「景気回復」や「循環型社会」は幻想
― 日本の未来は明るい 古い時代の錯覚で日本を暗くするな ―
ミレニアム騒動から構造改革まで「新しい時代が来る」と繰り返されるだけで、一向に先は示されない。「景気回復」「内需拡大」「循環型社会」「京都議定書」など、誰もが互いに矛盾していることが判るような政策が並ぶことも事態を混乱させている。日本を指導する人たちですら「猛暑でクーラーが売れて良かった」と言ったと思うと、「クーラーを止めて京都議定書を守るのは日本の責務である」と発言する。支離滅裂だ。
内需を拡大して景気を回復させるためには企業の販売量を上げなければならない。そうすると二つの矛盾が生じる。一つは国民が買いたくないのに販売するのだからビジネスは巧くいかない。それを「立ち上げるために」という名目で政府や自治体がプロジェクトを作り、公的資金を投入すると泥沼化する。もう一つは産業を活発にすれば、二酸化炭素の発生量が増大し、ゴミが増える。数十年のスパンで見るとエネルギー弾性率も物質原単位も変わっていないので成長はかならず二酸化炭素とゴミを増やす。
そこで、この矛盾の辻褄を合わせるために「循環型社会」という用語を持ち出した。確かに美しい言葉であるが、まったくの幻想である。
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日本は年間二一億㌧の資源をもとに産業が製品を作りサービスを提供し、全体として五○○兆円のGDP(国内総生産)を生み出している。製品は使用されて富を生むが、やがて損耗し、廃棄され、回収、分別される。この過程で循環しうる物質の理論最大量は僅か二億㌧である。つまり、「循環型社会」というものの実像は一回で資源の一○分の一、二回で一○○分の一が循環できる社会であり、到底「資源の再利用や廃棄物の抜本的解消」は実現せず、従って経済成長とは調和しない。
おまけに回収される二億㌧は「ゴミ」の状態にあるので、それを「資源」にするリサイクルでより多くの資源が求められる。リサイクルで費やす資源もゴミになるので「リサイクルをすればするほどゴミが増える」という奇妙なことが起こる。
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もともと、なにも使わないで循環できるわけは無く、政府のリサイクル・シンボルマークは実にいかがわしい。個々の企業の売上を増やし、個人の消費を奨励し、同時に廃棄物を減らすというようなマジックはできないのである。ここまで「裸の王様」のような政策を進めると、「みんなでウソを言っても良いのだ」ということになり、社会全体のモラルの崩壊につながる可能性すら高い。
「環境ビジネス」の矛盾はさらに著しい。「ゴミを増やすリサイクル」はもちろんのこと、「太陽電池」や「風力発電」は結局、電力を増やすために使われる。「屋上庭園」は都市をさらにコンクリートで固め、これも結果としてはヒートアイランド現象を促進するだろう。「生ゴミの堆肥化」は食べ残し文化を奨励する格好の仕組みになる。そして、これらに公的資金が流れる。
もともと、もし環境ビジネスに将来性があり国民がそれを望むなら、ビジネスは自然発生し、収益は上がり、規制の伴う補助金を求めない。第一、補助金漬けの非効率ビジネスを増やすことが日本に大きな打撃を与えるのはすでに良く勉強したはずである。
本来、環境を良くするなら、今ある石油火力発電所の発電量を減らせば良いのであり、新しく太陽電池など作ることではない。簡単に言えば物を買わないことが環境には一番良い。それが景気を悪くすることになっても、それに怯えていては目的は達成しない。「景気を回復させるための環境ビジネス」「グリーン購入」などというのは表現自体が論理矛盾を来たしている。
このような矛盾した状態がつぎつぎと発生するのは、時代が変わると言いながら新しい時代のイメージが無いからである。誰もが「時代が変わる」と聞かされているが、「どのように変わるのか?」は聞いたことがない。政府もイメージ不足で、古い時代の事業に膨大な投資を継続している。しかし、終わりつつある時代に投資しても、当然、投資資金は焦げ付いて国債や不良債権という名の数字に転換していく。すでに一○○○兆円を超える国民の資産の三分の二は、将来に結びつかない投資に消えてしまった。今後、構造改革を行い、不良債権を退治しても、また過ぎ去った時代の事業に投資したら、これまで日本人が努力し豊かになった国民の資産は次世代に何の貢献もしないまま無くなる。
すでに環境問題の出現そのものが新しい時代を示している。それは「物の生産」から「心の満足」への変化である。飢える時代には食料を、着るものが無ければ衣料が求められ、不足なき時代には、それなりの人生を送るに足る高品質の環境を求める。しかし、不幸にして「環境」はまず物質のリサイクルのように「物」に注目して姿を現した。それが間違いのもと。「物」に不足がないのだから、求めている「環境」にはリサイクルや太陽電池は無関係なのである。そして求めるものを提供するのが産業であり、それで競争するから産業は健全になる。要らない物を売ろうとすれば行き詰まる。
ところで、「物の生産」に二一億㌧の物質資源が不可欠なように、「心の満足」を求める新しい時代には「知的資源」が必要となる。
知的資源のうち、すでに実証されているものはIT技術の資源増幅・転換効果である。最近三○年で社会の同一活動量を維持するのに、鉄一トンに対してIT一○Gビットが相当し、一○Gビットのハードディスクは僅か数百グラムである。「ビット」という名の資源は大量の物質を倹約し、生活を「物」から「知」へ転換する役割を果たす。
第二に、産業知的財産の質的転換である。古いシステムで産業の知的資源と言われた製造ノウハウや物質・プロセス特許は過去のものであり、「アイディアそのものの特許」、「使えば使うほど味の出るデザイン」のように「知」のみが価値を持つものへ転換が求められる。
しかし、新しい時代にもっとも競争力があるのは、綺麗な町並み、澄んだ河川、美しい四季の変化、高度な文化遺産、感激する名作、世界的な芸術などである。これこそ国民が望み、これからのビジネスの本流であり、景気や国際競争力の回復のカギである。現在の日本人は「心の満足」を求めながら、「物質中心の生活スタイル」や「拝金主義の幸福感」を追求して揺れている。それは時代の変化を直感的に掴んでいるものの望むものの具体像が見えないからである。実際に国の舵が切られれば、一斉にその方向へ進み、また明るく活性のある日本に戻ることは確実であろう。
一方、知的資源のレベルを高めるのは簡単ではない。「一般教育の充実」、「創造性や高い感性の育成」、「産業の純知的財産の蓄積」など克服すべき課題は多いが、それらに集中的に関心を持ち、社会やマスコミがそれに価値を認め、日本が知的資源に頼らなければならないという雰囲気ができることが前提である。
日本人は創造性が不足するといわれるが、明治以来の模倣主義が原因を作り、それ以降、創造性を豊かにする環境と「はげまし」が不足しているだけである。たとえば、日本が「教育立国」であったのは遠い昔で、先進国に対して日本の高等教育投資は三分の一にしかすぎず、知的活動はもてはやされない。
誤解を避けるために付け加えておくが、IT技術そのものに力を注ぐアメリカや、産業へのITの活用を目指すシンガポールなどは、それほど脅威にはならない。ITを生産効率向上の道具として活用しても新しい時代にあわないので発展性はない。やがて「心の満足」こそが求められていることがはっきりしてきた時には、「技術としてのIT」は「知を実現するIT」に跪かざるをえないからである。
「飢え」や「貧しさ」の代わりに近未来は「寂しさ」が産業のドライビングフォースとなり、それを癒す心の食料を供給することなのである。ただし、心の食料が何兆円になると考えた瞬間、全てが元に戻る。