屋根の太陽電池はみっともない


 太陽電池も水力発電や風力発電とともに、自然に優しい方法でエネルギーを取りだすと信じられています。確かに、水力発電は川にすむ魚や河畔の木々が使っている水を横どりするので問題がおきましたが、太陽の光は誰も使っていないようなので、降りそそぐ太陽の光から直接に電気をえるのは環境に良いように思います。

 さらに、太陽電池を作る材料はシリコンですが、シリコンは「土」と同じものが原料ですので、資源的にも余裕があり、無毒でもあります。太陽の光が他に比べるものが無いほど膨大で、あと八十億年近く光るということも安心材料です。

 太陽から地球に届く光のエネルギーは一秒間に四二兆キロカロリーととんでもなく多いので、どのくらい大きいのか見当もつきません。そして、地球に達する太陽の光のうち、その三○%は大気で反射され再び宇宙に帰っていきますが、七○%は地球に吸収されます。それでも、現在、人間が使っている総てのエネルギーの七千倍にもなるのです。

 人類は昔から太陽の光を利用してきました。まず、暖かい地球に住むこと自体、太陽の恵みですが、田畑の食物や海の魚ももちろん、太陽の光で育ちます。昔は、「稲はどうして育つのですか?」と聞かれると、決まって、鍬の手を休め「お天道様のお恵みでさあ」と答えたものです。

 太陽の恵みは生物だけに降りそそぐのではありません。雨が降るのは海や陸にそそいだ太陽の光が水分を蒸発させ、それが雲となって移動し、山にぶつかって雨を降らせるのです。みんな太陽の光のエネルギーがもたらす地上の活動の一つ。そんなに膨大なエネルギーを持っているので、石油ショック以後、石油がなくなるのではないか、そうしたらエネルギーが失われるというので、何とかして太陽のエネルギーを利用できないかと、さまざまな研究が行われました。

 そのなかで、もっとも簡単だと思われたのが、太陽の光をレンズで集めてその熱で電気を起こす太陽熱発電でした。しかし、これは巧く生きませんでした。太陽の光は集めると膨大なのですが、光としては弱いので、レンズで集めようとすると巨大なレンズとまわりの装置が必要とされるからです。そのなかで、家庭用の太陽熱温水器はある程度の成功をおさめました。

 つぎに、半導体の技術が進んできたこともあり、太陽の光を直接電気に変える太陽電池が研究されるようになってきました。例えば、太陽電池を屋根におけば、太陽が無くならない限り、電気を作ってくれるようにおもわれたのです。

 資源の無い日本にとってエネルギーはもっとも大切なものの一つですし、環境にも大きな影響を及ぼしますので、太陽電池は本当に環境を改善するものなのかを謙虚な気持ちで考えてみたいと思います。

 まず、具体的なところから出発します。

 太陽電池を家の屋根につけて、それで家庭の電気をまかなう場合、標準的な家庭で月に約二万円の費用がかかります。それに対して電力会社から電気を買うと約一万円です。太陽電池を使う方が二倍の電気代になります。なお、本著では、話の筋をはっきりするために最小限の数字を使い、計算の根拠や細かい計算は割愛していますが、そのかわり計算は特別な意図を持たずに誠実に行いました。たとえば、太陽電池の場合は、それを推進している専門家の方の数字を使っています。

 ともかく、太陽電池は石油を燃やす火力発電より、コストが高くなるということです。しかも、日本の電力は先進国の中でも高いので、アメリカで比較すると太陽電池はもっと不利になります。コストが高いということは「資源やエネルギー」を多く使うことを意味しますので、太陽電池は環境に悪いのです。

 それでも太陽電池が環境に良いと錯覚する理由が二つあります。

 第一は、太陽の光は無限で、しかも煙を出したり、二酸化炭素を発生したりしないからです。簡単に言えば太陽の光は「無料」で「無限」、そして、石油のように煙や二酸化炭素を出さないのですから「無公害」、良いことずくめのように見えます。

 一方、石油を燃やす電力会社の方法は、石油を買う費用が必要ですし、石油の枯渇の恐れもある、さらに、煙も出るので公害を防止する設備も必要です。たしかに、あらゆる点で太陽電池が良いように見えます。

 では、なぜ理想的と思われる太陽電池のほうが環境に悪いのでしょうか?

 それは、人間が電気を使うためには、単に「電気のもと(光)がある」というのではダメで、「現実に人間が電気を使える」ということでなければならないからです。それは、「電気を発生する装置」と「その電気を利用する設備」が必要とされます。

(家庭用太陽電池システムの図)
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 図で判るように太陽電池を実際に使用するためには、単に電気を取りだす「シリコン」があるだけではだめです。太陽の光が弱いときに備えて電力会社からの電気も取りこめるようにしておかなければなりませんし、安全設備や直流交流変換も必要です。家庭で使う電気を太陽電池でまかなうには光を電気に変える「シリコン」はむしろ主なものでは無いのです。別の表現で言えば、太陽電池が環境に悪い理由は、電気を作るという原理的な方法としては良いのですが、電気を使うという工学的な点から見ると不利だとうことです。

 つぎに、太陽電池には「補助金」がつきものですが、補助金と環境との関係を整理します。

 太陽電池は環境に良いという前提があり、国民の税金から「補助金」が出ています。そして太陽電池が普通の電力に対して不利にならないように補助金の額を調整します。つまり補助金の意味合いは、「太陽電池が高いので、電力会社から電気を買うのが同じ程度になるように調整する」というです。

 これは、明らかに、「環境」という目的に反しています。

 まず、「税金が出ている」ということ自体が「太陽電池の方がお金がかかる。従って環境に悪い」ということを示しています。補助金が何%でているかを見れば太陽電池がどのくらい環境に悪いか判ります。

 つぎに、「福祉と環境には税金を投入すべき」という意見があります。確かに、福祉のように「可哀想な人を社会が助ける」ことに税金を使うのは論理が通っています。社会全体から集めたお金を可哀想な人に集中的に補助するのです。

 しかし、「環境」とは「みんなで少しずつ我慢をして良い環境を作る」ということですから、みんなが払っている税金を「環境」という社会全体に関係するものに使うのは、論理が破綻しているのです。これは、きっと、環境と言うことが良く理解されていないからでしょう。

 環境と税金の関係が良く判っている人が、補助金という名の税金をもらって太陽電池を設置している家を見てどのように思うでしょうか。

 決して「あの家は環境に配慮しているな」とは思いません。むしろ、「買うときに税金で補填してもらっているな。うまいもんだ。」と思うでしょう。おまけに、その家の太陽電池で発電される電気を自分の家だけで使うのです。

 このように、「みんなで我慢する」という環境の基本を忘れて、自分のために税金をもらっているのに、本人は環境に良いことをしているという状態が生じるのは、太陽電池を使うことが環境に良いと本人が錯覚しているからで、悪げはないのです。

 この矛盾は、もし太陽電池が本当に環境に良い発電であり、日本の家庭がこぞって太陽電池を使うようになった時のことを考えるとただちに判ります。ほとんどの家庭が太陽電池をつけると補助金はでません。税金を出す人がいなくなるからです。つまり太陽電池の補助金は、太陽電池をつけること自体が特別な状態でなければ成立しない、それは「環境」という考え方と正反対なのです。

 まれには、太陽電池をコストや補助金をもらおうというのではなく、純粋な環境問題としてとらえている人もいます。

 その一つの理由が、石油が無くなったとき太陽電池で電気を作らなければならないと考えているからです。しかし、それは単なる「希望」であって、「現実」にはなりえません。

 なぜなら、「太陽電池のシステムを作るために必要なエネルギーは、太陽電池から得られる電気より多い」からです。

 つまり、屋根に据えた太陽電池は、据えつけてから廃棄されるまで「一生かかっても」、その太陽電池を作るためのエネルギーを作り出せないのです。

 その結果、「もし日本に石油が輸入できなくなったら」ということを考えると、最初に発電ができなくなるのは、石油を使う石油火力発電ではなく、石油を使わない太陽電池という皮肉な結果になるのです。

 少し、言い方が悪いのですが、これは「すねかじりの論理」と言えるものです。

 親のすねをかじっている息子は何でも親が買ってくれると信じています。例えば、車を買ってもらうときでも、息子の関心は車の性能やスタイル、そしてガソリンの燃費です。車は親が買ってくれるので、むしろ車の代金は高い方が良いくらいです。

 ところが、その息子も自分が親になり、家計を心配しながら車を買うときは別です。ガソリン代も問題ですが、車の代金、寿命、税金、保険などを全部考えて車を買います。もし、セールスマンが「ガソリン代だけ考えれば良いでしょう」と言ったとしたら、むしろあきれるか怒るのではないかと思います。

 環境問題を複雑にしているものにこの「すねかじりの論理」があるのです。それは「目に見えるものだけを注目する」ということでもあり、また「全体を考えずに、自分に関係することだけを重視する」ということでもあります。

 すでに何回か指摘しましたが、環境とは「全体」であり、決して「個別」や「部分」ではありません。そして「わたしには全体は判らないので、部分的にでも貢献できれば」という善意がかえって環境を悪化させることが多い、その一つの例なのです。

 また、「将来、太陽電池の効率が上がって、石油火力より良くなるかも知れない」「大量生産しなければコストがさがらない。下がらなければ実用化しない」などの説明を信じている人もおられると思います。

 すでに太陽電池の研究はかなり進んでおり、大きな会社が取り組んでいることもあって、将来見通しや大量生産して採算に合うかについては、太陽電池のメーカーの重役は良く判っています。

 それに、本当に太陽電池が見込みがあるとすると、なにも税金で応援しなくても日本の電力会社が太陽電池の発電所をつくりだすでしょう。日本の電力会社は電気の安定供給に全力をあげています。経営も良心的です。もし、太陽電池が「無料、無限、無公害」で国民のためになるなら、電力会社はなにも好きこのんで、外国から石油を買って電気をおこすことはしません。ただちに、太陽電池に切り替えるはずだからです。

 太陽の光はタダですが、「タダより高いものはない」ということでしょうか。

 ずいぶん長い間、太陽電池の研究や実用化には税金が投入されて来ました。もう、このへんで太陽電池を開発する方も税金に頼るのをやめて、本当に日本のために役立つ太陽電池を自分の力で開発をして欲しいと思います。もともと「環境」と「税金」はなじまないのです。そして、そのように決意をすれば、「太陽電池が良い」と主張しなくても、自ずから太陽電池が使われるようになるでしょう。

 良いことを行ってる人でも、「わたしは良いことをやっています」と言った途端、その人の善行はすっかり色があせるのと同じように、「環境」とは、人にたいして「わたしは環境に貢献しています」と宣伝するものでもなく、また、「わたしだけが税金をもらって環境を守っています」というものでもありません。

 すっきり行きたいものです。