廃人競争?


 これまでの話でリサイクルの問題や紙のリサイクルを通じた遺産の問題、私たちが使っている製品の寿命についてお話してきましたが、ここからは少し視点を変えて、私たちの足元を見ていこうと思います。


【よく速く、より楽に】

 西暦1800年、今から約200年前にジェームス・ワットによって効率の良い蒸気機関が発明されました。蒸気機関の発明によって、人類の誕生以来、ずっと使ってきた「人間の筋肉」を使わなくてよくなりました。それまで重い荷車を引いたり、炭鉱から石炭を掘り出したり、田畑を耕したりするのは人間、主として男の筋肉に頼っていました。それらが蒸気機関やその後に発明された電動モーターでできるようになった、それはとても良いことだったのです。奴隷が船を漕ぐ必要も無くなりましたし、いたいけな小さな子供が大きな水瓶を頭に乗せて川からあがってくる姿も見ることができなくなったのです。

 そして、20世紀になりますと、自動車が発明され、鉄道の発達とともにあまり長く歩かなくても目的のところに行けるようになりました。輸送機関の発達は簡単に東京から大阪に行けるようになったと言うこともありますが、足の不自由な人とかお年寄りが移動できるようになったという素晴らしい面もあるのです。さらに、20世紀の中盤になりますと、電気工学が発達し、家庭電化製品が普及し始めまして、それまで連続的で激しい家事労働に追われていた主婦の生活が楽になり、自分の時間が持てるようになりました。

 現在はコンピューターが発達している最中ですが、ワープロであるとか計算などが簡単にできるようになり、私たちは漢字を忘れがちになったり、算術計算ができなくなってきました。最近では駅の改札、銀行の預貯金の窓口のような簡単な頭脳労働はコンピューターに置き換わり、我々の生活が大きく変わろうとしています。

 このように産業革命以降、近代文明が発展する中で人間は「できるだけ大きな力を出す機械は良いものだ」と思ってきました。例えば、蒸気機関ですと1秒間に12kJ(キロジュール)というエネルギーを出すのですが、自動車ですとこれが10倍の110kJ、新幹線は1万8000kJ、飛行機は26万kJというように非常に大きな力を出します。「速いことは良いことだ」「大きいことは良いことだ」ということでありましたし、とにかくそれが便利だったのです。


 この事情は家事労働でも同じで、例えばたらいを使って洗濯しますと、平均時間が70分かかる、洗う人は366キロカロリー消費すると言われています。ところが洗濯機ではポンと入れるだけで後は電動機とエレクトロニクスがやってくれますから、時間は10分で済むし、消費カロリーはたった23キロカロリーです。どこかに行くときには少しでも強い力が出るものが良い、自分がやるときには少しでも力を使いたくない、という原則をこれまでずっと守ってきました。あまり長い間、この原則一辺倒で生活の仕方を選択してきたので、環境時代の今になっても私たちの頭脳は変わってはおりません。その一例として、駅の放置自転車に対する社会の反応を考えてみましょう。

 駅前に自転車が放置されているのは汚らしいし、危ないので、自転車を撤去しろと言うことになります。バスとタクシーの乗り場は駅前にあってもいいけれども、自転車に乗った人は駅から3分くらいは歩け!ということになり、都市の郊外の駅で自転車置き場があるところでも、結構駅から遠いところにあります。自転車に乗るような人(?)は少しぐらい不便でも我慢しろということです。

 それでは、駅前にはみんなが乗ってくる自転車より大切なものがあるのかというと、まずデパートや駅ビルなどの消費センターがあります。次に、タクシー乗り場、そしてバス、それから信号や倉庫があって、その向こうに自転車置き場があります。結局、駅を降りたら買い物をたっぷりして、タクシーに乗って帰る人が一番便利な構造として作ってしまうのです。このような構造を駅前につくるのは、200年間ずっと効率本位、物質を大量に使うのが良いという考えでやってきましたので、無意識にそうしています。駅を降りたところに広くて便利な自転車置き場をつくって自転車をきれいに並べるなどということは、なかなか頭に浮かばないのです。「放置自転車」という言葉は自転車という最も環境によい乗り物を余計な物として考えているニュアンスがあります。本当は車に乗って駅に来る人より、バスで来ることが望ましく、さらに自転車が一番良いのですから、「放置自転車」こそ大切にしなければならないのです。最近の新聞に「歩いて生活できる町作り」というのがやっと出てきましたが、歩くことや自転車を使うことをできるだけ嫌ってきた、それが我々の行動のパターンです。


【日常生活のエネルギー消費】

 日常生活のなかに私たちの生活パターンの変化を見てみましょう。例えば、銭湯と内風呂では、内風呂の方がほんとに便利ですが、エネルギーの使用量から言いますと、内風呂は1回一人あたり3000kcal(キロカロリー)使いますが、銭湯はその15分の1の200kcalしか使いません。また、野菜を例に取りますとハウスもののトマトは1キログラムに300kcalかかりますが、露地でできる大根は太陽の恵みをフルに利用いたしますから、15分の1でできます。サンマと養殖のハマチと比べると20倍違います。昔は銭湯を利用し、露地の大根を食べ、網でとれたサンマを食べていたわけです。それに比べて、内風呂に入り、ハウスもののトマトを食べ、養殖のハマチを食べるということになると、同じような食物を食べていても、エネルギーの使用量が15倍くらい多くなっているのです。


 私たちは環境に気遣い、地球を考えて生活しているように思っています。しかし、200年間もの長い間「使うことは良いことだ」という方向はおいそれと修正できません。それが今の我々の生活であるということがわかります。


【200年間、何を目指してきたか?】

 この200年間、私たちは何を目指してきたのか?

 蒸気機関とか電動モーターが発達してきて、まず人間はほとんど腕の力を使わなくなりました。私は工学大学にいますので、男子学生が多いのですが、22~23歳の男子学生はさっぱり筋肉を使いませんし、態度はヘナヘナに見えるのですが、体を見ると結構、隆々たる筋肉を持っています。それでも筋肉を使う機会がないのでフラストレーションがたまっていることが判ります。時々使うにしてもコピーの蓋を開けるくらいです。コピー機の蓋は今のところ自動で開く装置が出ていないので良いのですが、そのうち自動車の窓ガラスの開閉方式のようにコピー機の蓋を開ける機会も失われるでしょう。自動車の窓も昔はハンドルを回して窓を開けていましたが、誰かが指で開けた方が便利と考えたのでしょう。今では、ボタン一つになって指先しか使いません。

 次に足に関しても同じです。自動車は便利なものですが、同時にエネルギーを多く消費するものです。自動車にガソリンを入れて走ると、乗っている人を移動させるのに使用する正味のエネルギーは、使うガソリンの実に2%(100分の2)に過ぎません。自分の足の筋肉は使えないし、ガソリンの98%を無駄にします。

 駅や2階建てのスーパーにあるエスカレーターはさらに不能率です。ご老人や障害を持っている方、歩くのに不自由な方にとってはありがたいものですが、若い男性や女性がエスカレーターを使います。中にはエスカレーターの右が空いていないと「歩けない!何をぼやぼや立っているのだ!」と怒る人が居るかと思うと、エスカレーターを勢いよく走って上がる人がいる。そういう元気な人は是非、階段を使ってもらいたいものです。

 次第次第ではありますが、私たちの腕も足の筋肉もだんだん弱ってきて、本来の機能が働きにくくなってきています。

 さらにコンピューターが発達し、ワープロを普通に使うようになりました。漢字は忘れてしまいますし、電卓で計算もできなくなりました。これからは小学生に九九を教える理由が見つけにくくなるでしょう。頭を使わなくても良いことは進歩の様に見えますが、とても恐ろしい結果をもたらすでしょう。頭は適度に使用しないと鈍くなってきます。単に漢字や足し算ができなくなるだけなら良いのですが、人間の判断力、感受性、品位なども人間の頭脳の働きなのです。人の性質は「こころ」にあるようにも思えますが、頭の判断が主力です。つまり、頭を使わないと、音楽を聞いたり美しい絵画を見ても感動しなくなるばかりでなく、喧嘩も増えるでしょう。つまり、人間というのは頭を使うから野獣と違い品位を保てるのですが、頭が動かなくなれば猜疑心が強くなったり、人のことを思いやれなかったりもするでしょう。そして、人間は人生で苦労した体験を持ち、それが頭の中に記憶として残っているからこそ感受性があり、深い感動も味わうことができるのです。苦労が無く、記憶も無い人間はただ意識のない動物のようなものです。


 現代の私たちをまとめてみましょう。蒸気機関によって腕の筋肉は使う必要が無くなり、その機能はほとんど失われつつあります。かつて獲物を追うためにあった俊敏な行動を約束していた足の筋肉も、エスカレータ-などでほとんど役に立たなくなりました。そして、今や私たちの頭脳の機能はコンピューターによって奪われようとしています。ここに私の学生が描いた「将来の人間像」というマンガを示します。


 酷い格好の人間だな、と思われたでしょうが、これは「将来の姿」ではなく、私たちは実はもう既にこの図のような姿をしているのではないでしょうか? 我々は人間ですから、突然、形が変わるということはありませんが、腕の筋肉も使わないし、足も大して使わないのです。私は駅のエスカレーターを使う度にじっと自分の足を見て、「何のためについているんだろうな?」と思うことがあります。早晩、私の頭も縮んで来るでしょう。


【廃人の哲学】

 レミングという動物を知っている読者の方も多いと思います。ある時にレミングの集団が狂ったようになり、一直線に走り出し、ついに海か川に全部のレミングが飛び込み全滅するという習性を持つ動物です。その習性をみて人間は、なんとバカな動物だろう、と笑います。

 どうやら人間はレミングに次ぐ、あるいはレミングよりバカな動物の様です。産業革命が起きたときに人間はそれまでの厳しい肉体労働から解放されました。それは大変な進歩でしたが、20世紀のはじめには、すでに少し行きすぎていると感じた人がいます。類い希な才能を持っていたチャップリンです。本来人間の生活を豊かにする機械が人間を翻弄しているさまを彼は数本の映画で描いています。しかし、人間はそんなことにかまわず、まっしぐらに進んでいました。やがて機械は人間の苦痛を除くというより、人間の機能そのものを取り去り、廃人と紛うまでになったのです。指一本で開く自動車の窓、駅のエスカレーターの片方を歩く人にあけるアイディアなどを考えた人はさしずめ人類の敵です。

 しかし人間の持つ「一方向運動性の原理」は根が深いものがあります。その例の一つが戦場で使用する兵器です。もともと戦争は話し合いで解決がつかない場合、暴力で決着をつけようという方法ですから、一種の儀式みたいなものです。昔の人はそれを知っていましたから、戦場ではお互いに名乗りあって、相手に十分の準備をさせて戦闘を開始しました。どうせ殺し合いですから突然襲っても、闇討ちしても関係ないことなのですが、戦争の本質は儀式であると思っていたふしがあります。

 動物は戦いが秩序を保つ儀式であることを良く知っています。たとえば、どう猛と言われるオオカミは縄張り争いをしますが、ある程度戦ってお互いの実力が判ると、負けた方が腹を上にして降参します。そうすると強い方は絶対に弱い方を襲いません。人間の様に負けた方の首をはねたりは絶対にしないのです。多くの動物は縄張り争いやメスの争奪戦をしますが、同じ種で殺し合う動物は滅多にいません。昔の人間はルールを大切にして戦うだけ良かったのですが、それでも動物の中で人間は特別にどう猛なのです。

 ところが第一次世界大戦になって、機関銃が本格的に登場することで戦争の雰囲気はさらに過激になりました。機関銃で敵兵を殺す時にはまるで無生物を殺すような感覚で、本当にゲーム感覚になったのです。

 そして、遂に人間は核爆弾を作ります。第二次世界大戦の最後にアメリカのネバダの核実験場に集まったのは世界的な物理学者でした。彼らは炸裂する核爆弾を見て地獄を感じました。それでも、その爆弾を日本の都市に落とせば、その下で苦しみながら焼け死んでいく少女のことを想像できなかったのです。そして広島、長崎の悲劇を見ても、さらに核爆弾の競争は続き、アメリカとソ連が保有する核爆弾を全部炸裂させると、人類を6回全滅させることができるようになりました。レミング以上のバカさかげんです。それがキューバ危機の時には本当に核爆弾を使いそうになり、あの頭の良いと思われるケネディ大統領とフルシチョフ首相が考え込むのですから、人間という生物が実に変なものであるかが判ります

 今、機械工学はロボットを作り、電気工学は部屋の温度を全く変わらないようにし、電子工学は人間の頭を使えないようにしようとしています。建築工学はしばらく前に高層住宅を作り、完璧なエアコンをおいて世界のどこでも同じ環境で働けるようにしました。人間の季節感、自然観を崩壊させたのです。日本の高層住宅の草分けの一人の方が、こう言っておられました。

 「ある時、高層ビルで仕事をして、夕方外に出てみると雪が降っていました。朝から仕事をしていて全く気がつかなかったのです。自分はYシャツの袖をまくって雪が腕にかかるのを感じました。そのとき自分には雪は冷たくなく、心地よかったのです。そして、私は高層ビルを造るのが間違っていることを知りました。」

 私たちは将来にどんな生活を望むのでしょうか?透き通った肌、無菌室の中でしか生きられない免疫系、一日中体を動かさず、頭も使わない人間になってしまいます。

 私は望みません。