知識の積み重ねのない工学教育はありうるか?
1.はじめに
日本の高等工業教育は良しにつけ悪しきにつけ、世界の中で特殊な環境にあり、独特の教育内容を持つ。この原因は大学の工業教育の歴史的な関係と、日本文化や日本風土の影響を無視できない。例えば、日本の大学は教育機関として社会から認知されているにもかかわらず、工学教育の改善や内容はほとんど研究されたり検討されたりせずに、教員の「工学研究」の合間に行われていると言っても良い状態である。時として教授会や各種の委員会で工学教育改革が議論されることもあるが、それらは必ずしも永続性が無く、また議論に終止することが多く実際の教育に活かされる例は少ない。
一方、現在の世界の工業の発展段階、及び工学の進歩は大きな転換点に来ていることは良く指摘されることである。先進国の工業は成熟し、鉄鋼産業や重化学産業から情報産業、サービス産業へと転換しつつあり、発展途上国は先進国との発展段階の差を急速に埋める必要があり、多くの問題点を抱えている。さらに人口の急増と工業の発展により、環境問題、資源問題、そして生命工学分野の倫理問題など新しく困難な課題を処理する必要にも迫られている。一方では、20世紀半ばから自然科学の新規な発見がほとんど見られなくなり、自然科学の発見を人類の福祉に役立てる目的でその原理を使用する工学も転換を余儀なくされている。
現在の多くの日本の工学教育体系は高度成長期に構築されたものであり、これほど社会が変化しているにもかかわらず、学生が高度成長時代の工学教育体系の中に居るとしたならば、一刻も早くそこから学生を救い出さなくてはならない。今こそ、従前にも増して工学教育についての本質的議論を深め、試みをしなければならない時であると考えられる。
著者らは工学教育における倫理教育の重要性について論じたが[1]、すでに世界の多くの大学では、産業と工学の転換に際して、新しい工学教育を検討、試行し探索を行っている。ここではまず、その試みのいくつかを紹介し、それがその国の産業と工学の発展段階とどのような関係にあるかについて論じるとともに、これからの講義方式として注目されているBreadth-First講義について論じた。
2. Breadth-First講義に関係するアメリカ、ヨーロッパの新しい試み
カルテック(CALTECH)はアメリカの大学の中でもトップクラスの大学で、かつ少数教育で知られた大学である。この大学は教育の最初の段階で「設計する」という経験をさせる新しい教育の試みを行っている.このことによって大学教育に創造性、デザインプロセス、競争などの要素を織り込めるというのがその考え方である。この教授方法は二つの目的をもって行われているが、それは
(1) 工学においては知識とともに「考えるプロセス」が大事であること,
(2) そのために通常の学習と順序を逆にすること、つまり基礎理論を教えてから最後に設計課題を課すという方式とは逆の順序が望ましいこと
と考えられているからである。具体的にCALTECで試みられている2,3の例を以下に示す。
課題A.スパゲッティと粘着テープだけで,高さ1mの机からどれだけ遠くまでのびる構造を作れるか?
課題B(1週間程度の課題).ストロー200本,テープ一巻きで,どれだけ重い重量を支える構造をつくれるか? 高さをh,破壊する時の荷重をwとして,この講義は学生コンテストを行い h(4乗)・w(2乗)の値の重量に耐えうる大きさを競わせる.
課題C(4週間の課題)モーターの回転を変速してフライホイールに伝えるトランスミッションの設計を競う.トランスミッションはプーリーで作り, アルミとかプラスチックスなどの素材を学生が自分で選択する.300rpmに達するまでの時間T,最大回転数Rとして,R/Tを競うコンテストを行う.
課題D(10週で一つのテーマ) 対象は20から30人の少人数の学生で、本格的なテーマを与える。この授業の指導はかなり大変であるが、この程度の学生なら対応できている。
次に同じくアメリカのメリーランド大学の例を示す。メリーランド大学は最近急激にレベルを上げてきた大学で、全米大学ランキングの17位に位置している。メリーランド大学の新しい試みは、まず「工学教育の改革」のための 大学間協定の1つ "ECSEL Coalition"(他に Pennsylvania State Univ., MIT, Univ. of Washingtonなど6大学)に参加し、タイプの異なった大学との意見交換を常に行っているが、その議論の成果として1992年から新しいプログラムをスタートさせている。
工学デザイン概論( "Introduction to Engineering Design" )と題した3単位の1年生向けコースがそれであり、従来の学部教育が数学からはじまり基礎科学を経て"design"に至っていたが、デザインと制作(design & manufacturing) を最初に置いていることが特徴である。このコースでは、「ものづくり」を通して 工学デザインの基礎を学ぶことが狙いである。すなわち、
① 少人数のチーム単位で設計、製作、テストまで行うこと、
② 4年生が助言者("Teaching Fellows") として様々な助言を与えること、
③ この様な授業を工学部の1年生全員の必修科目としていること、
などである。このプログラムの中の"Teaching Fellows"という存在は "ECSEL Coalition" の1つである Pennsylvania State Univ. のアイデアでもあり、そのアイディアを取り入れている。アメリカでは大学間の教育検討が前向きに行われており、教員間でも電子メールを使用した研究会がもたれていることは日本の工学大学の教員にとって刮目すべきことであろう。
またこれと並行して、メリーランド大学では生産工学と製作("Product Engineering and Manufacturing") と題した2年生向けのコースを設けている。実際の製品を使って "redesign" を行わせる。具体的な方法では民間企業から製品の提供および講師の派遣をしてもらい、製品企画から市場への投入までの全プロセスを学ぶ。また、学部学生に対する教育改革とともに修士課程のカリキュラム改革を行っており、大学院でも "practice-oriented program"を増強している。具体的な教育改革の例として次のような例がある2)。
(1) Computer-Adided Life-Cycle
電子部品(LSI)の熱サイクル疲労による基盤からの剥離とチップ内損傷のモニタリングの実験で、専攻内で製作された物の製作から検査まで一貫して教える。
(2) Satellite and Hybrid Communication Networks
画像処理法,特に高速画像処理法の開発で、衛星からの不鮮明な画像を鮮明画像にしたり、テレビ会議用のモニタについても高速化を大学院生が目指す。
(3) Pinball Machine
ピンボールに16個の仕掛けを作り、これに対しコンピュータ処理を行ってゲーム機を作成する。プログラムと仕掛けのアイデアを中心に実習しゲーム機の絵画のデザインも学生主体で行う。
(4) Advanced Design and Manufacturing Lab.
人工歯の磨耗実験で、人工歯の上下のすり合せを楕円平面運動とし,上下のかみ合せ力を変化させ,セラミックス製人工歯の磨耗実験を行う。
(5) Future Car
電池と燃料(アルコール)のデアルモードのエンジン・カーを製作を行い、省エネルギーを達成するために車体軽量化も行う。そのためボンネットはFRP製で学内で成形し、シャーシはアルミを使う。この場合は設計のみ大学で製作は企業に依頼している。軽量化のためブレーキシステムやバッテリーの開発を大学院の学生を中心に行っており、このプログラムは学部学生も参加している。
(6) VLSI Design Automation Laboratory
実際にCADを使って,VLSIチップを設計したり,hand-in design を与えて,チームワークとかコミュニケーション力も向上させる試みである.
(7) Intelligent Servo-systems Lab.
これはロボットの運動シュミレ-ションと運動を行うシステムづくりを内容とした教育プログラムで、最近の学部の授業では子供の乗り物(三輪車のような物で足で漕がずにハンドルを細かく左右の回転させて進ませる)にヒントを得てその原理を利用してモ-タ-により電動化することを行っている。
この様なカルテックやメリーランド大学の試みは特別な例ではない。例えば、南カリフォルニア大学も積極的な工学教育改革に取り組んでいる。教育の中心的思想は「学生中心の教育」ということであり、大学はこれまでの知識中心の教育に対する反省があるし、社会も知識だけの工学者を必要としなくなったという認識である.土木でいえば単に土木のことを知っているというのでなく,SAR(合成開口レーダー)やGPSなど利用できる最先端技術を使う授業がもたれている。また講義では自動車の上に電子回路がのっており,センサなどが見える模型自動車の製作を試みている。1年生20人のクラスで4~5のグループを作らせてコンテストも行う試みも行われている。
これらのアメリカでの工学教育の方向に対して、ヨーロッパはアメリカに比較して伝統的な教育を続けてきたが最近になって工学教育にはかなり変化が見られる。例えば、スイスのチューリッヒ工科大学ではチームワーク,コミニュケーションスキル,マネジメントなどを進めている。また創造性教育としての特別のプログラムは持っていないもののセメスタープロジェクトの中で次のような創造性教育の試みを行っている。
(1) 土木工学部:同じ材料を渡して橋を作らせ、どれが最も重い荷重を支えるかを競う。
(2) 情報工学部:ロボットコンペで、床の50個の木片を最も早く集めるロボットを作る。
(3) 機械工学部:起伏のある実際のコースで最も操縦しやすい車椅子を競う。
さらにチューリッヒ工科大学の工学教育を改善するために産業界、大学,学生,専門家の4者の検討が行われており、次のテーマをそれぞれのワーキンググループ(WG)で取り上げて中心に議論されている。そのテーマは学生の工学ばなれ(motivation)、大学教育の質の保証と相互認定(quality assurance and recognition)、国際化(internationalization)及び社会人教育(continuing education)であり、いずれも今日の日本が抱える工学教育上の問題そのものであることを考えれば、工学教育を取り巻く環境が日本と欧米が基本的に同じであることを感じさせる。
次に、「学生参加・ものづくり」を取り入れた教育から、「コミュニケーション」を重視したものになるという見解でもあり、そのための多くの改革が行われている。先の南カリフォルニア大学では学部でビジネス経済学や書き方講座、会話によるコミュミケーションなどの科目を設けていること、修士課程では大学が産業界の人を毎年呼んで会議を行い、そこで大学と産業界で合意されたプログラムを含むコースを作っている.またマルチメディアへも力をいれ、映画、アニメなども採り入れ、衛星を使用した講義も行っている。
コミュニケーションという点に注目してカリキュラムの大改革を行ったのが、アメリカのスタンフォード大学である。新しい教育プログラムは1994年から実施され、その柱は、
① 1-2年の全学生に外国語を履修させ、ある基準まで到達させる、
② 同じ1-2年生に母国語の作文の訓練をさせる
③ 3-4年生に専門分野の作文の訓練と専攻以外の副専攻の学習を課す、
④ 学生が自ら卒業研究のテーマを申告する
の4つである。外国語はドイツ語の教授が中心となって作成したが、語学で人気のあるのがアジア関係、スペイン語である。母国語の作文は工学部の教授陣の要求で始まった科目で学生にはかなりハードな訓練が施されており、3-4年次には専門の論文を書けるまでの作文力を付けさせるのが目的である。スパルタ式という点では個性教育が重視される中でやや時代の方向とは異なる教育方針とも言える。作文や語学が嫌いで数学が得意な学生も過酷な課題を課して、それをやらせるというカリキュラムの考え方である
。
また、最近のアメリカでは副専門を持たせること、又はダブルの専門家として養成するプログラムはかなり多くの大学で試みられているが、スタンフォードでも詳細なプログラムを用意して学生に副専攻科目を5つに限定して取得させる。このシステムは学生にはもちろん有益であるが、これを作るに当たっては、一つの専攻に対して最も重要なコアーとなる科目を選択することであり、この改革は学生ばかりでなく大学にとってもどの科目が本当に必要であるか、という点が明らかになり大変有益であるようである。
卒業研究のテーマを学生自身が申請する新しい試みは大変冒険的な試みであり、学生にある程度のガイダンスを行い、それに対して学生が研究予算書と研究計画書を提出する。研究予算書には研究に必要な材料費、旅費、雑費などを含み、研究計画書はその研究に対する知見を要する。学生の大半は研究の経験がないので、計画を立案できず、全学生のうち、25-35%がこの計画を申請する。
学部時代のスタンフォードの学生は、このようなしっかりしたプログラムの元に、4年間で180単位を取得することが義務付けられる。ちなみに、スタンフォード大学の1単位は1時間の講義と2時間の自習が基本であり、宿題はたっぷり2時間分が出される。かなりハードな大学生活であるが、それでも学生の不満は無い。
ボストンにある中堅の私立大学であるタフツ大学では一貫して「即戦力より、潜在能力」を掲げた教育をしている。アメリカでは生涯3回職業を変えるのが平均的であるので、具体的知識や資格より、それを生涯にわたって理解し実施することのできる基礎的ポテンシャルが重要であるという基本的認識を持っている。その認識にそって「短時間講義(セミスター制で)」「ダブル専門(専攻を2つ持つ。例えば経済と数学、工学とフランス語など)」を実施し、さらに一部インターンシップ制や公認会計士訓練を行わない見返りとしてオッペンハイマーやソロモンブラザーズなどのアメリカの有力会計事務所に来てもらい、訓練や就職指導をするようにしている。
3.東南アジア、東アジアの新しい試み
東南アジアと東アジアは工業の発展段階が国によって異なるので、工学教育の内容も千差万別である。インドネシア第一の工科大学でアジアの工科大学でも有名なバンドン工科大学では、大学全体の近代化とともに学科の再編成を行い、それと併せて基礎的工学に力を入れようとしている。計画担当の副学長は「これからの学問では基礎が大切と言われている。そのために、この大学では基礎過程を大切にして、十分に数学、物理、化学などの基礎を教育する」という方針を立てて教育改革を進めている。学生が興味を持って講義を受ける方法については特に関心はないようである[3]。
インドネシアは農業が盛んで、段々畑が拡がる。しかし都市に近づくと突然大きなビルが現れて、そこでは銀行や情報関連企業が並ぶ。その中間に位置すべき中小企業や加工工場、部品工場はあまり見られない。日本の関東で言えば、東京周辺の工場地帯が欠けているとも言える。この様な工業が無いということ機械部品が十分に供給されず、加工体制が十分でなく、銅精錬や石油掘削などの天然資源を活かすシステムも不十分になる。国の産業の状態がそのまま工学教育に及び、基礎部門の教育と情報工学や生命工学という最先端の工学教育が同居していることと深く関係している。
韓国は日本にも近く東南アジアの諸国より工業化も進んでいる。ソウル大学は近未来の工学のために工学教育改善を行っているが、その第一段は5年前に行われた学部再編による工学教育改革である。学部再編では全ての学科をいくつかのスクールと呼ぶ小さな学部に分けてそれを工学部に統合する計画であったが、個性的な学科が抵抗して計画通りにはならなかった。建築学科、コンピューター工学科、工業工学科、海洋工学科、原子力工学科は学科で独立し、化学及び高分子スクール、土木・都市・鉱山スクール、電気工学スクール、材料工学スクール、機械・航空スクールの5つのスクールを作った。
このほかに学際領域をカバーする「学際プログラム」という緩い組織があり、教育や研究の指導を行っている。スクールをまとめたことで組織の流動的な運営が出来るようになり、近未来に向けての集中的な教育も可能となったが、一方では1つのスクールに入った学科のなかで人気のある学科と人気の無い学科が混在しているところは難しい問題も起こっている
。
韓国ではいわゆる「オーソドックスな工学教育」が存在する。現在の経済はかなり痛手を受けているとはいえ、韓国の工学をさらに発展させなければならないことは合意されている。その工学は「土をならして道路を造り、建物を建て、大型機械を入れ、化学工場や高分子工業を盛んにさせ、電子工業、情報産業などはさらに進展させなければならない」という工学である。従って従来型の工学教育を進められる素地があり、学生もそれに呼応する準備があると言えよう。
韓国とシンガポールの工業はある程度その発展段階が類似しているが、シンガポールの南陽理工大学の工学教育システムは特徴がある。この大学では学生が大学一年に入学したら、学生は大学卒業までに取らなければならない144単位を取得するために活動を開始するが、このうち17単位は後で述べる特別な教育プログラムで取るので、残りの127単位を標準的な大学教育プログラムの中で消化することになり南洋理工大学ではこれを特に「アカデミック・プログラム」と称して、以下の教育と区別している。標準的な授業は50分が単位で、15週で一単位となる。そのうち2時間が準備と試験に当てられる。
2年次になると8週間の学内実習がある。「学内インターンシップ」とも言うべき教育プログラムである特定のテーマと機器を用いて学内で実務を行い、実務の進め方、集団での仕事の仕方、実務自体の修得を行う。この8週間の学内インターンシップには4単位が与えられる。3年次になるとこのインターンシップは24週間になり、学外の企業へ派遣になる。シンガポールには日本の企業も含めて多くの優れた企業があり、これらの企業に行って十分な訓練を受ける。この24週間の学外インターンシップには5単位が与えれ、2年次のインターンシップとともに必修科目である。
最終年次の4年になると卒業研究は企業からの提案で行われる。企業と大学のスタッフが相談の上、企業が必要とするテーマを決定する。そのテーマの実施に必要な研究資金と機械類は全て企業から提供される。テーマは普通学部生でできるものではないので、その研究室が総出で取りかかることもあり、時にはさらに企業の人が参加することすらある。企業にとってみれば、①実際に研究が進む ②人件費が要らない ③大学と強いコンタクトができ優秀な学生を確保できる ④その学生の予備的教育すら行える と大変なメリットがある。特に優秀な学生に3年のインターンシップから教育を施せば、企業に取っては願っても無いことなのである。
4.工業の発展段階と新しい工学教育
工学教育の発展段階を工業及び社会との関係で見れば、大きく3つの視点から見ることが出来よう。第一の視点は「その国の工業化発展段階と工学教育」であり、第二の視点は「工業化が成熟した社会における工学教育」、そして第三は「工学教育という学問自体の発展」である。
第一の視点を日本に例をとると、まず日本の工業化が始まる昭和初期においての工学教育体系の構築であり、次に1960年代の高度成長時代の追加的工学教育システムの確立である。現在、日本の大学は高度成長時代の工学の形態を保っている工学系大学がほとんどである。アジアの国の多くは日本の今までの成長期のいずれかに類似しているところも多い。アジアの大学では国自体が成長過程にあり、賃金の上昇、生産性の向上が至上命令である。学生もその点はよくわかっているので工学教育は伝統的なカリキュラムで積み上げ方式が成立するようだ。
国の経済が成熟した後の工学教育という第二の視点をアメリカを例にとってまとめると、1950~60年代にかけてはソ連のスプートニクによるショックがアメリカを覆い、工学界は衝撃を受け基礎科学と工学の重要性が強調された。そして1970~80年代になるとベトナム戦争の終結や社会の変革により、より幅広い学問の必要性が強調され工学においても教養科目の重要性の認識、副専攻などの広い分野の修得、学際領域の重視などへと進んだ。さらに1990年から現在に至り、工学者のコミュニケーションの能力とチームとして活躍できる調和が要求されるようになってきた。それと共に成熟社会は工学教育にも転換を求めた。その結果、多くの大学が大学改革の一環として、
(1) 物づくり(hands-on design experience)
(2) チーム作業(teamwork skills)
(3) コミュニケーション(communication skills)
を教育の柱に据えるとともに生涯学習能力(lifelong learning)のための能力とモチベーションを与えることを目指すようになってきたと考えられる。この傾向はアクレディテーションを進めているABET2000においても、従来のアクレディテーションの視点であった「大学の教育を評価しよう」という姿勢が修正され、
(1) 工学部に入学した学生が途中で工学を嫌いにならないよう
(2) 知識だけでなく実践力を身に付けるよう
(3) 生涯学習を続けられるよう
という考え方を持ち込もうとしている。
第三の視点としては学問としての工学教育の進歩をあげる必要があろう。大学改革において初期に設定された内容は主に大学または教員の改革であった。本来、大学には教育と研究という2つの側面があるために、「教育改革」においても「研究」が強く意識されたのである。その結果、大学改革は教員改革へとつながり、ファカルティ・ディベロップメント(FD)という日本人には難しい英語がそのまま使われた時期もあった。しかし、大学教育を考えるときに大学研究からの視点では不満足であるということはすぐに気がつかれ、学生中心の教育改革が行われるようになった。学生がキャンパスでどのような生活をしているか、履修科目は選択できるか、学生の満足は得られたかなどの問題が討論され、改革されてきた。
少し考えてみれば当たり前の事であり、大学の活動の一面である教育では国立大学でも私立大学でも学生が需要者であり学生の為に教育を行っている以上、大学や先生の自己満足では済まないことは当然である。さらに工学教育はカリキュラムなどの形式的システムと実際にどの様な授業が行われているか、その授業で学生がどの程度満足しているかの授業評価へと進んでいった。現在の先端的な教育を行っている工学大学の多くは第三段階というべきこの段階にある。
さらに最近の工学教育学では「成果主義」が論じられている。どんな優れたカリキュラムと設備、そして学生の満足のいく講義を行っても、大学を出る学生が満足できるレベルに達しているかが問題である。例えば、多少表現に問題があるかもしれないがわかりやすく表現すると、学生を教育という分野の芸術作品に見立てる。芸術作品は素材やノミ、そしてその素材を彫る時間や努力などでその作品を評価するのではなく、作品そのものの芸術性を評価する、ということであり、それと同様に「どのような教育をしたか、それが達成されたか」ではなく、卒業する学生自体を見て教育の成果を判断しようとする考え方である。
この面で先端的に研究を進めているアメリカの教員は「その大学に何人の教官がいるかとか,どういう講義があるかというのは,学生に対する仕掛けでしかない.むしろ,教育の結果どういう学生が育ったか作品自体を評価しようという考え方である.」と述べている[4]。実際の基準作りなど困難なことが予想されるが教育者として信念を持って改革に当たる意欲は見習うべきことであろう。
5. Breadth-First講義方式とそれが成立する要件
以上の様な工学教育を取り巻く環境の変化と工学教育学そのものの進歩とともに講義の進め方についても新しい方式が提案されている。従来の工学教育における典型的な講義は「その学問の基礎から徐々に組み立てていく」という方式が圧倒的であった。基礎から組み立てる講義方式であると基礎的知見を教える時間が長くなり、実際の工学と離れがちである。それを補うために学生実験、実習などで補うことが行われていた。しかし、工学と学生気質の変化からその学問分野の基礎的事象を取り扱う講義自体にも変化が求められてきた。
Bredth-first講義と呼ばれるものは、いままで基礎から積み上げてきた講義内容を「横割り」とすると、2年分の講義を「縦割り」ににして教える方法である。例えば材料工学では、「鉱山学」「材料の合成と精製」「材料の組織」「材料の成形」「材料の特性と機能」「材料の応用」などの講義を基礎から順番に積み上げる方法が行われてきた。
この様な講義方式を”Depth-first”と呼ぶ[5]。学生は最初の頃はじっと我慢して何に使われ、どういう意味があるのかを知らされることなく、材料の組織を勉強する。社会の所得が十分でなく、苦しい学業を通して将来の職業を得ようとする社会段階の時にはこの様な講義が成立したが、成熟し、高度化した工業社会では大学の講義としても成立しにくい。むしろこの様な基礎的講義はいったん社会に出て工学技術者としての経験を得た人にこそ生涯教育として成立する。
Breadth-First講義の例としては、例えばある材料の用途を15週の講義の最初の時間行う。「コンタクトレンズにはどのような材料が使用されているか」が最初の講義内容で、「目の生理とコンタクトレンズの機能とはどのような関係があるか」「コンタクトレンズに使用されてきた材料の歴史」「材料の特性」「材料の合成」というようにDepth-first講義の内容と正反対の順序で進むのである。この様な講義をすることにより、学生は最初からその材料の意味がわかり、興味を持って聞くことが出来る。著者は1997年度後期3年生の選択科目でこの方式を試みたが、おおむね好評であった。
この方式はアメリカでもまだ試行の段階であり、例えば情報系の工学では試行的教科書が3つほど書かれており、それらの教科書を使用している先生方が研究会を持って教育効果を確かめている段階である。この様な試みには欠点もある。最大の欠点と考えられているのは、基礎の部分のうち、教えることが出来るところと抜けるところが出るという事である。いわゆる虫食い現象をどのような考えるかが今後の課題であろう。
しかし、現代の世界の工学教育方向や工学教育学の進歩から見ると、早晩、大学の工学教育がBreadth-First方式へ転換して行くであろうと考えられる。
おわりに
学問は新しい概念や方法、原理を明らかにするものであり、大学における教育もまた積極的な改革を行うことが必要である。特に、日本においては大学が我が国で自然発生的に生まれてきたものではなく、欧米からの輸入制度であり、かつ第二次世界大戦以前の日本の工学教育は欧米の知見を伝達し、よって富国強兵に寄与することをその主目的にしていた。それ自体の価値の評価はさておくとして、戦後も高度成長期に現在の工業大学の教育体制が基本的に出来上がっている。そのような歴史的背景を無視して、日本の工業大学の教育システムなり、講義方法なりが深い伝統と歴史を持っているような評価をするのは少し無理があるように考えられる。
現在の先進国の工学教育システムは21世紀を迎えるにあたり、社会的要請と工学的側面からその変革が迫られているのは論を待たない。しかし、単にアメリカがこういう試みをしているから、ヨーロッパには日本と違う試みがあるから、という理由で単純にその制度を日本の大学教育に持ち込んでも成果はおぼつかない。それは東南アジアや東アジアの大学教育を見ればわかることであり、その国の工学教育は歴史と社会・工業の発達、そしてより広くはその国の文化に直結しているからである。だからといって、世界の大学はその社会と工業の発展段階に併せて、次々と大学教育の改革を行っている。情報時代の今日それらを謙虚に学び、これまで自分の所属する大学の短期的な経験にこだわることがなく、学生の変化する気質を考慮して大胆に大学教育を研究していく必要があろう。
引用文献
1) 武田邦彦、芝浦工業大学研究報告、理工編、Vol.31-1, p.35-43 (1998)
2) 都倉信樹ら、“アメリカ視察報告”、工学教育プログラム検討委員会(1997)
3) 武田邦彦、“世界の工学教育”(1998)
4) G.M.Rogers, “A presentation for current trends in engineering education”, presented at Symposium of Engineer’s Education Program, at Nagoya University, 1998年2月21日。
5) J.Impagliazzo and P. Nagin: “Computer Scinence A Breadth-First Approach
with C”, John Wiley& Sons,(1995).