson, Engineering and the Mind's Eye, Massachusetts, The MIT Press., (1993)
13) 生駒俊明,武田邦彦ら, 産学連携とその将来, (1999), 丸善.
14) フランシス・ベーコン、「ノヴム・オルガヌム」、岩波書店、(1978)
15) G.アルペロビッツ(鈴木俊彦他訳), 原爆投下の決断の内幕 上, (1995), ほるぷ出版.