買うときは共白髪
【耐用年数の半分で廃棄される電化製品】
まず話をはじめる前に表に目を通して下さい。この表は、家庭電化製品の寿命を整理した表ですが、メーカー側が製品を作ったときの「設計寿命」、つまり家庭電化製品の耐用年数と、実際に廃棄されている年数を比較したものです。実際に使われた年数は調査機関によって少し違いますので、ここでは国民生活センターと家庭電化製品協会の調査を並べておきました。それによると、国民生活センターの調査結果が6年、家庭電化製品協会の調査は6.2年ですので、おおよそ6年程度として良いと思います。
表から判るように家庭電化製品を作るときにはメーカーはおおよそ10から12年くらいの寿命をメドに設計しますので、それに適した材料が選ばれ、機械的な仕組みが決まります。中には、扇風機のように20年も持つものもありますし、ガス湯沸器のように6年と短いものもありますが、これらの数字は私たちの体験からの感覚と大体一致していると思います。
これに対して、現実に捨てられているのは6年程度ですから設計寿命の約半分で捨てられていると言えるでしょう。そういえば確かに私たちの生活実感でもその通りです。家庭にある電気製品を10年以上使うということは希で、洗濯機が少しサビてきたり、新しいテレビが販売されたりしますと、買い替えてしまいます。また、結婚したり引っ越しをしたり、また家を新築した時などには、まだ使えるものも捨ててしまうこともありますので、大体6年くらいになるのです。
現代の社会のことを「消費文明」ということがありますが、まさにその言葉がぴったりしています。消費文明とは、
① ものをどんどん使って捨てる
② まだ使えるものでもなにかの理由で捨てる
ということです。環境問題がこれほど真剣に議論され、廃棄物処分所にはゴミがあふれている、しかも大型ゴミは捨てるのに困るという状態にも関わらず、現実には家庭電化製品が製品寿命の半分の年月で捨てられているというのはどうしたことでしょう。
少し昔には、10年もつと言われたものは磨いたり、拭いたりして可愛がり、20年はなんとか使ったものです。
ふつう、製品の寿命というものはメーカーが保証している期間ですので、それ以上何とか使おうとすれば、十分に使えるのです。だから努力してそうしようじゃないか、というのが当たり前の生活の知恵だったのですが、最近ではそれがすっかり逆になって2分の1になってしまった。もし、我々が家庭電化製品を大切に使って、耐用年数の倍使ったとしますと、家庭電化製品は4分の1の生産量でいいということになりますし、ゴミは4分の1になります。
二○○一年から「特定家庭用機器再商品化法」が施行されます。家庭電化製品の内、ゴミの元になっているのが、四悪と呼ばれている「テレビ、冷蔵庫、クーラー、洗濯機」です。この四つの平均設計年数は12年ですが、これに対して使用年数は6年と丁度半分になっています。もし私たちがこれに気がつき、昔と同じように大事に使用すれば、家庭電化製品のゴミは4分の1になり、法律を施行する必要すら無くなる可能性があります。
また、現在売られている家庭電化製品は、
① すぐ新しい製品が出る
② 全体的には使えても、一部が壊れたら修理ができない
という問題があります。確かにパソコンや携帯電話のように「現在進行中」の製品は次々と新しい製品が出ますが、家庭電化製品の大半はすでに大きな技術開発は終了しておりますので、あまり基本的な性能は変わりません。テレビではせいぜいブラウン管の形が良くなるという程度です。確かに少しでも良くなると買いたくなりますが、そこが考えどころなのです。バブル時代や大量消費大量廃棄の時代には「少しでも良ければ自分だけのことを考えて買い換える」というのが道徳でした。しかし、反対に「少しでも環境問題を考えたりリサイクルに汗を流したりする」という道徳からは、今のテレビで十分見ることができるのに、無理してフラット・ブラウン管のテレビに買い換えることはできません。最近ではさらに少し進んで、
「環境を売り物にして、実際には環境に悪い商売をする」
という例も見られます。多くは意図しているとは言えませんが、結果的にはそうなっています。例えば、「省電力」とついた商品にもそれに類するものがあります。販売店では「これは従来のものより二割も電気を消費しません。買い換えた方が環境に良いですよ」と売り込みを図ります。こちらの方も内心は新しいものが欲しい物ですから、うっかりと乗って買ってしまいます。
計算してみましょう。計算に当たっては、環境への影響を価格を基準にして計算するというペットボトルの場合と同じような方法を採ります。
価格が5万円の製品はそれを作るのに約2000kWhの電気に相当するエネルギーや物質を使います。その製品がたとえば100ワットの電気を消費し、一日3時間ほど使うとしますと、一年で100kWhの電力を消費します。従って仮に新しく買った省電力製品が電気を2割少なくても良いとすると、それを200年使えば、買い換えた意味があると言うことになります。現実には200年使うことはできませんので、使用する電力が2割ほど低いからといって「買い換えても環境に良い」とは言えないのです。
確かに省電力の家庭電化製品や燃費の低い自動車それ自体は環境に良いのですが、「省電力」や「燃費の向上」で補うのがとても大変であることが判ったと思います。
もし、家庭電化製品や自動車の設計寿命が今の2倍になったとします。または私たち消費者が「性能」より「長く使える商品」を買うようになれば、メーカーは寿命合戦をするでしょう。そして、設計寿命が本当に2倍になり、それを私たちがそれを丁寧に使って設計寿命の2倍使ったとすると、大型廃棄物の量は現在の8分の1になり、環境問題の一つは一気に解決します。そしてこれは私たちができることなのです。
【マテリアルライフを考える……:製品の寿命と捨てるタイミング】
具体的な例を挙げたところで、次に「マテリアルライフ(物の寿命)」ということを学問的に整理いたします。物の寿命というのは、第一に「そのものが傷んで使えなくなった」という時です。しかし、現代の消費文明では必ずしも物が傷んだから捨てるというわけではないのです。代表的な例を挙げます。フィルムのようなものは、太陽の光が漏れてきたり、ある程度古くなると使えなくなる。これは材料がだめになって捨てる場合です。それから、椅子のように長く使っていたら、椅子の足が折れて捨てる、椅子の全体は壊れないんだけれども、一部が壊れてしまう、これもやはり材料が壊れるという意味では"まともな壊れ方"と言っても良いですし、また"まともな寿命"ということになるわけです。このような寿命を「自然科学的寿命」と言います。
ところが、多くのものはそうではありません。皆さんが日常的に接するものとしては、例えば洋服などが極端なものですが、流行がありますので、比較的新しい洋服で2~3回しか袖を通していなくても着なくなることがありますし、自分の体型が変わるということもあります。家庭電化製品の場合には新機種が売り出されるということもあります。
それから、勉強机のように、まだまだ使えるのだけれども、お子さんが成長してもう使えなくなってしまったので捨てる、引っ越しで捨てる、結婚したので古い物は全部捨てるということも結構多いわけです。
さらに、もったいないことが公共団体などではありまして、予算がついたので一斉に机を更新する場合などがそうです。更新する机の中には新品に近い物があっても、一つだけ古い形の机を残しておくわけにはいかない。だから、木の机を全部スチールの机に変えるんだということがかなり頻繁にあります。このような場合を「社会科学的寿命」と言います。社会科学的寿命は社会のシステムや習慣が捨てる圧力になりますので、みんなで力を合わせないとできない性質のものです。
さらに、「飽きたので使うのがイヤだ」「買うときには本当に欲しくてたまらなかったのに、買ったとたん興味を失って放ってある」「気分がムシャクシャしていたので衝動買いをしてしまった」「イヤな思い出を忘れてしまいたいので捨てた」「良く考えれば必要が無かったのだが、つい買ってしまった」なども私たちは良く経験します。人間は感情豊かな動物ですので、それが原因で遭えない最期を遂げるものも案外多いのです。この様な最期を「人文科学的寿命」と言います。
つまり、物の寿命というのは必ずしも物が壊れるだけではない。というよりも、むしろこれはマテリアルライフという立場から調査した結果によりますと、人間で言えば「天寿を全うする」、つまり「壊れたから捨てられる」ものは大体1~2割、消費が煽られた結果、例えば新しい製品が出るとか、流行が変わるとか、そういう社会的なことで捨てられるものが大体4割くらい、それからあとの4割くらいは人間の心の問題とか生活の問題です。
「物を大切に使う」というのは当たり前のことのように思えますが、実はかなり難しいことで、それなりの覚悟がいることが判ります。そして、社会の生活のパターンが変わってこないと一人で倹約するのが難しいこともマテリアルライフの特徴的です。
明日の子孫の為に、そして私たち自身の為に、団結して物を大切にできる社会を作りましょう。
【同時刻に同じ場所で売られて、捨てられる不思議なもの】
新聞というのは情報を提供する商品です。新聞の利用の仕方は様々ですが、「駅で新聞を買って、電車の中で新聞を読む」という場合を考えます。
まず駅の売店で新聞を買います。それは自分で買ったのだから、その情報は自分に所属しています。人間の所有意識はとても強いので、自分が読んでいる新聞を他人が横から見たりするとそれだけで気分が悪くなるのも人情です。そして、30分くらい電車に乗っている間に読み終わると、それを降りる駅のごみ箱に捨てます。しかし、その時点では新聞を買ってからまだ30分しか経っていないので、新聞に書かれている情報自体は新しく価値のある物です。
それから、新聞が印刷されている紙は、まだまだ立派な紙でぼろぼろではありません。その状態で捨てられるのです。まだ十分使えるのに捨てられるというおかしなことはさらに続きます。
駅で自分が新聞を捨てたゴミ箱から数メートルも離れていない売店で、同じ新聞がまだ立派に売られていて、それを買っている人が居るのです──つまりどんどん捨てられている一方でどんどん売っているわけです。この場合は製品の価値もあり材料の寿命もあるのに、「買った人だけに所属する」という社会のシステムがこのような結果をもたらしているのです。
こういうことは、ちょっと昔にはありませんでした。例えばある家庭の縁側に朝刊が置いてあるとします。その朝刊はその家の人がすでに読んだ後ではありますが、キチンと畳まれていて縁側に置いてあります。そこに隣の人が来てその新聞を読んだりします。お互いに同じ新聞を読むので共通の話題ができ、話も弾みます。縁側に新聞を置いていた家庭の人が、訪ねてきた隣の人に「これは自分の家の新聞だから、見たいのなら自分の家の新聞を持ってきて下さい。これはもう捨てるのです」などとは決して言いません。
電車で読まれる新聞が捨てられるのは、そのものの寿命ではなく、最近の社会のシステムが物をどんどん捨てながら生活するという面を持っているからと言えます。
「これは仕方がない」とみんなが思ってきたので社会のシステムとして定着したものです。しかし、今後は反対に徐々にそういうシステムは見直されるでしょう。例えば、先ほどの家庭電化製品ですと20年くらい使えるようなシステムになっていくと思われます。ただ、心配があります。みんながものを大切にしたら、製品が売れなくなるので失業者が増える、だから物は無駄に作っていかなければいけないと言う意見もあります。
この議論が出てくると私はいつも次の話を想い出します。
産業革命が始まったときのことです。それまで農民は鍬をふるって田を耕していたのですが、それが機械でできるようになったり、工場が生まれたりします。そして職が奪われました。だから、その機械を壊してしまえば職が戻ると考えて"機械打ち壊し運動"が盛んにヨーロッパで行われました。もちろん、機械を壊しても職は戻っては来ません。しかし、なぜ、このようなことが起こるかというと、それまでの農民は機械が入ってきたら自分の職が奪われる事だけ理解でき、次はどうなるかわからないから不安なわけです。鍬をふるっている農民にとっては、やがて自分の子孫がロンドンのオフィス街で証券会社の間を歩いているなんていうことは絶対に想像できません。そこで、機械打ち壊し運動ということになるのです。
この教訓を活かして将来を考えてみます。
このままの消費社会では人類の将来はありません。ということは次第に社会が変化してものを使わない社会になって行くでしょう。それが時代の流れというものです。そのときに真っ先にものを使わない社会を築いた国が生き残り、消費文明に浸っている国は弱って行くでしょう。それは産業革命の時に機械打ち壊し運動をしているところが滅び、積極的に未来を先取りしたところが繁栄したのと同様です。
現在のまま仕事や生活をしたいのは人情と言うものです。家電メーカーも生産量を落としたくないと思います。しかし先に落とした方が将来は必ず勝つでしょう。新聞も電子新聞に変えたところが生き残ると思います。つまり、今のように物をどんどん売る社会から、売らなくても良い社会に切り換えていく。そうすれば、自動的にそれに応じた強く新しい産業が発生してくる、強い日本ができる、それが歴史の示すところです。
【「昔に帰れ」の"昔"とは】
ものを長く使ったら失業するじゃないか、という話と同時に、それなら「昔に帰ったらどうだ?」と考える人がいます。今の消費生活をやめて、家庭電化製品なんかも捨ててしまって、昔に帰ったら、環境問題も人類の将来の問題も総て解決するじゃないか、という感じです。そこで、「昔」とは一体どうだったのかということを見てみます。
この写真は1994年に開発途上国の女の人を撮影した写真で、スペイン・国際ジャーナリスト賞を受けた有名な写真です。
お母さんが子どもを抱えて、豚に自分のお乳をやっているのですが、この写真を見て、「ほのぼのとする」と思う人と「こんな生活は嫌だ」と思う人がいるでしょう。それでも写真を見た人のほとんどは、自分が当事者になるのなら嫌だと思うのが当然です。
いわゆる物質の少ない生活というのは、こういものであるということを象徴的に示したということで、この写真はとても高く評価されたわけです。
さらに少し時代を遡り、100年くらい前の日本の写真を調べました。これは1890年の東海道箱根湯本の写真であります。今の東海道は車の往来も激しいですし、正月の学生駅伝などでご覧になるように、非常に賑やかです。小田急線もありますし、高速道路も横に走っています。たった100年前の日本というのがどんなものかよく判ります。
さらに、500年くらい前に戻ります。こんどは中世ヨーロッパの手術の風景です。右の方にいる人は手術を受けている患者さんですが、病気のためにノコギリで切られています。足を切っているのがお医者さんで、ゴリゴリと足を切るものですから血が滴り落ちます。そこで足の下に「たらい」が置いてありまして、血を受けています。足を切り落とすと、足が落ちるので、足を持っている助手が横に居ます。
そして、当時の手術というのはほとんど生き残る可能性がなかったものですから、患者さんの後ろには神父様がいて、患者さんの頭の上に手をおき、聖書を読んで覚悟を決めさせているという絵です。私などは我慢強くないから、こんな手術は絶対したくないんですが、昔というのがどういう状態だったか、「骨身に浸みて」よくわかる気がします。
もっとも、「文明生活はもうイヤだ!原始的な生活に帰りたい」という願いは人類共通のようで、アメリカでは環境問題が浮上してきた10年ほど前から「森の中で原始的生活をする」というスタイルが流行し、体験記がベストセラーになりました。それを真似て日本でも原始的生活にあこがれる人が出てきました。原始的生活を送りたいと思う心は、現代の様に物質文明が進み、環境汚染が激しくなったから生じるものでは無いようです。人間の心の中に原始の時代の思い出が生きていて、それが疼くのでしょう。
【昔の平均寿命】
「昔に戻ったらどうなるか」を平均寿命という見方で整理します。
ワイスという人が世界の平均寿命についてかなり詳しく調べていますので、そのデータを使います。人間は大昔は20年くらい生きる動物だったのですが、農耕が始まりまして、それまで狩猟で場所を移動していた人間が一つの場所に定住するようになり、やがて村などの集落ができるようになりますと、生命の危険はかなり減ってきて、人間は25~30歳くらいまで生きられるようになりました。
この時代がずっと長く続き、大体今から300年くらい前、つまり産業革命が始まる前まで続いたのです。その間の世界のおおよその平均寿命は25~30歳くらいです。
「鎌形赤血球貧血症」という遺伝病がありまして、世界中に広く分布する病気なのですが、この病気にかかりますとものすごい強い貧血で、痛みが激しくて、大体30歳くらいで死んでしまいます。
ところが、昔、特にマラリアが流行する赤道に近い国では、この遺伝病にかかると喜ぶということが報告されています。なぜかと言いますと、この病気は赤血球の形が変わって貧血症になるのですが、同時にあまりに赤血球が悪くなるのでマラリア原虫にも襲われない、つまりマラリアにかからないのです。その当時、マラリアにかかると大体平均25歳で死ぬのですから、「普通だったら私は25歳で死ぬはずだったけれども、鎌形赤血球貧血症にかかったので30歳まで生きられる、おめでたい!」となるのです。今から考えるととても悲しいことですが、これが長く人類が過ごしてきた人生というものだったのです。
皆さん、これを聞くと「そんなことをいったって、徳川家康は年取っていたじゃないか」と思われるかもしれませんが、歴史に名を残す人というのは平均寿命より長く生きた人ですので、『ワイスの推計による人間の平均余命の歴史的変化』に示された平均寿命は短いように感じますが、この統計はしっかりしたものです。
ところで、人間が平均寿命が40歳を超えたのが1800年代、世界で一番長寿国だったスウェーデンの平均寿命が50歳を超えたのは約100年前に過ぎません。ですから、今の私たちの平均寿命は人類の歴史から見て特別な状態ということがわかりますし、それがごく最近になって得られたものであることも理解できるのです。
1940年、今から60年前に人間の活動が自然の活動を超えたと言いましたが、自然の活動を超えたことそのものが人間に長い平均寿命を与えたとも言えます。つまり現代の物質文明は環境破壊ももたらしましたが、同時に平均寿命を大きく伸ばすような文化的生活をもプレゼントしてくれたのです。だから、仮に物質の使用量を減らすと平均寿命が短くなるでしょう。
いや、平均寿命が伸びたのは医学の進歩が大きい、医学を充実させておけば、近代的な文明を放棄しても長生きできる、と言う人もいます。
現在、私たちは50歳くらいまではほとんど大病はしません。70歳でも元気な方がいっぱいおられます。昔は、男は田畑で重労働、女は激しい家事労働と10人くらいの子どものおしめを毎日のように洗うということをしていたので、40歳くらいで体がボロボロになる、そういう人生だったわけです。ところが、最近では文化的生活が営めるようになり、体が肉体的に痛む原因が取り除かれました。
また、肉体的なことばかりではありません。例えば、テレビの普及率は乳幼児死亡率と関係があることが知られています。テレビが普及しますと乳幼児死亡率が減少します。これはなぜかというと、母親がテレビを通じて、ふだんから育児の知識や衛生の知識を学ぶことができます。また、危ないことや、危険が近づいたことも知りますので、乳幼児の死亡率がそれに応じて減っていくのです。
このように平均寿命は、医学の進歩よりもむしろ生活自体のレベル、衛生レベル、文化的な情報の力、そういったものが我々を健康にして長生きさせていると考えられます。
結論としては、環境問題が大切だからといって、私たちの今の生活レベルを落とすことはできないということです。昔に返ればいいということではない。今の生活を守って、そして我々は破滅に向かわないんだという決意が我々の選択であろうと思います。