リサイクルと循環型社会の矛盾


1.  物質の消費と人間の活動
 
 「リサイクルは環境を汚す」「リサイクルは廃棄物を増やす」「リサイクルは資源の枯渇を早める」「分別しても資源にならない」ということが徐々に明らかになってきている。資源枯渇、地球環境汚染が進行する中で日本の国際競争力と日本人の生命財産の保全を図ることが最重要事項である時に、国を挙げて不合理なリサイクルの実験を進める余裕があるのだろうか?

 日本は一年に約二○億㌧の物質を使って五○○兆円の活動(GDP)をしている。活動には物質が必要で、結果としての廃棄物が出る。たとえば、石油や石炭は二酸化炭素や水となって大気中に飛散し、固体や液体のものは使えば劣化してゴミとなる。そして、日本全体で「質量保存則」が成立するので、活動に使った物質の量に相当する廃棄物がでるのは至極当たり前のことだ。現在「一般廃棄物」と「産業廃棄物」として捉えられているゴミの合計は五億㌧であるが、二○億㌧使っているのだから本当はその数倍あり、「名もない廃棄物」「廃棄物予備軍としての蓄積性物質」として日本のどこかに利用できない形で捨てられている。

 人間は太古の昔から「天然の資源」を原料として「人間活動」を行ってきた。そして、活動の後始末は専ら自然に任せて来た。それでも、常に「自然の循環量」が「人間の活動量」を上回っていたので、人間は自分たちが使った後始末を自然がしてくれているのに気づかず、矛盾も顕在化しなかったのである。


 ところが二○世紀の中盤、おそらく一九四○年代に人間の活動に使う物質量が自然が循環しうる能力を上回った。その時点から直ちに廃棄物と毒物の蓄積が始まったと考えられるが、地球の「包容力」は膨大なので、どこかに隠れて貯蔵されていた。それが顕在化した最初の兆候を鋭く警告したのがレイチェル・カーソンの「沈黙の春」であった。その後オゾン層の破壊、地球温暖化と続き、慌てて日本人は自分の活動によって生じる廃棄物を自らの手で「リサイクル」しようとしたのである。


2.  自然の役割を人間が担当できるか

 これまでの循環は「人間の活動系」、「自然の回生系と浄化系」で成り立っていた。「浄化系」とは活動によって発生する毒物を浄化する流れで、人間の血流で言えば肝臓や腎臓に循環する血であり、自然界では地下水などのように長い時間をかけて浄化する働きである。浄化系の無い「循環」は毒物が蓄積するので本来、成立しない。

 そして、回生系と浄化系を動かすためのドライビング・フォース(駆動力)は太陽エネルギーと地熱などである。たとえば、きれいな川の水でおしめを洗い、汚れた水を流しても、自然は川や海で浄化し、再び蒸発させて山の頂上に雨となって降らせる。すべて太陽エネルギーでまかなわれている。

 もし人間が自然に代わって回生系を担当する場合でもエネルギーと物質を必要するのは変わりない。そして、著者の計算では同じ量の物質を処理するのに、回生系は活動系の数倍以上必要となる。これに対して、現在のリサイクルは石油、石炭、鉄鉱石などの化石資源をふんだんに使って、動かそうとしている。

 すなわち、現在日本が進めようとしているリサイクルの問題点は、材料が劣化することを無視したり、廃棄物の収集や分別の負荷を計算していなかったり、国際貿易とリサイクルの関係を考慮していないなどの初歩的な錯覚もあるが、より本質的には、「物質もエネルギーも追加せずに回生系を駆動できる」「浄化系なしのリサイクルで良い」としているところにある。リサイクルするとゴミが増えたり、毒物が蓄積するのは当然とも言えるのである。

 「リサイクル」や「循環型社会」の実施側の人たちは「もったいない」「地球環境が危ない」などの市民感情に訴えている。それはそれで間違っていないが、私たちの目の前に迫っていることの本質はそれほど簡単ではない。人類誕生以来、「豆豆しく働き、末広がりに子孫が殖える」ことは常に善であり、人間としての証でもあった。それが今や、「あまり働いてはいけない、子孫もほどほどに」という価値観への大転換が迫られているのである。このような大転換期における社会システムの構築は全体的に整合性がある俯瞰的な論理に基づくことが求められよう。


3.  循環型社会の成立要件

 日本で真の循環型社会を成立させるための基礎要件は三つ。

 まず第一に、日本全体のような大きな空間で物質循環するには、長い時間をとらなければならない。生産工場のリサイクルがうまくいっているからといって日本社会全体の循環には敷衍できない。それは場の大きさと時間の相関、すなわち「循環の時空性」の原理があるからである。

 第二に、これまで私たちは、どこからか物質やエネルギーが無限に供給されると思ってきた。そのような「開かれた場」では新幹線の速度を上げたりするような「部分的な効率向上」が全体の効率を上げることになる。しかし、無限に物質の供給を受けることができない二一世紀は、月給が決まっている家計のようなものである。誰かが多く使うと家族の他の人は我慢しなければならない。つまり「閉じた場の効率」を考慮しなければならない。

 第三は、循環できないゴミは日本の国土に貯まり続け、廃棄物貯蔵所といわず日本の平野や山を埋め尽くす。浄化系のないリサイクルは毒物レベルをあげる。従って、どうしても浄化を伴う循環は必要である。従って、将来を拓くには「循環の設計図」を描くことが必要となる。

 以上を前提として、困難ではあるが、解決する方法は三つ。

 第一に、廃棄物は生ゴミであれ、紙、プラスチックであれ、家電製品、家具であれ、すべて一括して焼却し、電力を回収、灰は「人工鉱山」に貯めておくこと。つまり「国単位の循環」であるから、循環の時空性の原理から、ゆっくり循環しなければならない。そして、焼却は化学反応だから適正に行えば「毒物を生み出す」のではなく、「毒物を除去する」働きをすることはすでに分かっている。さらに、もともと日本には資源が乏しいことが思い出される。資源も乏しいのに急いでリサイクルすると、資源が枯渇する前に輸入が難しくなり、いくら工業が進んでいても原料が手に入らないので製品を作れず、外貨も稼げず、ますます原料が買えないので、加速度的に日本は没落する。もともと「消費」とは「資源の移動」である。廃棄物を焼いて貯蔵していけば、消費は資源になり、日本は資源国となる。ちなみに、ゴミは焼却するとその体積が二十分の一程度になるので人工鉱山の用地の心配はない。


 第二は、「情報」が人間に対して有する本来の力を活用することである。「鉄」は人間の生活を豊かにする典型的な物質であるが、鉄一㌧という物質の量から引き出せる幸福は、情報からも引き出すことができ、相互に幸福を基準にして換算することが可能であると著者は考える。これは「物質情報当量」と呼べるもので、現実的に循環を可能にする大きな要素である。携帯電話がその好例で、この製品の持つ情報によって電話線と公衆電話に使っていた、銅、鉄、プラスチックなどの物質は劇的に減り、集金にかかる手間や電話業のシステムも質的な変化を遂げた。

 第三に、日本人の勤勉さ、ものを大切にする心、犯罪の少ない社会、そして穏和な気候をフルに活かすことだろう。幸福とは隣家より立派なソファを買って居間を満杯にすることではないし、現在のように家電製品を設計寿命の半分で捨てる文化でもない。そのことを日本人は江戸時代から知っているはずである。

 著者はこの日本が二一世紀も立派にやっていけると思う。使ったものはゆっくり循環し、情報の本質を活用し、そして日本人らしく生きれば良い。しかし、もし間違えれば、資源が乏しく、人口密度の高い日本が繁栄するのは難しいだろう。

 そして、なによりもこの素晴らしい日本の将来は、私たちのものであるとともに子孫のものであり、苦労してここまでもってきてくれた祖先のものなのだから。