カルテック


 名前が良くて、小規模、そして名声。大学を経営する人なら誰もが「いいな」と思うような大学がカルテックである。カリフォルニア州のパサデナにあるこの大学は魅力的だ。


カルテックのアウトライン

 カルテックは1891年,ツループ氏の創設した職業学校が発祥である。1920年に現在の校名に変更し、その後ヘイル、ノイス、ミリカンと言う人たちが、理想を掲げ大学に対する夢を実現し、素晴らしい大学となるよう将来への方向づけをした。それが功を奏して小規模ではあるが特徴のある大学として世界的にも有名な大学になった.現在は,約900名の学部生,1100名の大学院生,280名の教員,248名の研究職という「非常に」と言って良いほど小さいサイズの大学である.それでいて全米の大学ランキングで一昨年は8位,昨年は6位にランクされている。ヘイルらが描いた大学の夢が実現したと言えよう。

 学部というより人数から言えば学科に近い"部局"と呼ばれる組織は、生物学、化学及び化学工学、工学及び応用科学,地学及び地球科学、人間及び社会科学、物理、数学及び天文の6つがある。カルテックが全米大学で上位をキープしている一つの理由は何と言っても学生数を絞っていることであり、学部学生は1学年で実に220名しかいない。トップクラスの学生が入ってくるとともに、その学生を300名近い教員で教育するのであるから良い大学になるもの頷ける。

 この大学の運営方針は、「良い大学ということを、そのまま当たり前に実施する」ということであるから、商業主義や権威主義に毒された普通の大学のイメージから判断するとおかしなことも多い。例えば、大学院生の数は特に制限していないが,拡大主義は結果としてあまり良くないとして採っていない。カルテックでは優秀な学生をどんどん他の大学の大学院へ行かせている。それは優秀な学生は出来るだけ視野を広くさせたいから、という理由である。日本でも問題になっているように、普通の大学では「優秀な学生の囲い込み」という現象があり、大学院への進学者を増やす目的や、教員の研究のため、さらには教員の勢力争いに大学院生獲得が使われるが、カルテックではそんな事は行われない。思えば日本の大学はほんとに汚れている。学生の将来の事よりも大学のメンツ、経営、教員の勢力争いの方が優先し、それを防げないでいるのだから、とても恥ずかしい。

 カルテックでは教員の半数以上は外国から来ている.教員として優れた人材がアメリカの中にいると決まったわけではない。むしろ世界に人材を求めた方が良いと大学当局の人は言う。世界記録の方が日本記録より優れていることと同一である。要は,学生の為に「ベストの人間を見つけること」という方針に尽きる。

 また,なんでもそろえるという方針では良い大学は出来ないという考えで、特徴のある大学を目指している。例えば、時代とともに革新していくには講座制は不都合であるので採用していない。またそのときそのときの学問や社会の情勢に併せて重点を置く学問分野を絞り込み,もっとも大事と思われる所に力をいれることに気を配っている。

 入学方式にも特徴がある。学部の入学は入学委員会の二人以上の教員が応募書類を読む.高校の成績,共通試験であるSATなどの情報と,2,3題の小論文を課する。応募者が記入する欄には「応募者に,自分の興味、経験,背景等」を書かせ、それを大学へ知らせるチャンスを与える.大学は応募してくる学生の全体像を良くよく知らなければならないと考えており、その点では小論文は入学の選抜で重要な部分とみなされる.例えば、小論文の課題の例としては、"現代の工学と科学を論ぜよ"という様なものが出題される。カルテックはゴールデンゲート大学とは全く質の違う大学ではあるが、自分たちが教育する学生は自分たちが納得した学生でなければならない、という基本の所は一致している。日本では自分の大学の学生の悪口を言う先生が居るが、随分違う。

 それでも220人の枠に約2000人の応募者がある。優秀な入学生を選別してるので、他のアメリカの大学よりドロップアウトは少ないが、それでも平均して4年で卒業するのは70%であり、15%が5年以上,10%が他の大学へトランスファーする.残りの5%ははっきりしない.ドロップアウトであろうと大学側は推定している。

 大学の途中で大学を変わる、いわゆる「トランスファー」の学生は低学年のときに他大学から20数人がトランスファーするという程度で少ない。また、副専攻制度をもっているが、実際に副専攻を採る学生は15人くらいである.これは専門の組み合わせの近いものでないと履修が大変であるという理由である。大学も副専攻の取得(ダブルメジャー)を目指して無理なカリキュラムにならないように指導しているし、ダブルメジャーでも主教科となるべく一致しているように取得単位リストに基づき指導している。

 カリキュラムとしては18年前に卒業所要単位を減らし、2年前,そのバランスを変えた.すなわち数学,物理,化学を必修にしていたが,昨今の状況を考慮して,生物を一学期分(分子生物学)いれた.ほかに,天文学か地学を選択科目とした.また、人文科学の専門の先生が倫理の講義を担当している.面白い講義をしている.学生にとって退屈ではない.また卒業研究は原則として学生に課していない。

 大学院への入学は試験はない.定員などもなく、調整もしない.大学院の方は、学部より自由な履修システムで、年限も少しばらつくが、大体博士号をとるのに,4年から4.5年かかっている.マスターはコースワークのみで,大体1年である.大学院の履修については米国には二つのモデルがあり、 一つは,MITモデルでコースワークと論文で2年のもの、 もう一つは,カルテックの様なモデルでコースワークのみで1年という事である。これはカルテックの場合、博士を目指している学生がほとんどなので、博士号を取得するまでの全体の年限を短くしようと大学は努力している.従って、例えば取得に5年以上かかるときは,理由を指導教授が説明しなければならない.また短い方では3年で学位取得も可能だが,あまり推進はしていない.研究者として一人前に働き,活躍するにはそれなりの周辺の知識がが必要だからである.例えば、コミュニケーション,発表の能力,研究を遂行するためのノウハウなどは、ある程度の研究経験が必要であるという考えを持っている。

 大学の収入は1997会計年度の予算案では,授業料から11%,寄付など31%,研究契約が54%,他収益事業5%の収入である。スタンフォード大学もそうであるが、全体の収入に占める授業料からの収入は少なく、この程度で有ればかなり良い教育が出来るだろう。

 大学認定制度(アクレディテーション:ABET)について大学としてはあまりクリアに態度は決めていない.今まで実施されている認定制度はあまりにも伝統的すぎるし,認定を受ける作業が大変でスタッフの数が少ないことからも一部しか受けられない.学生の就職には大学認定制度に基づいた認可を受けることは,役には立つが必要と言うほどでもない。アクレディテーションに対するアメリカの大学の姿勢も変わってきているが、依然として有名私立大学や思想をもって大学運営をしている大学はあまり乗り気ではない。

 教授の評価について学生による授業評価もあるが,カルテックでは主として研究で教員を評価している.従って教員に採っては教育は評価対象にならないので教育を改善しようとするモチベーションはない。教員が熱心に教育する動機は教育に対する情熱という様な心情的なものや外部からの圧力などがそのキッカケであると言える。


カルテックの学生は?

 学生はカルテックにどんなことを期待しているのだろう。少数教育、個性重視、試験無しなどの独特の教育方法は大学側の独りよがりではないのか。将来製薬会社に入りたいと考えている一人の学生はこう答える。

 「何と言ってもカルテックの魅力は大学の評判がいいことだ。将来の仕事を考えると、いい教授陣がいることも魅力である。設備は全体的に優れていて、例えば大学内ではコンピュータはだれでも,いつでも,コンピュータ室へ入れるキーをもっていて自由に使えるのが良い。

 それでも学生生活には多少の問題がある。まず、学費が高い.そのため、アルバイトをしなければならない。ガイドやその他のアルバイトは時間あたり12ドル程度、教授の手伝いは時間あたり15ドルで学生の80%がキャンパス内でバイトをしている.学生に採って最も収入の大きな仕事はティーチングアシスタント制である。例えば、生物学の方で45コースで50人のアシスタントがいる.これはほとんど院生であるが、報酬は大体1年に12000ドルにもなる。」

 学生寮の体制は整っているようだ。いわゆる男子学生寮の自治会はないが、小規模の大学なのでもともと寮全体が一つの家族のような感じであると言う。

 学生生活と学習の問題点などについて、学生のカウンセリングを担当しているグリーンさんはこう言う。「カルテックは,大学としての教育環境は良い。問題点は,高校時代は良い成績であったが,大学では良くないので悩む学生がいることである。例えば,高校でトップでも大学では良くないので,プレッシャーを感じる。これは,一般的にレベルの高い大学で発生しやすい問題である。学費の問題,科目取得の問題などがその主たる悩みだ.アメリカの大学には様々な人種問題もあるが、この大学ではカンニングによる罰則など人種差別はなく,公平でフェアーにやっているし、その意味ではあまり問題はない。」

 この女性は学生の履修の指導などを専門に担当している人であり、歴史学の学位をもつ。日本でいう教務に相当する仕事と大学のアーカイブ(文書)の管理をおこなう仕事を兼務している.学生の学業状況、例えばコアカリキュラムはとっているか,専門科目はとっているかなどであり2年生全員に面接する.また時間割を作成するなどもこの人の担当である。大学関係の文書記録も担当している.歴史で学位を取っており大学の文書記録の資料も使って,カルテックの歴史を書いたりしている.日本なら百年誌編纂委員会などというのに相当するが,それを日常的に資料を整理保管し,歴史が把握しやすくしている専門職をおいているというところがアメリカらしい。


教育の工夫

 カルテックの新しい教育のこころみとして、例えば、まず「物」を設計するという経験をさせる.このことによって創造性、デザインプロセス、競争などの要素を織り込める。禅の公案のようなもので,課題を与え,学生に考えさせるのだ.この教授方法は二つの目的をもつ。

1 . 考えるプロセスが大事であること,
2 . 通常の学習と順序を逆にすること(つまり,基礎理論を教えて,最後に設計課題をやるというのとは逆).

 この様な目的のために実施している二,三の例を挙げる。

例題a(1時間). スパゲッティと粘着テープだけで,高さ一mの机からどれだけ 遠くまでのびる構造を作れるか?

例題b(1週間). ストロー二○○本,テープ一巻きで,どれだけ重い重量を支える構造をつくれるか? 高さをh,破壊する時の荷重をwとして,コンテストは h(四乗)・w(二乗)の値の大きさで競う.

例題c(4週) モーター(その特性は学生に開示)の回転を変速してフライホイールに伝えるトランスミッションの設計を競う.トランスミッションはプーリーで作り, アルミとかプラスチックスなどの素材を選べる.300RPMに達するまでの時間 T,最大回転数Rとして,時間あたりの最大回転数(R/T)を競う.マシンショップには専任のテクニシャンが二人いる.

 また、設計Bという授業では,10週で一つのテーマをやる.対象が20から30人の少人数の学生なので実施することが出来るのであって、教育効果は大きいが教官側の手間は大変である.

 アメリカでは大学間で協力して教育の質を上げようとする試みがされている。しかしカルテックは特徴のある大学なので大学相互の連携にはほとんど興味が無い。また基本的には企業との連携による工学教育(インターンシップ)も正式な取り組みが無い。企業との共同研究に伴う関連教育プログラムは実施している。例えばジェット推進研究所と共同研究と教育をかなり大がかりに行っているが、このような教育プログラムには単位を出さない.インターンシップと類似のプログラムとして、カルテックでは,"SURF"という制度が行われている. これは夏期学部生研究実習と言うもので,約40%の学生が夏休みを大学で過ごすプログラムである.学生は何年生であっても応募でき,研究の手伝いをする.これで2ヶ月働いて,大体3300ドルが学生に与えられる.最後に,学生にプレゼンテーションもやらせており,単に手伝いというだけでなく,研究補助を通してトレーニングをするという意義もある.共同研究をしているジェット研究所と組んでこの制度を推進している.最も、インターンシップという制度は本来単位を与えないプログラムであり、日本では「コープ」と「インターンシップ」を混同している。

 やろうと思えばまともな大学教育が出来る。カルテックの行っていることが特徴的に見えるのは我々の周りの大学も含めて世界の多くの大学が「学生の教育」をおろそかにして、大学自体の繁栄や、理事会の利権、教授の権益や勢力などを中心にしているからであろう。カルテックは少人数できめ細かく、丁寧に教育しているだけのこと、と言えばそうである。そして人間の目の届く範囲は限られており、大きくなればなるほど自体は悪くなる。日本の多くの大学でも拡張主義や権威主義、教員中心主義、研究中心主義などを捨てて、本来の教育機関としての目的を持てば、正常な環境に戻ることが出来るかもしれない。例えば、ある機会に定年退職する先生が多ければ、学生の募集を少しづつ少なくして小規模で優良な大学に変身させることが出来るのではないだろうか。

 大学の職員と教員の関係においても、カルテックは一つのヒントを与えてくれる。日本の大学では教員と職員の関係が固定的で教員は教育と研究を、職員は事務的なことをして、教育上の指導や判断は教員が指示することが多い。しかし特に工学教育を担当している教員は研究としては優れているとしても教育者としては社会的判断も受けていないし、訓練も受けない。つまり、工学の研究者として優れている日本の大学の教員が教育者として優れているか、と言う点で全く評価を避けているのが現状である。一方、事務関係者も教育機関の中にいてかなりの頻度で学生に接しているにも拘わらず、「教育者」という意識が少ない。これも教員がその牙城を守るために行ってきたことが反映しているとも言える。この大学の歴史編纂をしている人のように日本の概念から言えば、教員でもなく、職員でもない一つのことをプロとして進めていく「何でも屋ではない、職業のプロ」と育成していければ最高である。

 日本の大学の事務員、特に国立大学の事務官の中には、「この人が教育機関の人か?」とびっくりするような人もいる。事務官は教育に関係ない、資格も要らない。出来るだけぶっきらぼうに定型的な血の通っていない仕事をすればよいのだ、という長年の歴史がそう言う人を作ったのだろう。事務官が規則を曲げて学生の為に何かをやるなどと言うことは全く認められないのだ。しかし、大学が幼稚園であり、学問の訓練と人格の薫陶を目的としているなら、さらには現在の日本の大学の様に講義中は私語だらけ、道徳心が無く、勉強しない学生の存在を許しながら正常な教育システムを論議するのは無理かも知れない。

 アメリカの大学入学制度は日本と少し違う。小学校の時からセンター試験があり、全国的にどの程度の力であるかを見ることが出来る。そして高等学校の二年の時にPSAT、三年の時にSATがある。この全国試験は年に数回行われるので、受験生は何回受けても良くそのうちの良い成績がその生徒の成績となる。日本人は「どこに欠点があるか」という視点で人を見るので試験は一回で、そこでの失敗を重視する。いわば「減点方式」である。それに対してアメリカでは「どこに良い点があるか」を見るので、何回でも試験を受けさせそのうちの最も良い点を取り上げる。

 「失敗有り」のこの方式はアメリカやヨーロッパに多く見られる概念であり、留年などに対する考え方にもよく現れる。

 いわゆるアメリカの一流大学に合格するにはSAT(満点で1600点)の成績が1200から1300点ほどである。アメリカの面白いところはこのSATの成績に「個人特技」の200点が加点されることだ。1600点の中での200点なので対したことは無いと思うかも知れないが、これがかなりの影響があり、ある意味では決定的でもある。実際に一流大学の豪華医者の多くがこの個人特技の点が非常に高いという。

 数学には数学競争会、科学の分野も多くの競争会がもたれる。基本的には州単位で管理されているが、競争会自体はある競争会は町で、ある競争会は父母会でというように多彩である。「個性や特技が大切である」と口で言っているだけでは現実に個性に富む学生を育てることが出来ない。そのシステムを作ることが必要である。

 また、徒競走でも順番をつけないという見当違いの平等主義のもとでは明るい教育は出来ないだろう。どうも日本の小学校の父母の話を聞いていると100メートルを何秒で走る、ということがその人の人格にも関係していると錯覚しているようだ。その人その人の個別の能力はその人の存在価値とは全く無関係であり、100メートルの徒競走に順番をつけるとそれが「評価」になると考えて順番をつけないということ自体、学校が個別の能力でその人を評価しようとしていることを証明する事である。難しい問題だが、日本の小学校も目覚めて欲しい気がする。